陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

そこに幽霊が立っている『ねじの回転』ヘンリー・ジェイムズ

 

 

 最近、黒沢清の映画『LOFT』を観て、偉いと思った。そこには恐ろしい幽霊の姿を現代に甦らせようとする、作り手たちの真っ当な努力があった。古典的な怪奇映画を進化させようとする姿には感動さえ覚えた。
 しかし、そんな幽霊を見ているうちに素朴な疑問が湧いてきた。結局のところ、我々は幽霊の何が怖いのだろうか? ホラー映画には殺人鬼が襲ってくるパターンのものも多いが、殺人鬼と幽霊の怖さはどう違うのだろうか?
 そんなことを考えるのは『LOFT』で幽霊を演じるのが安達祐実だからだ。不気味な幽霊が現れる時、それを演じる俳優の達者さによって、むしろ幽霊と矛盾する肉体性が強調されていた。
 たとえば殺人鬼が肉体性を持つ時、そこで観客は作り物であることを忘れ、殺人鬼をリアルなものとして感じられて、恐怖が倍増する。逆に、幽霊は肉体を感じさせないからこそ怖いのではないか。この世とは違う世界の存在を想起させる、そんな異界の空気に幽霊への恐怖があるのでははないか。
 もし、幽霊に触られたらどうなってしまうのか。異次元と日常が接触する、その先に何が待っているかわからない。この「わからない」ことが幽霊の恐怖を支えている気がするのだ。

 同じ頃に読んだ小説『ねじの回転』は、そんな幽霊の怖さがたっぷり味わえる小説だ。ホラー映画『回転』の原作小説であり、黒沢清はもちろん、高橋洋もホラー映画のベストに挙げる作品だ。

 物語の構成は作中作が含まれるかなり複雑なものだが、あらすじを簡単に抜き出すと次のようになる。
 若い家庭教師の女性、「私」が天使のように美しい娘、フローラのいる屋敷で家庭教師として働き始める。フローラは純粋無垢で美しいし、同僚の家政婦、グロース夫人も善良な人で主人公にとって屋敷の生活は申し分のないものだった。やがて、屋敷には寄宿学校に通っていたもう一人の子ども、マイルズが帰ってくる。このマイルズもフローラに負けず劣らず美しく、内面も素直で賢い子どもであり、この二人の子どもを相手に主人公は幸福な教師生活を送る。しかし塔の上で不思議な人影を見てから、館での生活に徐々に暗い影が差し込んでくる。

 職歴なしの若い娘にとって、フローラたちの家庭教師は待遇のかなり良い仕事だが、「館で起こった問題について自分は一切関与せず、報連相の必要もなく自分たちで解決すること」なんて雇い主に念押しされるあたりで、この仕事がただことではないのがわかってくる。この不穏さで掴みはOKである。

 序盤は詳細すぎるほどの心理描写にちょっと読んでいてもたつくが、幽霊と子どもたちの秘密が明らかとなり、駆け引きが始まる辺りから俄然おもしろくなっていく。
 主人公と幽霊のファーストコンタクトは「塔の上に立つ幽霊を遠くから見つける」という迂遠なもので、最初は不審者が侵入したのかと疑う主人公だが、徐々にその不審な影に怯えるようになる。
 幽霊は主人公達に直接危害を加えないが、かわりに子ども達の周囲に現れ、なにかを吹き込んでいるようだ(と、主人公は思い込んでいる)。そのうえ、子ども達は幽霊のことを大人には秘密にしようとする。
 主人公はどうにかして子どもから幽霊を引き剥がそうとするのだが、問い詰められるたびにマイルズたちは幽霊など見ていないと言い張るし、一方で先生の目を盗んで部屋を抜け出し、こっそり幽霊と接触してさえいるようだ。
 しかもマイルズたちが自分たちの美しさと、それが大人たちを虜にしているのを自覚していることがわかってくる。純粋無垢な子どもを演じながら先生を煙に巻こうとする子どもたちの姿は読んでいてちょっとイラつくが、先生とのやりとりはスリリングだ。
 利口で、目端の効きすぎる子ども達に対して「本当はそんな子じゃない」と子どもを信じて疑わない主人公や同僚の家政婦の様子は滑稽でさえあるのだが、その過程で主人公が階級や教養を理由に、同僚にマウントをとる微妙な性格をしていることもわかってきて、そこでも不穏な雰囲気が出てきてハラハラして飽きさせない。

 賢くてふてぶてしい子どもたちに対して、肝心の幽霊はほとんどアクションを起こさないため少し存在感が薄い。しかし子ども達の幽霊を隠そうとする行為が、むしろそこに隠す対象(幽霊)の印象を強くしていく。マイルズが先生に駆け引きを挑み、追求を巧妙に逃れようとするたび、その背後にいる幽霊のことが意識されていく。
 やがて主人公の信じていた「純粋無垢な子ども達」の像が少しずつ剥がれていく。自分の認知する世界が壊され、未知の異界が現れ始める。その不安な予感とともに、存在感の薄かったはずの幽霊は、いつしかたしかな恐怖を纏って主人公の前に現れる。

 そして主人公とマイルスとの心理戦がピークに達した瞬間、物語は急転直下で幕を閉じる。大切なものが一瞬で奪われ、あとには未知の存在への恐怖が残る。この恐怖の実感はのちの日本のホラー映画で見られるものとかなり似通っていた。原作とはいえ、たしかに黒沢清たちに影響を与えたのも納得の幽霊の演出であった。

 

 巻末の解説にある通り、本作は様々な謎が隠されているが、その答えはほのめかされるだけで明確なものは示されない。「幽霊は実在したのか。全ては主人公の妄想ではなかったか」というのが最大の謎だが、自分が一番気になったのは「主人公はなぜこんな話を書き残したのか?」ということ、それに「あんな事件があったのになぜ10年後も家庭教師を続けていたのか?」ということだった。あんな事件を経験したのに、主人公はどのような思いで家庭教師を続けていたのか。
 はたして絶対的な非現実の存在と接触した人間には、なにが待っているのだろう。
 幽霊という異界と出会ってしまった、そんな先生の人生はどのように捻じ曲げられてしまったのか。そのことを想像する時、また違った恐ろしさを覚えるのだった。