陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

安達としまむら アニメ特典小説⑴『Chito』

 

 

※ネタバレありの記事です。

 『安達としまむら』のアニメDVD特典小説の感想を順番に書きたい。というわけで、まずはDVD第1巻に付属している小説『Chito』の感想から。

 とりあえず全体の感想としては、「やりたい放題やってるなあ」というものだった。

 本編ではまだ高校生の安達としまむらだが、この特典小説ではふたりが社会人となって同棲している姿が描かれる。これは既に本編の8巻で明らかにされている展開だが、アニメではふたりのお泊まり会までしか話が進んでいないため、原作を知らずにアニメから入ったファンには盛大なネタバレになっている気がする。

 しかも物語は本編とは遠く離れた、しまむら達と別の世界、社会が崩壊した世界を見知らぬ女の子が宇宙人のヤシロとさまようシーンから始まるのだ。「チト」という名の少女とヤシロの会話からすると、これは地球とは別の惑星を舞台としており、しまむらたちとは三千七百年ほどの時間の開きがあるそうだ。

 この百合小説としては余分に思えるSF要素、このへんのクセの強さが入間人間らしいと言えばらしいが、あまりにもアニメから入った読者に優しくない。まあ、この別の世界の話は数ページで中断し、あとは安達としまむらの社会人百合を堪能できるのだが。

 この巻はふたりのラブラブカポォっぷり(by8巻)が最大の見どころである。ふたりの様子は高校生の時と変わっていない部分もあるが、些細なやりとりを通してふたりの親密さと過ごしてきた時間が伺える。入間人間はこういった描写がうまい。

 このしまむら達の同棲のラブラブっぷりは見どころしかない。

しまむらを抱き抱えて「げ、げんきー」と笑顔を浮かべる安達。

・仕事から帰宅した安達に膝枕するしまむら

・休日にしまむらの膝の間に座る安達。

 どれも一巻の、つまり出会って間もない頃のふたりの姿を踏襲している演出がにくい。そして今でも一生懸命であり続ける安達は偉い。

 そんな中でも自分が一番好きなのは、しまむらが夕食の献立を考える場面だ。

 

 うん、と一度頷いて。

「安達が好きそうなもの」

 安達が好きだと思えるものを増やしていく。

 頭にしまむらの、とつくものを、もっとたくさん。

 そういうのを考えていこう、これからのわたしは。

 

 

 食に対して(というより、しまむら以外の全てに対して)なんの執着も持たない安達のことを思って、自分の将来を決めるしまむら

 しまむらが安達のことをめっちゃ好きなことが伝わってきてたまらないし、しまむらはこういう風に安達を愛するのかと、ちょっと感動してしまった。

 そんな百合描写の合間に、しまむらは「わたしと安達に限った話じゃないけど、出会った意味がなにか残ればいいなって」というセリフを発する。

 ここから「出会いと別れ」をしまむらは人一倍大切にすること、そしてこれが特典小説のみならず、『安達としまむら』の重要なテーマであることに改めて気づかされる。

 やがて物語は安達としまむらの生活から、冒頭の三千七百年後の別世界をさまようチトとヤシロの場面に戻り、ヤシロから「しまむらさんとの約束」という言葉が出てくる。

 しまむらとヤシロは、どんな約束を交わしたのか。そしてチトの物語は安達としまむらの物語とどう関係するのか。これらの謎が物語を牽引し、次巻につながるのであった。

ミステリの感想その3

『殺人方程式』綾辻行人

 

 宗教団体の教主が、団体本部の隣のビルの屋上で首と左腕がない状態で発見される。なぜこんな場所で殺されているのか、そして犯人はなぜ被害者の体を切り刻んだのか?

 この謎に立ち向かうのは、後にシリーズキャラクターとなる双子の明日香井兄弟だが、正直言ってあまり好みのキャラではなかった。面白みを感じないというか。
 なので中盤の捜査パートもかなり早めに読み飛ばしていたが、しかし終盤になってからがすごかった。

 犯人はなぜ首を切らなければならなかったのか。その動機に驚かされ、さらに序盤から巧妙な伏線が用意されていたことに二度驚かされる。単なる「出来の良いパズル」に収まらない、物語の奥行きに綾辻行人の志の高さを感じる。

 そしてラストには、さらなるサプライズが用意されている。最後の謎が解決され、残るのはある人物の胸に秘められた真相と明けることのない悪夢。この一筋縄ではいかない読後感が魅力的だ。

 

時計館の殺人綾辻行人

 

 館シリーズを代表する作品だと聞いていたが、たしかに面白い。傑作である。
 『十角館の殺人』に比べ、時計で埋めつくされた館や霊能力者や降霊術など、オカルト的志向がより高まっている。「いかにも」な舞台仕掛けや展開が楽しく、それらが名探偵の知恵で解体されていく様に快感がある。
 長い物語だが展開は中弛みせず、物語は速度を保ったまま進行する。あまりにバタバタ人が殺されていくので犯人が絞りやすくなっているが、それを物ともしない終盤の展開がすごい。
 伏線も巧みで、特に被害者が何に驚愕していたのか? という謎が読者の興味をひっぱる。
 本書の大技は直感的に予測することも可能かもしれない。しかしその程度の読者の予感では損なわれない魅力と緻密さがあり、さらにトリックが単なる設定ではなく、物語のドラマにある種の官能性を持って貢献していることが素晴らしい。
 物語の怪奇性や幻想性が名探偵の手によって破壊される。視覚的でもある破壊の様子には派手な痛快さと物悲しさが両立している。長尺な謎の物語の、グランドフィナーレにふさわしい終わり方だった。

ミステリ感想その2

すべてがFになる森博嗣

 

 

 超有名作であり、ファンも多いシリーズであるが、どういうわけか自分には合わなかった。
 冒頭、物語は天才科学者と主人公の一人である、女子大生の会話から始まる。この科学者の言葉の一つ一つが刺激的で期待が高まるが、結局はここが一番の盛り上がりだった気がする。
 主人公たちがどうも好きになれず、恋の鞘当てがうっとうしい。

 才能ある科学者たちが生活し、研究生活を行う島。そこを舞台とした密室殺人というシチュエーションは魅力的だが、側では学生たちがキャンプしていたり、予想ほど切迫しておらず呑気な雰囲気だ。それに名前のついたキャラが少ないため、割とこじんまりとした印象を受ける。
 自分は完全な文系人間なので、科学者である主人公たちの含蓄のある言葉には凝り固まった価値観を揺さぶるような面白さを感じたが、これなら小説でなくてエッセイでも良い。
 トリックには「なるほど」と思わされるが、動機の部分ではモヤモヤしてしまった。犯人はある想定外をきっかけに殺人を決行するのだが、そんな想定外をあの人物が察知できないのか? ハッタリを効かせすぎて変になっているような気がする。
 とはいえ、自分は「すべてがFに」の真相を説明されてもよくわからなかったりする低脳なので、もっと頭の良い人が読めば納得するのかもしれない。
 結局、作者は真賀田四季という天才科学者を書きたかったのだろう。確かに魅力的なキャラなのだが、ストーリー自体がどうにも合わなくて残念。

 

『人形はなぜ殺される』高木彬光

 

 

 こちらも本格ミステリのオールタイムベストに名前が挙がるような有名作。
 作者の高木彬光は本作のトリックにかなりの自信があったようで、「読者への挑戦」が二度も挿入される気合の入りようである。そこでの古めかしく、大袈裟な言い回しの啖呵が素晴らしい。

<筆者の投げる手袋は、「人形はなぜ殺される?」>

だが、殺人のメイントリック、その方法と動機は読んでてほぼ完璧に分かってしまった。しかも名探偵より早く。こんなことは自分には珍しい。そのため、やはり作品の評価も辛くならざるを得ない。

 むしろ「切り取った首をどう始末したか」という方が意外なうえに禍々しく、面白かった。

 名探偵の神津恭介は、特徴がマシマシされているせいで、むしろ没個性的になっている。その天才性がもっと誇張されていた方が面白かったかもしれないのだが、人間的に苦悩するのが中途半端で、むしろキャラの魅力をスポイルしている気がする。

 ちなみに光文社文庫の解説にはメイントリックに関する若干のネタバレがあるため、注意されたい。

 

・・・なんだかクサしてばっかりの記事になったが、次回は面白かった作品の感想を。

『十角館の殺人』綾辻行人

 

 

 今年に入ってからミステリばかりを重点的に読んでいた。しかも新作とかではなく、ミステリファンなら読んでいて当たり前のような、そういった作品を。
 というわけで、しばらく読んだミステリの感想を書きたい。

 さて、『十角館の殺人』である。「新本格ミステリ」の始まりを告げる、綾辻行人の代表作。
 謎と怪奇のロマンに満ちたミステリへの帰還を高々に宣言する、あの有名な啖呵が楽しい。キャラクター達は若干記号的だが、むしろ読みやすく親しみも持てる。ここらへんは「有栖川有栖の『月光ゲーム』とは違うな」と思った。どうも有栖川有栖の書く大学生やリリシズムに、違和感を感じて馴染めない。対してこの作品の大学生には違和感がなく、エラリイの利発さと若さ故の傲慢さなど、カリチュアライズされたキャラがむしろ面白い。

 で、この作品といえば「あの一行」である。「世界が一変する驚愕」とか何とか言われているが、自分はそこまでの衝撃は感じなかった。
 というのも、自分は本格ミステリを読んでいる時はある程度犯人を当ててやろうという気で読んでいるのだが、今作では<サークルのあだ名は代々受け継がれている>という設定にひっかかり、「同じ名前だが、実は時間軸が違う」というトリックかと想像していたのだ。
 こんなものは推理でも何でもないわけだが、そんな想像をしていたためにあの一行が出たとき「これ、おれの推理当たったんじゃないか?」と勘違いして、だからもう少し読み進めて自分が勘違いしていることに気づいて、何だかんだ恥ずかしくなってそのまま衝撃がうやむやになってしまった。完全に自分のミスであるが、ポジティブに考えればそういった意味で得難い体験をさせてくれた本かもしれない。
 とはいえ、そんな一行など気にしなくても本作は面白い。いかにもミステリ的なガジェットが楽しく、さらに伏線や情報の提示が大胆で、改めて読むとその大胆さに驚かされる。
 不満をいえば、名探偵然として登場した島田潔(すごい名前だ)が、思ったより活躍しないことだけが残念か。

「安達としまむら」は硬派なんじゃないか論

 現在、アニメ『安達としまむら』が放送されている。
 コミカライズが原作を一部改作しているのに対し、アニメ版はより原作に忠実に映像化されていて、原作ファンの自分は大いに楽しんで見ている(もちろんマンガ版も十分魅力的だし、アニメは花咲太郎のくだりなどカットしても良かったと思うけれど)。

 とはいえ、世の中に完璧なものが存在しないのと同様、完璧なアニメ化も存在しない。
 自分もいくらかアニメ版には不満というか、違和感はある。ひとつはモノローグが多すぎること。せっかくの映像があるのに、これはもったいない。
 そしてもうひとつは、アニメ特有の演出についてである。
 たとえば一話で二人の乗る自転車が、湖のような水面の上を走るシーン。または公園で頭を撫でられているときに、イメージの中(?)で二人が裸になるシーン。要するに映像的な比喩表現の場面だ。


 アニメではよくある表現だが、今回はこういった演出にどうにも違和感を感じてしまう。
 どうも自分は「安達としまむら」はこういったアニメ的な比喩表現が似合わない、硬派な作品だと思っているようだ。
 いや、硬派というと言い過ぎかもしれない。もちろん「安達としまむらライトノベルだし宇宙人まで出るし、なんだばしゃぁしたりするのだが、それでも本質的には硬派なんじゃないかと、そう思っているのだ。

 では、その硬派な印象はどこから来るのか。
 安達もしまむらも、いろんなことについて考える。自分の置かれた現在の状況を分析し、自分にとっての最善を精一杯考え、行動する。入間人間のキャラたちは特に、そうやって考えることを大事にしているように思える。入間人間はサイコスリラー、能力バトル、ラブコメ、SF、百合などオールマイティに多ジャンルの作品を書いている。それらの作品に共通する「入間人間らしさ」をもたらすのは、この「思考の描写」を大事にするところではないか。
 また、入間人間がほとんどの作品を心理描写のやりやすい一人称視点で書いているのも、これが理由ではないか。

 プロットが地味な「安達としまむら」が読み応えのあるものになっているのは、この思考の描写が理由になっていると思う。
 安達はしまむらへの感情の正体について悩む。精一杯悩んで、そこから自分の中でひとつずつ、答えを出していこうとする。一方でしまむらも安達からの感情をどう捉えるか、その時の最善を目指す。自身を情に薄い人間と見なしながら、他人との間に生まれる温かいものへの価値を認め、安達との間に最善のものが生まれるよう、行動しようとする。
そして二人の思考は時にシビアさが宿る。夢見るだけではすまない、現実的な視点。
 安達はしまむらとの関係が歪であること、いつまでもしまむらの隣にいられないかもしれないことを意識している(特に原作の二巻の頃は)。
 しまむらも、自分が情の薄い人間であることを自覚しており、そのことが緩いキャラには異質ともいえる固い視線をもたらしている。
 行動に至るまでのキャラの思考を大切に描写すること。その思考の根底に現実を見据えたシビアさがあること。この二点が、読み手である自分に硬派な印象を与えているのではないか。

(ちなみに入間人間の作品において、こういった特徴をもっとも備えているのは『やがて君になる』の外伝小説における佐伯沙弥香だと思う。折り目正しく、理性的な彼女は今度こそ失敗しないように、自分にとっての最善を常に考えながら行動する。)


 そして世界をカリチュアライズ化するアニメ的な抽象演出は、こういった原作の硬派さをいくらか変容させ、マイルドにしまっているのではないか。だからギャップが生まれてしまい、違和感を感じさせるのではないか。というようなことを思った。
 と、これまでアニメへの文句をたらたら書いてしまったが、だからといって「このアニメ化は失敗だ」なんて思っていない。大いに楽しんでいる。
キャラクターがかわいらしいし、役者たちの演技も上手くはまっていて原作の魅力も再確認できた。とくに一巻を締めくくる安達の言葉は、アニメで聞き返しても名文であり、原作でこの文章を読んでから自分はこのシリーズにはまりだしたことを思い出させてくれた。
 ‥‥じゃあ、この記事は何だったのかということになるが。

 

※この文章はアニメの第一話が放送された頃に書き始めたのだが、アニメ放送が終了した今になっての公開となってしまった。なので冒頭で「アニメが放送されている」などと、ズレたことを書いてしまっているが、直すのが面倒でそのままアップすることにした。

12月12日、ジョン・ル・カレが肺炎で亡くなった。

 89歳だった。
 大往生と言っていい年齢であり、最近では自叙伝や伝記が出版されたこともあって、いつしか自分の中でこういう日が来ることへの覚悟ができていた気がする。 
 初めて読んだル・カレの作品は『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』で、高校の図書館で借りて授業をサボって読んだ。

 

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 以前も書いたがこの本はフラッシュバックが多用される構成がわかりにくく、とにかくストーリーの筋を追うのに精一杯だった(ちなみに『ジョン・ル・カレ伝』によると、ル・カレはこの複雑なストーリーをプロットなしで書いていたようで、愕然とさせられる)。
 それでも音を上げずに読み切り、続いて『スクールボーイ閣下』から『スマイリーと仲間たち』を古本屋で集めて読み通すほどには熱中した。
 ところが、最近になって改めて『ティンカー、テイラー』と『スクールボーイ閣下』を読み直してみて、驚いたことに自分がストーリーをはっきりと理解できていなかったことに気づいた。いや、今でもリッキィ・ターがスマイリーの前に現れるまで何をしていたか(特にターのパスポートのくだりが)、よくわかっていないし、『スクールボーイ』の複雑なプロットについて、うまく説明できない。
 じゃあ、ストーリーがよくわかっていなかったのに、なんで自分はル・カレの小説を「おもしろいなあ」と思って読んでいたのか。『ティンカー、テイラー』等のどこに惹かれていたのだろうか?

 理由の一つとして、キャラや舞台の存在感、ル・カレ特有のワールドの匂いというのが挙げられるだろう。
 ル・カレの作品について思い起こすとき、作品を彩ったキャラクターたちの姿が鮮やかに蘇る。
 ネクタイの端でメガネを拭くスマイリーの内気さ。コニー・サックスの冗長なお喋りが時に神秘的なほどの知性を見せる瞬間。ソウル・エンダビーら官僚のスノッブな姿。そして彼らが歩き回るロンドンの湿った街の匂い。
 そういった一つ一つの要素が組み合わさって、「これぞル・カレ」という世界を構築している。

 二つ目はル・カレのストーリーテラーとしての確かな腕前にある。『ドイツの小さな街』では地味な聞き込みのシーンが多い。しかし終盤、証拠を詰め込んだカートとともに主人公、アラン・ターナーが大使館に現れるシーンでは、いよいよ真相に迫ったことを作者は高らかに宣言し、物語は俄然盛り上がる。  
 『ティンカー、テイラー』でスマイリーが丁寧な口調でトビー・エスタヘイスを追い詰め、秘密を暴いていく場面は数ある謎解きシーンでもピカイチの完成度だった。獲物をじりじりと追い詰めていくスリルと、謎が解明されていく快感。追い詰められるトビーの焦燥さえも読者に伝わってくる。
 『スマイリーと仲間たち』で単独行動を続けるスマイリーのもとに、かつての仲間たちが集まってくるシーン。ソ連のスパイマスターとの最終決戦に向けて、処女作『死者にかかってきた電話』から登場する老刑事まで登場するのには、読んでいて胸が熱くなる。
 聞き込みなど地味な展開の多いル・カレだが、ここぞという場面では鞭を振るい、物語は一気に躍動する。ル・カレは地味で読みにくいと言われがちだが、そのストーリーには他の作者では味わえない興奮が確かにあった。
 そしてこれらを支える、確かな文章力。

 一方でル・カレは社会派作家として扱われる面もあった。パレスチナ問題や少数民族への迫害、それにプレグジットなど現在進行形の問題を取り入れた作品が多い。もちろんこの社会派の面を軽く見るわけではないが、しかし自分がル・カレを読み続けた理由はそこにはなかった気がする。
 やはり自分にとってル・カレはおもしろい物語を書く作家だった、それに尽きるのかもしれない。

 もう一つ、自分がル・カレの作品に求めていたものがあった。漠然としているが、それは「痛恨の瞬間」とでもいうものだ。
 二重スパイの正体を知ったスマイリーが隠れ家の暗闇で、裏切りの巨大さと祖国への嫌悪に身を強張らせる。
 ジェリー・ウェスタビーがボロボロの体を車に押し込められ、自身の師匠であるスマイリーの欺瞞にささやかに反論する。
 愛する夫であり、仲間であった者の裏切り。その背徳の軌跡を辿る人間たちが、思いもよらなかった人生の奈落に陥る、その瞬間。
  裏切り、スパイ、諜報の世界が人間に消えない傷を残す。その傷痕をル・カレは克明に記す。一生残るような傷痕、これこそ自分がル・カレを読み続けてきた理由なのかもしれない。

 ル・カレは現役の作家として、意欲的な作品を生み出し続けた。『スパイたちへの遺産』では『影の巡礼者』で読者の前から去ったスマイリーとギラムを復活させ、彼らのスパイ活動のいく末を、つまりル・カレが書き続けてきたエスピオナージュの集大成を描き切った。
 最後の作品となった『スパイはいまも謀略の地に』では、プレグジットという現在進行形の出来事を作品にとり入れ、絶望な状況下での鮮やかなハッピーエンドを、巨匠としての余裕を持って描いた。
 もう、その作品が読めない。覚悟はできているはずだった。それでも、ル・カレの新作が発表されないことへの重さが、今になってじわじわと自分にのしかかってきている。

 

 

※追記

 この後の2021年の12月に、ル・カレが死の直前まで書き進めていた『シルバービュー荘にて』が刊行された。

 

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渾身の変化球『スパイはいまも謀略の地に』/ジョン・ル・カレ

 

スパイはいまも謀略の地に

スパイはいまも謀略の地に

 

  前作『スパイたちの遺産』がこの作者の総決算のような刺激的な作品だったのに対し、今作は全体的にマンネリズムの感がある。
 それでもさすがル・カレだけあって標準以上の面白さはあるのだが、たとえば本作の売りであるプレグジット(EU離脱)下のイギリスを舞台にしている点について。
 ル・カレはキャラの言動を借りて離脱反対の意見とともに、トランプやプーチンへの怒りを強く表明する。ヨーロッパの協調を乱し、新たな戦いを生むことへの憤り。ル・カレの怒りは激しく、読んでる方にもつよく印象に残るが、しかしベルリンの壁をクライマックスでこれ以上ないほど効果的に取り入れた『寒い国から帰ってきたスパイ』や、東アジアの動乱を克明に記述した『スクールボーイ閣下』を思えば、今作はプレグジットという未曾有の事態を小説世界に大胆かつ効果的に取り入れるところまではいっていない(もっとも、これは自分の世界情勢への見識がかなり乏しいせいかもしれないが)。
 主人公のナットは家庭と情報部との間で板挟みとなり、その周囲には正義感の強い潔癖な女性、さらに国家の理念で個人を蹂躙する同僚や上司たちがいる。こういったキャラクターの配置はル・カレの最近のパターンであり、新鮮さがない。たしかに二重スパイとしてイギリスに協力していたロシアの元スパイをナットが尋ねるあたりは盛り上がるのだが、それさえも既視感があった。

 というわけで、ある若者が正義感によって国に反旗を翻し、他国へ機密情報をリークしようとする重要な場面でもワクワクせず、「いつものル・カレのパターン」に収まるんだろうなと予測しながら読んでいた。つまり、個人の正義や信念が国家の利益によって引き裂かれるのだろう、と。


 ところが、ある地点から物語は転回を始め、どんどん予測を外れていってしまう。このあたりから本作は「いつものパターン」を打ち破り、生き生きと躍動し始める。
 この展開に驚き、戸惑いながら脳裏をよぎったのはル・カレの過去作『影の巡礼者』に収められた、スマイリーとカフリンクスをめぐるエピソードのことだった。
 『影の巡礼者』はこの作者には珍しい連作短編の形をとっており、『ロシアン・ハウス』に登場したSISのスパイ、ネッドが新人スパイの研修のため、かつてのSISのチーフであり、ル・カレ最大のシリーズキャラクターであるジョージ・スマイリーを招いて皆の前で講習会を開くというストーリーだ。そこでスマイリーの含蓄ある言葉とネッドの回想が交互に紡がれることにより、冷戦の経過とそこで戦ったスパイの半生が語られる。
 カフリンクスの話は物語の中盤にある、ごく短い話だ。絶望的な境遇にいる老人のために、スマイリーは自分のカフリンクスを使って、ささやかな秘密作戦を行う。それはエスピオナージュの神話が、またぞろ無能や裏切りの物語を糊塗するために使われるのでなく、めずらしく一老夫婦の夢を壊さぬ」ために、つまり一個人の幸福のためのスパイ活動であった。


 ここにきてようやく、ル・カレはこのエスピオナージュの幸福な実現を現代で、しかもプレグジットで揺れ、先行きの暗い今のイギリスで再現しようとしていることに気づく。
 スマイリー、ジム・ウェスタビー、アレック・リーマス、かつてのル・カレの主人公たちが叶えられなかった幸福と正義。それを今作のごく平凡な中年スパイである主人公が、国の身勝手な倫理観や冷酷さを出し抜いて達成しようとする。そのきっかけは愛する妻との絆であり、不正を憎み、愛すべき者の幸福を願う、そういった平凡で健全な信念のためだ。歴代の主人公の中で、最も無個性に思えたナットが生き生きと活躍しはじめたとき、気づけばマンネリズムは消え去っている。
 二人の若者のため、巨大組織を相手に秘密作戦を決行する痛快さ。そのクライマックスの舞台が結婚式である愉快さ。
 これは決してありがちなハッピーエンドではない。スパイ小説の老巨匠が、社会やイデオロギーによって人々が引き裂かれる様を書き続けてきたル・カレがこれを書くからこそ、この物語の結末を大いに祝福することができるのだ。