陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

渾身の変化球『スパイはいまも謀略の地に』/ジョン・ル・カレ

 

スパイはいまも謀略の地に

スパイはいまも謀略の地に

 

  前作『スパイたちの遺産』がこの作者の総決算のような刺激的な作品だったのに対し、今作は全体的にマンネリズムの感がある。
 それでもさすがル・カレだけあって標準以上の面白さはあるのだが、たとえば本作の売りであるプレグジット(EU離脱)下のイギリスを舞台にしている点について。
 ル・カレはキャラの言動を借りて離脱反対の意見とともに、トランプやプーチンへの怒りを強く表明する。ヨーロッパの協調を乱し、新たな戦いを生むことへの憤り。ル・カレの怒りは激しく、読んでる方にもつよく印象に残るが、しかしベルリンの壁をクライマックスでこれ以上ないほど効果的に取り入れた『寒い国から帰ってきたスパイ』や、東アジアの動乱を克明に記述した『スクールボーイ閣下』を思えば、今作はプレグジットという未曾有の事態を小説世界に大胆かつ効果的に取り入れるところまではいっていない(もっとも、これは自分の世界情勢への見識がかなり乏しいせいかもしれないが)。
 主人公のナットは家庭と情報部との間で板挟みとなり、その周囲には正義感の強い潔癖な女性、さらに国家の理念で個人を蹂躙する同僚や上司たちがいる。こういったキャラクターの配置はル・カレの最近のパターンであり、新鮮さがない。たしかに二重スパイとしてイギリスに協力していたロシアの元スパイをナットが尋ねるあたりは盛り上がるのだが、それさえも既視感があった。

 というわけで、ある若者が正義感によって国に反旗を翻し、他国へ機密情報をリークしようとする重要な場面でもワクワクせず、「いつものル・カレのパターン」に収まるんだろうなと予測しながら読んでいた。つまり、個人の正義や信念が国家の利益によって引き裂かれるのだろう、と。


 ところが、ある地点から物語は転回を始め、どんどん予測を外れていってしまう。このあたりから本作は「いつものパターン」を打ち破り、生き生きと躍動し始める。
 この展開に驚き、戸惑いながら脳裏をよぎったのはル・カレの過去作『影の巡礼者』に収められた、スマイリーとカフリンクスをめぐるエピソードのことだった。
 『影の巡礼者』はこの作者には珍しい連作短編の形をとっており、『ロシアン・ハウス』に登場したSISのスパイ、ネッドが新人スパイの研修のため、かつてのSISのチーフであり、ル・カレ最大のシリーズキャラクターであるジョージ・スマイリーを招いて皆の前で講習会を開くというストーリーだ。そこでスマイリーの含蓄ある言葉とネッドの回想が交互に紡がれることにより、冷戦の経過とそこで戦ったスパイの半生が語られる。
 カフリンクスの話は物語の中盤にある、ごく短い話だ。絶望的な境遇にいる老人のために、スマイリーは自分のカフリンクスを使って、ささやかな秘密作戦を行う。それはエスピオナージュの神話が、またぞろ無能や裏切りの物語を糊塗するために使われるのでなく、めずらしく一老夫婦の夢を壊さぬ」ために、つまり一個人の幸福のためのスパイ活動であった。


 ここにきてようやく、ル・カレはこのエスピオナージュの幸福な実現を現代で、しかもプレグジットで揺れ、先行きの暗い今のイギリスで再現しようとしていることに気づく。
 スマイリー、ジム・ウェスタビー、アレック・リーマス、かつてのル・カレの主人公たちが叶えられなかった幸福と正義。それを今作のごく平凡な中年スパイである主人公が、国の身勝手な倫理観や冷酷さを出し抜いて達成しようとする。そのきっかけは愛する妻との絆であり、不正を憎み、愛すべき者の幸福を願う、そういった平凡で健全な信念のためだ。歴代の主人公の中で、最も無個性に思えたナットが生き生きと活躍しはじめたとき、気づけばマンネリズムは消え去っている。
 二人の若者のため、巨大組織を相手に秘密作戦を決行する痛快さ。そのクライマックスの舞台が結婚式である愉快さ。
 これは決してありがちなハッピーエンドではない。スパイ小説の老巨匠が、社会やイデオロギーによって人々が引き裂かれる様を書き続けてきたル・カレがこれを書くからこそ、この物語の結末を大いに祝福することができるのだ。