陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』ジョン・ル・カレ

 

 

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)

 

 

 スパイ小説のマスターピースであり、輝かしい「スマイリー三部作」の最初を飾る記念すべき傑作である。しかし、このころからジョン・ル・カレの小説はプロットが複雑化し、読みにくくなっていく。この複雑さは本作と同じく「愛と裏切り」をテーマとした『寒い国から帰ってきたスパイ』には見られなかったものだ。

 ちなみにこの小説は映画化されたが、映画を見たカズオ・イシグロはストーリーの筋がわからないと村上春樹にこぼしたそうだ。いくらかプロットを剪定し、すっきりさせた映画でさえこうなのだから、いかに原作が複雑かわかるだろう。

 

 イギリス情報部の元スパイ、ジョージ・スマイリーがかつての上司に呼び戻される。情報部を裏切り、イギリスの情報をソ連に流している二重スパイがいるというのだ。スマイリーはその二重スパイを割り出すため、秘密の調査を開始する。調査を進めると、情報部のかつてのトップだった“コントロール”が謎の極秘作戦を行なっていたこと、そして裏切り者の「モグラ」は現在の情報部のトップにいる四人のうち誰かだということが判明する。しかもその背後にはスマイリーと因縁のあるソ連情報部の伝説のスパイ、カーラの影が感じられた。

 はたして「モグラ」は何者なのか。コントロールの作戦とはなんだったのか。懸命の調査の末に、スマイリーは自身をも巻き込んだ巨大な陰謀に直面する。

 

 それにしても、本作のストーリーはなぜこんなにもわかりにくいのか。

 その原因の一つとして、読者に注意力と記憶力を強いるル・カレの文章スタイルが考えられるだろう。

 物語は小学校にジム・プリドーという教師が赴任し、ビル・ローチ少年と出会う場面から始まる。続いてシーンは切り替わり、主人公のジョージ・スマイリーがかつての上司に呼び出され、調査を依頼される場面に移る。元同僚のピーター・ギラムが運転する車で上司の家に向かう途中、スマイリーは尋ねる。「エリスに関するニュースは?」

 実はこの「エリス」とはジム・プリドーのコードネームであり、プリドーはある作戦の失敗によりスマイリーと同時期に解雇された元スパイなのだ。しかし、エリスの名前が出てからその正体がわかるまでに七十ページほどかかる。それまで読者はエリスとは何者なのか、序盤の小学校教師がストーリーにどう関わってくるのかわからないまま読み続けなければならないのだ。このように「意味ありげな言葉の意味が後半になってわかる」という場面がル・カレの小説には多い。

 加えて探偵役を務めるスマイリーと、読者の思考がシンクロすることが極めて少ない。スマイリーがそのとき何を考えているか、いちいち説明されない。

 なので、スマイリーがかつての関係者たちに聞き取りを繰り返すときも、その相手がどう事件に関わっていたのか、読者はなかなかわからない。スマイリーの真意が何であるか考え続けなければならず、それが読み手の体力を消耗させてくるのだ。

 さらに作中ではフラッシュバックが多用される。スマイリーは情報部に残された資料を読み返し、さらに自分の記憶とのすりあわせを繰り返す。現在の場面とスマイリーの記憶の場面が入り混じり、時系列も複雑になっていく。現在と過去を行ったり来たりするうちに今読んでいるのはいつの話なのか、曖昧になっていく。

 おまけに現在と過去の間に無数の人名がちりばめられているため、余計に混乱してしまう。

 久しぶりに本書を読み返していたとき、スマイリーとジム・プリドーが再開した場面ではたと読む手を止めた。文章中に『スティード・アスプレイ』という見覚えのある名前がでてきたが、この男が何者だったかどうしても思い出せないのだ。どこかのシーンでこの名前が出て来たはずだが、どこだったかわからない。スマイリー以前の世代のスパイだったはずだが、どこでこの名前を見たのか。

 実はこのスティード・アスプレイ、次作『スクールボーイ閣下』にも名前だけ登場していたのを発見した。また、ネットの情報によると過去作『ドイツの小さな町』にも登場しているそうだ。こうなると無性に気になって来て、シリーズをもう一度読み返そうかといいう気になってくる。

 

 以上のように、この小説は読者の注意力と記憶力をフル回転させて読まなければ、話の筋を追うのが難しい。実を言うと、何度も読み返した今でもスマイリーがどうやって二重スパイを特定したか、いまいち理解できていない。自分の貧弱な頭脳が悲しい。

 

 自分が初めて本書を読んだときも、ストーリーをあまり理解できなかった。複雑なプロットを追いかけるのがやっとで、物語の細部まで味わうことはできなかった気がする。

 ではつまらなかったのかというと、むしろ面白かった。細かい部分を把握できなくとも、一つ一つのシーンに興奮し、夢中になって読んだ。

 この作品の文章の密度、人間達のドラマは傑作『寒い国から帰ってきたスパイ』を凌駕する。多少ストーリーがわかりにくくても、ぐいぐい読ませるだけの力がある。

 

 「二重スパイは誰か?」というのが物語の主題だが、実はその正体に意外性はない。というのも「一番怪しい人間が犯人」なのだ。そこにミステリーの犯人当ての面白さはない。

 しかし、これがリアルなのかもしれない。ル・カレ自身が半生を綴った『地下道の鳩』にニコラス・エリオットの興味深いエピソードが登場する。エリオットは実在した二重スパイであるキム・フィルビーの上司であり友人だった男だ。エリオットはフィルビーこそが裏切り者であり、長年に渡って自分たちを欺いていたことを知りながら、それを指摘しようとせず、むしろフィルビーが疑いから逃れられるように手助けしたという。これは「モグラ」の正体に薄々気づきながら、気づいていないふりをしていた本作の登場人物たちと重なって見える。あまりにも大きな裏切りに直面したとき、人間はそういう行動を取るものなのかもしれない。

 この作品では、裏切られた人間たちの姿があますところなく描かれる。スマイリーが調査によって直面するのは、スパイたちの忠誠心の亡骸だ。スマイリーの愛情は妻のアンに裏切られるし、ジム・プリドーをはじめ、国のために働いたスパイたちはその国によって忠誠を裏切られる。ル・カレは確かな観察眼で、裏切りが何をもたらすか、裏切られた者たちに何が残るかを全編を通してじっくりと描き出す。

 ジム・プリドーはスマイリーの前で忘れようとしてきた情報部への不満、憤怒をぶちまける。国から切られたスパイは裏切りによってえぐられた傷跡を抱えたまま、誰にも知られないまま苦しみを隠すしかない。

 スマイリーが二重スパイの正体を探ろうとするとき、それは見えないところに埋まっていた愛と裏切りの歴史を掘り起こすことでもある。スマイリーとアン、プリドーとビル・ヘイドン、そしてスマイリーとカーラ。彼らの何年も前から続く因縁が紡ぐ糸を、手繰るとき、その糸は人々の間に沈んでいた、見たくもなかった黒い錘につながっている。

 

 そうして張り巡らされた糸をたどりながら、いよいよスマイリーとギラムのコンビは「もぐら」の正体に近づいていく。真相への最後のピースを得るためにトビー・エスタヘイスを尋問するシーンはこの小説のハイライトの一つである。大物としてふるまっていたトビーを、スマイリーは慇懃無礼なまでに穏やかな口調でなぶるように追い詰めていく。ここではスマイリーのスパイとしての腕前、冷酷さがいかんなく発揮されている(ちなみに、このシーンは村上博基訳よりも菊池光訳の方がスマイリーのいやらしさがよく出ていると思う)。

 だが、二重スパイとの対決に完全な勝利を収めかけたスマイリーは、最後に大きな衝撃を味わう。

 全ての元凶となったもぐらの正体に気づいた瞬間、全編通じて冷静だったスマイリーは初めて感情を爆発させる。自身の内側で嫌悪、怒り、共感など、国やスパイたちに向けての抑えきれない感情がほとばしった後、スマイリーはただ立ち尽くすしかない。裏切り者の真の罪深さが露呈される瞬間、ここは何度読んでも興奮させられる。

 

 ちなみに、本作の次にグレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』をつづけて読むと面白いかもしれない。こちらも二重スパイをテーマにした小説だが、『ティンカー、テイラー』とは読後の印象が大きく異なる。

 『ヒューマン・ファクター』の主人公は他国との友情に従って裏切りを行う思慮深い男だ。対してル・カレが描く「もぐら」は習慣的な裏切りの行為に暗い喜びを覚えるような人間だ。

 キム・フィルビーと実際に友人だったグリーン。対してフィルビーを人格ごと嫌悪したル・カレ。二人が国を裏切ったスパイへ向ける視線はかなり異なり、それが小説にも反映されているのだろう。『ヒューマン・ファクター』も傑作なので、ぜひ読み比べてほしい。