陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

54年後の爆弾『死者にかかってきた電話』(1)/ジョン・ル・カレ

 当時、イギリス情報部の現役スパイであったジョン・ル・カレはこの作品で作家デビューを果たした。
 物語の舞台となるのはドイツが東と西に分かれていた、冷戦下のイギリス。情報部のスパイ、ジョージ・スマイリーは外務省職員の謎の死を調査する。事件の裏には東ドイツのスパイたちの影が見られるが、イギリス情報部は事件を自殺として幕を引こうとする。組織から見放されたスマイリーは単独で調査を続行するが、敵スパイたちの凶手はスマイリーにも向けられ──。
 デビュー作のため、のちのル・カレ特有の複雑なプロットも見られず、あらすじだけ見ると本書はオーソドックスなスパイ小説に思えるかもしれない。
 一方でル・カレの作家人生において、このデビュー作はかなり語るべきところの多い小説である。後の代表作と深く関係している物語であるうえに、ル・カレという作家の個性が強く表れている作品でもある。
 では、ジョン・ル・カレとはどういった作家だったのか。
 簡単に言えば「社会の問題を扱うアフォリズムの作家である以前に、第一級のミステリ作家」。それがジョン・ル・カレである。
 
 『死者にかかってきた電話』において、スマイリーは敵対するスパイに2度も命を狙われる。1度目はスマイリーの機転によってことなきを得たが、2度目の襲撃では大怪我を負ってしまう。
 ここで注目すべきポイントは中盤、このスマイリーを襲撃したスパイの名前がハンス=ディーター・ムントだと判明する場面である。実はこのムントとは、続編『寒い国から帰ってきたスパイ』における最重要人物なのだ。
 『死者にかかっていた電話』の事件後、東ドイツで出世したムントは情報部のトップとして辣腕を振るい、イギリス情報部にとって最大の敵として君臨している。このムントを失脚させるためにイギリスのスパイ、アレック・リーマスが刺客として送り込まれる──というのが『寒い国から帰ってきたスパイ』のストーリーだ。
 そんなムントの若い頃、現場工作員として活動していた『死者にかかってきた電話』でのムントとスマイリーの因縁は、『寒い国から─』の物語の背景として、さらに伏線として重大な意味を持っている。
 ネタバレを避けるために詳細には書けないが、このムントの凶暴な姿自体がル・カレの仕掛けなのだ。この姿を読者に印象付けることによって、ル・カレは後の『寒い国から─』のクライマックスで読者がより強い衝撃を受けるよう、設計して書いている。
 つまり、この『死者にかかってきた電話』は『寒い国から帰ってきたスパイ』の正当な前日譚であり、しかも作品自体が読者を欺く重要なトリックとして機能しているのだ。
(なので、現代の読者は『寒い国から─』をいきなり読むのではなく、発表順に『死者に─』から読まなければ『寒い国から─』の本当の面白さを理解できないと言えるかもしれない。大げさかもしれないが。)
 
 ただし、このような仕掛けをル・カレが初めから、つまり『死者にかかってきた電話』執筆中の段階で考えていたかというと微妙だろう。『死者に─』から『寒い国─』の発表まで数年がかかっているし、『ジョン・ル・カレ伝』によるとル・カレは事前に詳細なプロットを作らないらしい。
 おそらく『死者に─』を発表した数年後『寒い国─』に取りかかった際、この過去作に登場したムントを再登場させ数年越しの伏線として効果的に使うという、言ってしまえば後付けのアイデアが浮かんだのではないか。もちろん後付けと言えど、その発想力の価値は変わりない。
 
 注目すべきは『死者に─』がル・カレのデビュー作であり、『寒い国から─』はデビューからわずか三作目の作品であるということだ。そんなキャリアの若いうちからル・カレはこのような仕掛けを成功させていた。
 さらに、ル・カレはこの<過去作品を重要な伏線にする>メソッドを、最晩年の作品にも利用している。しかもル・カレはそこで、このような<企て>を一層ラディカルに先鋭化させているのだ。
 その作品とは『寒い国から帰ってきたスパイ』の正当な続編であり、スマイリーシリーズの最後の作品となった『スパイたちの遺産』である。
 
 『寒い国から─』が刊行されたのが1963年、『スパイたちの遺産』が2017年。約54年も前に書かれた小説を利用して、ル・カレはあるトリックを仕掛ける。
 『寒い国から─』のとあるシーンで登場したある人物について、それが読者のミスリードを誘う描写だったと『スパイたちの遺産』で初めて判明する。その手法は、もはや叙述トリックのようだ。なんと50年以上の時を超えて炸裂する叙述トリックという、途方も無いことをル・カレは企てた。
 
 しかし、このサプライズは作品を破壊する爆弾でもあった。
 『寒い国から─』の非情な世界の中で、唯一温かみのあった愛と慈しみ。しかしその裏に隠れた真実が『スパイたちの遺産』で明らかとなった時、全てが冷酷で巨大な陰謀の中に取り込まれてしまう。しかもそれは、シリーズの顔であり読者に最も愛された主人公、スマイリーの手によって為される。
 おそらく、『スパイたちの遺産』を読んだ読者が以前と同じように『寒い国から帰ってきたスパイ』を読むことはできないだろう。このトリックによってル・カレは『寒い国─』という物語において、もっとも人間的でナイーブな部分を破壊し、世界をガラリと変質させてしまった。そこにあるのは時に狂信的となる大義を振りかざす、そんなスパイたちのゲームに支配された世界だ。
 
 ただし、正直言ってこの仕掛けには過去作と整合性が取れているか、微妙な部分もある。
 それでも、そんな強引な後付けのアイデアであっても、最晩年のジョン・ル・カレはギリギリの綱渡りを繰り広げる。そこまでしてスパイの非情さを描き、さらに読者に驚きを与えようとする。
 これはジョン・ル・カレストーリーテラーとしての腕前を示す一例であり、同時にル・カレの作家としての志向性を表している。
 単なる社会派作家ではない。たとえ過去の名作に傷が付くことになろうとも、叙述トリックまがいの仕掛けによって読者に衝撃を与えようとする。読者の驚きがすなわち小説の面白さだと、そういったミステリ作家のマインドをル・カレは持っている。
 そして、デビュー作『死者にかかってきた電話』はル・カレが作家人生の最後まで持ち続けた〈企て〉への志向性を表す最初のものであり、その志向性と読者を欺く技巧を作家人生の最後まで持ち続けた証が『スパイたちの遺産』であった。
 
 同時に、この『死者にかかってきた電話』と合わせて後の二冊──ル・カレのキャリアを決定づけた金字塔『寒い国から帰ってきたスパイ』、そして最晩年に放った作家生活の総決算『スパイたちの遺産』──この三作は、数十年という長い期間に変化していった国際関係と、そんな世界の裏で暗躍し続けたスパイたちの顛末を描いた三部作と見るべきだ。
 この三部作で、スパイたちが誰を、なんのために裏切ったか。もう一度読み返せばル・カレが数十年かけて描いたスパイたちの重層的な歴史が立ち現れてくるだろう。
 
(長くなったので次の記事に続く)