陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

「安達としまむら」は硬派なんじゃないか論

 現在、アニメ『安達としまむら』が放送されている。
 コミカライズが原作を一部改作しているのに対し、アニメ版はより原作に忠実に映像化されていて、原作ファンの自分は大いに楽しんで見ている(もちろんマンガ版も十分魅力的だし、アニメは花咲太郎のくだりなどカットしても良かったと思うけれど)。

 とはいえ、世の中に完璧なものが存在しないのと同様、完璧なアニメ化も存在しない。
 自分もいくらかアニメ版には不満というか、違和感はある。ひとつはモノローグが多すぎること。せっかくの映像があるのに、これはもったいない。
 そしてもうひとつは、アニメ特有の演出についてである。
 たとえば一話で二人の乗る自転車が、湖のような水面の上を走るシーン。または公園で頭を撫でられているときに、イメージの中(?)で二人が裸になるシーン。要するに映像的な比喩表現の場面だ。


 アニメではよくある表現だが、今回はこういった演出にどうにも違和感を感じてしまう。
 どうも自分は「安達としまむら」はこういったアニメ的な比喩表現が似合わない、硬派な作品だと思っているようだ。
 いや、硬派というと言い過ぎかもしれない。もちろん「安達としまむらライトノベルだし宇宙人まで出るし、なんだばしゃぁしたりするのだが、それでも本質的には硬派なんじゃないかと、そう思っているのだ。

 では、その硬派な印象はどこから来るのか。
 安達もしまむらも、いろんなことについて考える。自分の置かれた現在の状況を分析し、自分にとっての最善を精一杯考え、行動する。入間人間のキャラたちは特に、そうやって考えることを大事にしているように思える。入間人間はサイコスリラー、能力バトル、ラブコメ、SF、百合などオールマイティに多ジャンルの作品を書いている。それらの作品に共通する「入間人間らしさ」をもたらすのは、この「思考の描写」を大事にするところではないか。
 また、入間人間がほとんどの作品を心理描写のやりやすい一人称視点で書いているのも、これが理由ではないか。

 プロットが地味な「安達としまむら」が読み応えのあるものになっているのは、この思考の描写が理由になっていると思う。
 安達はしまむらへの感情の正体について悩む。精一杯悩んで、そこから自分の中でひとつずつ、答えを出していこうとする。一方でしまむらも安達からの感情をどう捉えるか、その時の最善を目指す。自身を情に薄い人間と見なしながら、他人との間に生まれる温かいものへの価値を認め、安達との間に最善のものが生まれるよう、行動しようとする。
そして二人の思考は時にシビアさが宿る。夢見るだけではすまない、現実的な視点。
 安達はしまむらとの関係が歪であること、いつまでもしまむらの隣にいられないかもしれないことを意識している(特に原作の二巻の頃は)。
 しまむらも、自分が情の薄い人間であることを自覚しており、そのことが緩いキャラには異質ともいえる固い視線をもたらしている。
 行動に至るまでのキャラの思考を大切に描写すること。その思考の根底に現実を見据えたシビアさがあること。この二点が、読み手である自分に硬派な印象を与えているのではないか。

(ちなみに入間人間の作品において、こういった特徴をもっとも備えているのは『やがて君になる』の外伝小説における佐伯沙弥香だと思う。折り目正しく、理性的な彼女は今度こそ失敗しないように、自分にとっての最善を常に考えながら行動する。)


 そして世界をカリチュアライズ化するアニメ的な抽象演出は、こういった原作の硬派さをいくらか変容させ、マイルドにしまっているのではないか。だからギャップが生まれてしまい、違和感を感じさせるのではないか。というようなことを思った。
 と、これまでアニメへの文句をたらたら書いてしまったが、だからといって「このアニメ化は失敗だ」なんて思っていない。大いに楽しんでいる。
キャラクターがかわいらしいし、役者たちの演技も上手くはまっていて原作の魅力も再確認できた。とくに一巻を締めくくる安達の言葉は、アニメで聞き返しても名文であり、原作でこの文章を読んでから自分はこのシリーズにはまりだしたことを思い出させてくれた。
 ‥‥じゃあ、この記事は何だったのかということになるが。

 

※この文章はアニメの第一話が放送された頃に書き始めたのだが、アニメ放送が終了した今になっての公開となってしまった。なので冒頭で「アニメが放送されている」などと、ズレたことを書いてしまっているが、直すのが面倒でそのままアップすることにした。