陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

12月12日、ジョン・ル・カレが肺炎で亡くなった。

 89歳だった。
 大往生と言っていい年齢であり、最近では自叙伝や伝記が出版されたこともあって、いつしか自分の中でこういう日が来ることへの覚悟ができていた気がする。 
 初めて読んだル・カレの作品は『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』で、高校の図書館で借りて授業をサボって読んだ。

 

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 以前も書いたがこの本はフラッシュバックが多用される構成がわかりにくく、とにかくストーリーの筋を追うのに精一杯だった(ちなみに『ジョン・ル・カレ伝』によると、ル・カレはこの複雑なストーリーをプロットなしで書いていたようで、愕然とさせられる)。
 それでも音を上げずに読み切り、続いて『スクールボーイ閣下』から『スマイリーと仲間たち』を古本屋で集めて読み通すほどには熱中した。
 ところが、最近になって改めて『ティンカー、テイラー』と『スクールボーイ閣下』を読み直してみて、驚いたことに自分がストーリーをはっきりと理解できていなかったことに気づいた。いや、今でもリッキィ・ターがスマイリーの前に現れるまで何をしていたか(特にターのパスポートのくだりが)、よくわかっていないし、『スクールボーイ』の複雑なプロットについて、うまく説明できない。
 じゃあ、ストーリーがよくわかっていなかったのに、なんで自分はル・カレの小説を「おもしろいなあ」と思って読んでいたのか。『ティンカー、テイラー』等のどこに惹かれていたのだろうか?

 理由の一つとして、キャラや舞台の存在感、ル・カレ特有のワールドの匂いというのが挙げられるだろう。
 ル・カレの作品について思い起こすとき、作品を彩ったキャラクターたちの姿が鮮やかに蘇る。
 ネクタイの端でメガネを拭くスマイリーの内気さ。コニー・サックスの冗長なお喋りが時に神秘的なほどの知性を見せる瞬間。ソウル・エンダビーら官僚のスノッブな姿。そして彼らが歩き回るロンドンの湿った街の匂い。
 そういった一つ一つの要素が組み合わさって、「これぞル・カレ」という世界を構築している。

 二つ目はル・カレのストーリーテラーとしての確かな腕前にある。『ドイツの小さな街』では地味な聞き込みのシーンが多い。しかし終盤、証拠を詰め込んだカートとともに主人公、アラン・ターナーが大使館に現れるシーンでは、いよいよ真相に迫ったことを作者は高らかに宣言し、物語は俄然盛り上がる。  
 『ティンカー、テイラー』でスマイリーが丁寧な口調でトビー・エスタヘイスを追い詰め、秘密を暴いていく場面は数ある謎解きシーンでもピカイチの完成度だった。獲物をじりじりと追い詰めていくスリルと、謎が解明されていく快感。追い詰められるトビーの焦燥さえも読者に伝わってくる。
 『スマイリーと仲間たち』で単独行動を続けるスマイリーのもとに、かつての仲間たちが集まってくるシーン。ソ連のスパイマスターとの最終決戦に向けて、処女作『死者にかかってきた電話』から登場する老刑事まで登場するのには、読んでいて胸が熱くなる。
 聞き込みなど地味な展開の多いル・カレだが、ここぞという場面では鞭を振るい、物語は一気に躍動する。ル・カレは地味で読みにくいと言われがちだが、そのストーリーには他の作者では味わえない興奮が確かにあった。
 そしてこれらを支える、確かな文章力。

 一方でル・カレは社会派作家として扱われる面もあった。パレスチナ問題や少数民族への迫害、それにプレグジットなど現在進行形の問題を取り入れた作品が多い。もちろんこの社会派の面を軽く見るわけではないが、しかし自分がル・カレを読み続けた理由はそこにはなかった気がする。
 やはり自分にとってル・カレはおもしろい物語を書く作家だった、それに尽きるのかもしれない。

 もう一つ、自分がル・カレの作品に求めていたものがあった。漠然としているが、それは「痛恨の瞬間」とでもいうものだ。
 二重スパイの正体を知ったスマイリーが隠れ家の暗闇で、裏切りの巨大さと祖国への嫌悪に身を強張らせる。
 ジェリー・ウェスタビーがボロボロの体を車に押し込められ、自身の師匠であるスマイリーの欺瞞にささやかに反論する。
 愛する夫であり、仲間であった者の裏切り。その背徳の軌跡を辿る人間たちが、思いもよらなかった人生の奈落に陥る、その瞬間。
  裏切り、スパイ、諜報の世界が人間に消えない傷を残す。その傷痕をル・カレは克明に記す。一生残るような傷痕、これこそ自分がル・カレを読み続けてきた理由なのかもしれない。

 ル・カレは現役の作家として、意欲的な作品を生み出し続けた。『スパイたちへの遺産』では『影の巡礼者』で読者の前から去ったスマイリーとギラムを復活させ、彼らのスパイ活動のいく末を、つまりル・カレが書き続けてきたエスピオナージュの集大成を描き切った。
 最後の作品となった『スパイはいまも謀略の地に』では、プレグジットという現在進行形の出来事を作品にとり入れ、絶望な状況下での鮮やかなハッピーエンドを、巨匠としての余裕を持って描いた。
 もう、その作品が読めない。覚悟はできているはずだった。それでも、ル・カレの新作が発表されないことへの重さが、今になってじわじわと自分にのしかかってきている。

 

 

※追記

 この後の2021年の12月に、ル・カレが死の直前まで書き進めていた『シルバービュー荘にて』が刊行された。

 

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