陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『スマイリーと仲間たち』 ジョン・ル・カレ

 

 スパイ小説の歴史に名を残すスマイリー三部作。その完結編である本作で、ついにジョージ・スマイリーとソ連の伝説的スパイ、カーラとの因縁に決着がつく。

 物語はソ連からパリへ逃亡した老婦人が奇妙なロシア人と出会うという、いつもどおり物語と関係のなさそうな場面から始まる。ここから文庫本で四十ページほど、ソ連からの逃亡で痛めつけられ、家族を失った夫人の姿と、夫人が不信感を募らせていく様がじっくりと描かれる。この場面が物語とどう関わって来るかわからず、読者がいい加減しびれを切らしそうになるころ、ようやく主人公のジョージ・スマイリーが登場する。

 前作の『スクールボーイ閣下』でスマイリーは情報部を去り、市井の人として慣れない日常を送っている。そんなスマイリーが、ふたたびかつての上司によって呼び戻される。今回のスマイリーの任務はウラジーミル老人の死について調査することだ。老人はかつてバルト諸国から亡命し、その後イギリス情報部の協力者であった人物だ。情報部は老人の死が情報部とは何の関係もないことを証明するため、スマイリーに調査を命じた。ウラジーミルと既知の仲だったスマイリーは人間をたやすく切り捨てる情報部の官僚的な態度に怒りを覚えるが、依頼を承諾して調査を始める。

 殺害現場とウラジーミルの自宅へ向かい、生前の行動を探るうちに、老人が何かをスマイリーに渡そうとしていたことがわかってくる。しかもその品物がスマイリーの宿敵であるカーラと関係があるようだ。

 

 前作『スクールボーイ閣下』でのスマイリーはあくまで情報部トップの司令官として活動していたが、今作のスマイリーは市井の人であり、情報部の庇護を受けていない存在だ。そんな孤立無援の存在でも、スマイリーは現地工作員として単独行動を行う。自らの足で歩き回り、各国を飛び回り活躍する様は処女作の『死者にかかってきた電話』のころを思い起こさせ、感慨深い。

 カーラが隠そうとした秘密を追求するため、例によってスマイリーは各地を飛び回って調査を進めるが、それはあたかも大英帝国の腐敗をたどるダークツーリズムのようだ。冷戦とスパイ活動を通じて英国が残した負の遺産。カーラを倒すための鍵は、そんな冷戦に身を投じ、肉体も精神も滅ぼしていた者たちの屍の上にあるのだ。正しいものが裏切られ、間違った者がはびこる歪んだ世界の中で、朽ちていった者たちの下をスマイリーは巡っていく。

 

 そのうちの一人、コニー・サックスとの再会は今作のハイライトのひとつだ。冷戦の果て、国への忠誠の果てに何が待っているか。ル・カレは三部作のもう一人の主人公とも言えるコニーの姿をもって神々しく、ときに冷酷に描く。

 スマイリー三部作全ての作品に登場したコニーだが、今作ではかすかに残っていた若々しさも失い、その姿はとても痛々しい。肉体の衰えに精神も蝕まれそうになっている彼女が、最後の力でカーラ追跡のための情報をスマイリーに語る場面は壮絶である。

 しかし、スマイリーは復帰した現役のスパイとして、嘘とまやかしの態度でコニーに接する。そしてコニーの長年国に尽くしてきた忠誠に、スマイリーがとどめを刺す。ギクシャクしたままの別れはもう二人が会うことはないのを予感させ、とても切ない。

 さらにスマイリーはアンとも再会する。『死者にかかってきた電話』からここまで名前だけで一度も登場しなかったあのアンが、ついに読者の前に姿を表すのだ。

 スマイリーにとってアンは常に光と陰の存在であった。そんなアンとスマイリーは、まるで自分たちの傷跡を確認するかのように空疎な会話を繰り返す。スマイリーは彼女との再会で自分たちの愛情がすでに潰え、何も残っていないことを確認する。宿敵のもたらした愛情の破滅をもう一度認めた上で、決着をつけるためにスマイリーは仲間を集める。

 

 カーラを倒すために、スマイリーの下にかつての仲間達が集う。過去の作品にも登場した懐かしい人々の中で、最も印象に残るのはトビー・エスタヘイスだろう。情報部を追われ、胡散臭い美術商として生計を立てていたハンガリー人の小男はスマイリーの指示の下、現場工作員として縦横無尽に動き回る。その生き生きとした活躍を見ていると、スマイリーの相棒はピーター・ギラムよりもトビーの方がふさわしいのではと思うほどだ。

 

 そうしてトビーたちが動き回る間、スマイリーの心理は読者に伏せられる。スマイリーの思考や態度は周りの人たちの視点で描写されるだけで、極端に内省的に振る舞う。

 このときのスマイリーはスパイ戦のプロフェッショナルとして、いつも以上に厳しい姿を見せる。スマイリーは全ての因縁を清算するため、それまでの人間的な姿は影を潜めてしまう。

 

 そしていよいよ、スマイリーとカーラは再び出会う。

 再会の場はあのベルリンの壁だ。

 自分は今まで読んだ小説の中でも『スクールボーイ閣下』のラストシーンが最も好きだが、『スマイリーと仲間たち』のラストもかなり印象的だ。

 最大の勝利の中で、スマイリーは最後の一線を越える。『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』から続いたカーラとの因縁に決着がつくとき、スマイリーの中では相反する感情が絶えず渦巻いている。

 最大の勝利の瞬間、スマイリーは最も憎んだ相手と同じ地点に立つしかない。

 全てが終わり、ベルリンの壁から皆が去った後、ただ一人スマイリーだけが壁の前に佇む。

 いや、彼一人ではない。ピーター・ギラムがスマイリーの肩に手を置き、声をかける。

『死者にかかってきた電話』からこの三部作まで、スマイリーの助手として活躍してきたギラムは、最後までスマイリーのそばにいた。

 

 そしてスマイリーは一言で、これまでの闘いを締めくくる。それは流された血を思えば、あまりにも控えめな言葉だった。