箱舟という悲劇『安達としまむら (10)』/入間人間
ついに大台に乗った『安達としまむら』の10巻は、九つの短編による連作短編の形を取っている。
これらの短編の時系列は複雑で、安達としまむらのどちらかが主人公を務める主要な五編に限れば、物語の時間軸は次のように設定されている。
『Astray from the Sentiment』安達としまむらが実家を出る前夜、安達と母親との別れ
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『The Sakura's Ark』高校二年の冬、しまむらと樽見との決着
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『The Moon Cradle』二人の新居に引っ越した初日
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『Cherry Blossoms for the Two of Us』高校二年のバレンタインデー
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『Hear-t』同棲している二人のある夜の出来事
(これらの合間に、日野や妹たちにスポットを当てた掌編が挟まる)
要するに高校生の頃の話と大人になった頃の話が交互に来て、いろんな年代の二人の関係を楽しめる、贅沢なつくりとなっている。
まず見所になるのはしまむらから安達への、愛情の大きさである。
特に『The Moon Cradle』では、大人になった二人の同棲の様子がたっぷりと堪能できる。
7巻では静かにさせるために安達のデコにキスするなど、唐突に破壊力のある振る舞いをするしまむらだが、今回でもたわむれとして、安達の鼻をしまむらが突然舐めたりする。これでは安達の語彙力が死んでしまうのも致し方ない。
そんなしまむらが、『Cherry Blossoms for the Two of Us』で、なぜ安達に惹かれるか語る場面がある。
「そうだね・・・・・・安達という箱舟についての話をしようか」
(中略)
「桜はわたしを色んなところに運んでいくからさ」
安達がいなければ、そもそも今電車に乗っていない。
安達がいなければ、多分また樽見と会い、そして別れていない。
良いことも悪いことも、安達と共にある。
物理的にも感情的にも、新しいものをもたらしてくれる安達のことを、しまむらは尊いと感じている
この後に続くしまむらの行動と合わせて名シーンであるが、注目したいのはしまむらが安達を「箱舟」と称したことだ。この箱舟が、本書では象徴的なキーワードとなる。
これまでも描かれてきたように、安達と一緒にいることは、しまむらにとって自分の時間が安達によって独占されることを意味する。
なので安達という箱舟とともに新天地に旅立つという選択は、必然的に安達以外の人々との関係が希薄になることを意味する。
安達を重視することは他の人たちと自分との繋がりを断ち切ることだと予感しながら、それでもしまむらは、安達と二人で生きることを選ぶ。
旧約聖書によれば、大洪水を前にして箱舟に乗ることができたのは神に選ばれたノアたち家族と、動物のつがいたちだけであった。それ以外のものたちは大洪水によってすべてが流される地上にとり残されてしまった。
船に乗せるか、乗せないか。その選択の裏側には、選別という非情な行為が含まれている。
そして安達としまむらも、箱舟で旅立つ際には、ある選別をしなければならなかった。
安達にとっては疎遠だった母親のことであり、しまむらにとってはかつての親友、樽見のことだ。
二人の蜜月は、かつては近しい存在だった人たちとの別離を伴わなければならない。
この10巻の見所は安達としまむらたちの蜜月だけではない。
二人と道を違え、意に反した別れを受け止めなければならない者たちの姿。それがもう一つの見どころである。
その中でも、安達の母親には娘と向き合う機会と時間があっただろう。
しかし、樽見にそんなものはなかった。
たとえばコミカライズの三巻に収録された、入間人間の書き下ろし短編のタイトルは『樽見としまむら 0.000』だった。再会の時点で、樽見としまむらの関係は決定されていた。樽見にとっては運命的な再会であっても、そこには何の可能性もなかったのである。
自分が安達と付き合っていることを樽見に告げる際、しまむらは「駅で呼び止めたのはもしかすると間違いだったのかも」と考える。3巻での出来事、相手を思って行動したことが、樽見を悲しませる結末に繋がってしまう。そのことを悔やむしまむらの言葉が、すごく悲しい。
さらに、見落とせないのは『The Sakura’s Ark』という章タイトルが、しまむらが実際に箱舟の話をする8章ではなく、しまむらが樽見と決着をつける4章に使われていることだ。
入間人間は安達としまむらの幸福な日常ではなく、樽見の望みが叶わず、決定的な別離を果たす悲劇の方を「桜という箱舟」と名付けた。
箱舟による幸福だけを見つめることを作者は許さない。
そしてしまむらも、安達と一緒にいるという、自分の選択のもたらすものから目を逸らさない。
もう樽見は物語に登場しないかもしれない。
それでも新天地の生活で、二人は自分たちが残してきた者たちを思い出す。
安達は自身の成長によって。しまむらは樽見が贈ってくれたキーホルダーによって。
たとえ離れて暮らしていても、彼女たちと関わりを持ったことの印がどこかには残っている。
『安達としまむら』の完結が近いことは、公式からアナウンスされている。残り少ない物語でも、安達としまむら、二人の幸福な日々が描かれるだろう。
その生活のどこかに、樽見のキーホルダーがある。離れた人たちとのつながりが、記憶として残っている。
残された者にとって、そんなことは何の救いにもならないかもしれない。
それでも、たとえほんの微かな繋がりにすぎなくても、読んでいる方は救われる気持ちになるのである。
『記憶の中の誘拐 赤い博物館』大山誠一郎
シリーズ物だが、前作は未読。大山誠一郎の作品は初めて読む。
まず気になるのはミステリ要素の充実に対して、物語の豊かさにはこだわっていないこと。
つまり推理小説の「推理」の部分には手を尽くしているのに、「小説」の部分については無頓着な印象を受ける。
外見から<雪女>と称される名探偵、緋色冴子のキャラクターにしても、助手との関係性にしても、ほとんど舞台装置と化している。ストーリーの構成もほぼワンパターンだ。
もっと書き込んで膨らますこともできるだろうし、もう少し欲を出してほしいとも思うが、逆に言えばパズラーとしての魅力に自信があるということかもしれない。それに他の魅力を削ぎ落としてミステリとして純化しようとする様は、いっそ清々しい。
ところがそういった姿勢が裏目に出ている作品も、本作にはいくつかある気がする。
「夕暮れの屋上で」
高校の卒業式の日に、女子高生が屋上で殺害される。容疑者は被害者の「部活の先輩」である三人と推察されたが、事件は迷宮入りに。過去の謎に、緋色冴子が挑む。
これは作者の仕掛けた罠に完全に引っかかった。真相から振り返ってみれば謎を解くための着眼点はシンプルだし、手がかりも意外と大胆に提示されていたのが心憎い。
関係者の絶望をバッサリ切り捨てるようなラストが印象的。
「連火」
東京で起こった八件の連続放火事件は、犯人が死亡者を一人も出そうとしない奇妙な事件だった。犯人らしき人物の「またあの人に会えなかった」という言葉には、どのような秘密があるのか。
放火事件の奇妙な共通点から、名探偵が犯人の条件を絞り出していく手際が鮮やかで、消去法による推理にも納得できる。
ただし、作品のキモであるホワイダニットに関しては早いうちにわかってしまうのではないだろうか(自分はすぐに気づいた)。
というのも前述したように物語の部分に厚みがないので、作中のどの部分が手がかりになるか、途中でも見当をつけやすくなっているのだ。
だから<意外な動機>を演出されても、その驚きが減退してしまっている。「あれが手がかりだったのか!」という感じが乏しい。
手がかりをうまく紛れさせて隠蔽するために、もっと主人公たちの日常パートを書き込む必要があったのではないか・・・なんてことを思ったりする。
「死を十で割る」
実は本書に興味を持った理由は、この短編が「連城三紀彦を彷彿させる」という感想をTwitterで見かけたからだったりする。というわけで期待して読み始めたのだが・・・。
ネットでは高い評価のレビューも見かけるし、ラストで明らかにされる犯人の心理は面白い。しかし、よくよく考えると納得のいかない点もある。
この短編のポイントとなるのは「なぜ犯人は死体をバラバラにしたか」という動機であり、ここに作者は異常なホワイダニットを演出して、そこにはたしかに連城を彷彿とさせる奇想がある。
ただし、奇想を成立させるために名探偵(作者)は二つほどの仮定(補助線)を推理に取り入れるのだが、この仮定を裏付ける根拠がどれほどあるだろう。つまり、推理としての説得力が弱すぎるのだ。
これもこの作品のスタイル(いろいろ削ぎ落としたパズラー)が、あまり良い効果を与えていないせいではないか。
たとえば連城三紀彦なら作中の男女の情念を事細かに描いたり、華麗なる文章のレトリックを用い、さらに数々の伏線を巧みに張る。これらによって、詭弁すれすれの真相や動機でも読者を(時には無理やり)納得させた。そういった力がこの作品にはない。
犯人の動機が異常で常識外れの分、そこを納得させる力が不可欠ではないか。
さらに、「死を十で割る」では真相を見出すのは刑事であり、推理力の高さを保証された緋色冴子である。
そんな名探偵が途中まで合理的に推理していたのに、最後には空想を基にした推理を事件の真実としてしまう。前半と後半の推理のギャップには、違和感が残る。
だから自分はあまり評価できなかったが、ネットでの評判は良さげなんだよな・・・自分の目が曇っているだけなのかもしれない・・・なんて書くと、卑屈すぎるかもしれないが。
「孤独な容疑者」
犯人側の視点から始まる倒叙ミステリなのだが・・・。
作品の性質上、ストーリーについてあまり語ることができない。
「長身の被害者になぜ踏み台が必要だったか?」という疑問から組み立てられるロジックも見所だが、なによりも中盤からの展開がこの作品のキモ。
ある箇所で「おお?」と思わせたあと、読者の予想を外して思わぬ方向に連れて行かれる。
ページ数が少ないことで、むしろ結末の切れ味が増している。
「記憶の中の誘拐」
5歳の子どもが誘拐された事件は犯人が身代金を受け取らないまま、人質の返還と犯人の逃亡という結末を迎えてしまう。犯人の目的は何だったのか。
解説で佳多山大地が触れているように、本作は連城三紀彦の初期短編を思い出させる。
「なぜ犯人は身代金を受け取らずに、人質を解放したのか」をめぐる大胆なホワイダニット。不可解な状況だったのが、視点の角度を変えることによって異形の現実が目の前に現れ、ミステリの快感が味わえる
また、些細な疑問点から構築される推理の妙と、短い枚数の中で丁寧に張られた伏線も楽しめる。今回の短編集の中で、ベストはこの作品か。
総じて、個人的にはもう少しキャラクターの魅力などが前面に出ている作品の方が好きだ。だからこの作品には物足りなさを覚える。
しかし短いストーリーの中で作者が達成しようとするミステリの志は高い。今回は少し微妙に感じる作品もあったが、ともあれ大山誠一郎、これから注目したい。
1グロスは12ダース(144個)『虚構推理短編集 岩永琴子の純真』城平京
作中で主人公の岩永琴子が「あるもの」を1グロスも差し入れしようとするシーンがあるので「グロスとはなんぞや」と思って検索したが、本当に業務用の<アレ>がページの上の方に出てくるのには驚かされた。
『虚構推理 岩永琴子の純真』は城平京による『虚構推理』の第2短編集である*1。作中には5本の短編が収録され、内4本は片瀬茶柴により既に漫画化されている*2。
『虚構推理』は「一眼一足の知恵の神」である岩永琴子と、人魚の「不老不死」と件(くだん)の「未来予知」という二匹の妖怪の能力を持つ桜川九郎の二人が怪異の関わる事件を解決し、世界の秩序を守るというミステリシリーズである。
シリーズの特徴として、アンチミステリの性質が強い。たとえば「地縛霊が事件を偶然目撃していたから、真相がわかりました」というのを平気でやったりする。
なので「名推理による真相解明」なんてものは望むべくもないのだが、代わりに霊や妖怪の関わる事件を、その存在を隠したまま合理的で筋の通ったウソの推理で解決するのがストーリーの山場となっており、探偵役の岩永琴子は「名探偵」というよりも、世界の秩序を守る「神」として振る舞う。タイトルの「虚構推理」はここから来ている。
そのため「事件の真相」ではなく、「秩序のために岩永は何を目的とし、どうやって達成するか」というのが読者の興味を引っ張る謎として機能しており、シンプルで痛快なミステリというよりも、ある程度ミステリを読み慣れた読者向けのひねくれた味が作品の妙となっている。
「雪女のジレンマ」
雪女と親しくする男に元妻殺害の容疑がかかるが、男にはアリバイがあった。しかしそのアリバイは「雪女と一緒にいた」というものであり、警察に話せるわけもない。これがタイトルのジレンマである。
男を救うため、雪女は岩永に依頼する。
コミックス12巻のアマゾンレビューが「雪女かわいい」で埋まったほど、シリーズ屈指の人気キャラクター雪女が登場する事件。
まあ、さすがに漫画でのかわいさを文章で再現するのは難しかったようで、特にコミックス版と違い九郎が雪女たちと遭遇しないため「それに比べればおぬしのなんとめんこいこと!」というシーンがカットされたのがちょっと残念だった。
しかしミステリとしては改善されていて「犯行時に被害者が抵抗していた」ことが推理パートで強調され、被害者が「アレ」を用いたはずという推理に説得力が高まっている。これはコミックスからの良改変だった。
他にも「雪女という証人」の意味が逆転する様についての考察が付け足され、物語のトリッキーさが増している。皮肉の効いた逆説、それに女難の男と雪女の恋愛が絡み、なかなかの好編。
ちなみにラストの真犯人はアンフェアではないかという向きもあるだろうが、作者の城平は「登場人物が極端に少なく(中略)犯人と指摘されても存在が読者の記憶に残っているだろう」という理由で「なんとかフェアと言える」としている。
「よく考えると怖くないでもない話」
これはごく短い話であり、妖怪ゆずりの能力を持ちながら苦学生として生活する九郎が、バイト先でどんな扱いを受けているかを垣間見るような、箸休め的な作品である。
曰く付き物件の真相にはちょっとした意外性があるが、それよりもタイトル通り怖いようでそうでもないような、微妙にひねくれたオチに小噺としての魅力がある。
ともあれ、全体としては「真っ暗な恋人の部屋にロウソクを灯し、額の上で皿を回す岩永」の姿に尽きる。
「死者の不確かな伝言」
これは漫画版よりも面白く感じた。文章だけの方が作中のロジックにより集中できるせいだろうか。
死者からの伝言がいかに推理の根拠にならないかというダイイングメッセージ批判から始まり、そこからダイイングメッセージにまつわる事件の固定観念を次々と解体していく様が楽しい。
だが、より印象的なのは事件へ決着をつける、岩永の方法である。
最後に岩永が提示するのはそれまでの仮説を踏まえながらも、前提となる大枠をひっくり返すような強烈な「解決策」。
もはや推理でもなんでもないが、岩永の奸智と意地の悪い顛末が素晴らしい。真相よりも目標達成を優先する、岩永らしい事件であった。
ちなみにこの話は岩永のかつての同級生がシリーズのラスボス、桜川六花と偶然出会い、その六花に岩永の思い出を語るという、回想の形をとっている。
そして同級生とのやりとりを見ると、六花の方が岩永よりも人間関係に関してはだいぶまともに思える。主人公としてどうなんだ。
「的を得ずに的を射よう」
これもごく短い話である。
大岡政談をモチーフに、拾った弓矢の所有権を主張する2匹の猿を裁こうとする岩永。
そのための手段と裏の真意が面白いが、それ以上にオチが・・・。
なお、この小説版の最後だと岩永は自分のやったことを棚に上げて九郎に怒っていたことが判明する。あんまりだぞ。
「雪女を斬る」
ラストを飾るのはこの巻のための書き下ろし短編。ボリュームも短編の中で最も多い。
江戸時代、雪女を斬って剣の奥義を極めたという達人が、屋敷の庭で何者かに斬られた状態で発見される。死の直前、男は「ゆきおんな」と言い残して命を落としたが、果たして達人を斬ったのは雪女なのか?
そして現在、自分が雪女にまつわる呪われた血を受け継いでいるのではと恐る青年のために、岩永は江戸時代の事件を合理的に解決しなければならない。しかも事件には岩永が救った雪女が関わっており──。
江戸時代に一世を風靡した理詰の剣術「無偏流」とその奥義の「しずり雪」。こういった架空の歴史にまつわるストーリーと聞くと、城平のかつての傑作『鋼鉄番長の密室』を反射的に思い出してしまうが、流石に今作では『鋼鉄番長』ほど嘘の歴史が野放図に展開されない。むしろ剣にまつわる人間たちの運命には、しっとりとした印象を受ける。
しかしながらこの短編、読んでいて城平の過去作品を想起させる要素が意外と多い。
たとえば事件の解決シーンにそれらは表れている。
青年のために、岩永は事件を説明する二通りの仮説を提示する。
この多重解決はデビュー作『名探偵に薔薇を』に始まり『鋼鉄番長』を経て、そして『鋼人七瀬』まで続く城平の得意パターンであり、今作でもその手腕が発揮されている。
一つ目の解決は雪女など怪異の存在を否定し、事件に合理的な筋を通す従来のもの。詭弁すれすれだが筋の通った仮説が楽しく、特に死の直前の言葉の解釈は強引ながら細部まで気を使っており、したたかだ。
そして岩永の第二の、本命の解決。ネタバレを避けるため曖昧な言い方となってしまうが、そこに表れるのはある人物の思慕と苦悩、そして悲恋の顛末。この叶わぬ恋をめぐる物語も代表作の『スパイラル』や水野英多と再タッグを組んだ『天賀井さんは案外ふつう』など、城平が好んで書いてきた題材である。
と、同時にこの二番目の仮説では、いかにもミステリらしい「理によって支配された世界」として謎が解決されるのではなく、人間たちが懸命に生きようとした結果生まれた「ドラマ」によって謎に筋道がつけられる。
この時、思い出されるのは城平の隠れた傑作『ヴァンパイア十字界』である。
『ヴァンパイア十字界』とは、『スパイラル』と『スパイラル・アライブ』に次いで城平京が原作を担当した漫画で、城平の作品でもかなりマイナーな作品と思われる。
かなり独特なストーリーで、物語の序盤は吸血鬼とヴァンパイアハンターの対決を軸に展開していた物語だが、途中から意表を突く展開が起こり(本当に誰も予想できないと思う)、地球に危機が迫る。この危機を回避するため人間と吸血鬼が結託し、吸血鬼の過去の秘密を追う話へとシフトしていく。
人間たちは吸血鬼に関する謎を探るが、そこでは繰り返されるどんでん返しによって、真実は二転三転する。
この謎を扱う手つきや状況設定にはミステリの匂いが濃い。しかしミステリ的な不可思議な状況やホワイダニットを扱いながら、謎に筋を通すのは名探偵の示す解決ではなく「ある者が何を求め、何を為そうとしたか」という生き様である。
城平はあくまでミステリ的な理を前提としながら、登場人物たちの過酷な運命、そこで下される選択を真摯に描き、物語を高めていく。
「理と情」を両立させる、この技術によってミステリを読んだ時の興奮、それに上質なファンタジーの喜びの両方が味わえる。マイナーながら熱狂的なファンをネットで見かけるのも納得な出来の、城平の隠れた傑作であり、そしてこの技術が今回の短編にも発揮されている。
『ヴァンパイア十字界』と同じく「過去に何が起こったか?」という謎は一人の男をめぐる悲劇へと結実し、さらに最後には「シリーズのお約束やぶり」というサプライズまでが飛び出す。
「雪女のジレンマ」に登場した雪女たちのその後が描かれているのがまたうれしく、そして過去に反して物語を現代の幸福な男女の姿を匂わせて終わることで過去の悲劇まで昇華されるようだ。
と、いうわけでこの短編は予想もしなかった、城平がこれまでのキャリアで培ってきた嗜好性やテクニックを詰め合わせたような集大成の如き作品であった。
城平の書くミステリの世界は、論理が支配する世界とは違う。人間の行動は必ずしも論理的に決定されるのではない。そこには感情であり、時には狂気のような情念によって人は支配される。それを踏まえた上で、名探偵たちはあくまでも論理の力によって人の姿に肉薄しようとする。その律儀さというか、潔癖さが城平のミステリだという気がする。
虚構推理はアンチミステリでありながら、そういった城平京の「らしさ」に満ちている。地味ではあっても、決して志は低くない。斬新なトリックがなくとも細部まで抜かりなく手の行き届いたミステリだ。
そしてそういう作品が自分は好きだ。オススメである。
安達としまむら アニメ特典小説(4)『Abiding Diverge Alien』
※ネタバレありの記事です。
まさか『安達としまむら』で二人の初体験をめぐるストーリーが描かれるとは思わず、3巻の展開に読者は大きな衝撃を受け、喝采を叫んだ(多分)。
しかし、入間人間はこの特典小説の四巻でさらに踏み込んだ描写を行う。
四巻のストーリーの焦点は、「しまむらたちの老いと死」である。
物語は八十才近いお婆さんとなったしまむらが、寝床から起き上がる場面で始まる。
安達はこの世を去り、日野も永藤も樽見も、しまむらの妹さえも死に、しまむらだけが残された世界。
かつての修学旅行で、霧の中を通して安達のいない自分の世界がいかに空虚であるかを幻視したしまむらはその数十年後、あの時予感した世界を実際に生きなければならない。
それは安達としまむらが出会ったことで物語が始まったのだとしたら、その物語は安達としまむらの永遠の別離、つまり死によって締めくくるべきだというように。
老人となったしまむらの生活はかなり寒々しい。朝起きてもやるべきことがなく、意味もなく生命を維持しているだけの生活。かつての安達との出会いによってもたらされたものがほとんど失われ、幸福は過去のものとなった。
物語の前半は一人ぼっちのしまむらの、乾いた生活の様子が綴られる。
前巻の温泉旅行の顛末には『安達としまむら』史上、最上級の幸福感があったのだが、その頃と現在との落差に驚かされ、人が老いることは様々なことを失うことであるという事実に改めて衝撃を受ける。
しまむらの日課は安達の幻覚と会話することだ。幽霊とも違う、自分の脳内がこれまでの経験から作り上げた、都合の良い安達。しかも出会ったときの女子高生姿をしている。
その様子は少し微笑ましく思えるが、一方でしまむらが安達との別れを未だ受け入れ切れていないようで、胸がつまる。
年月が全てを変えてしまった中で、ヤシロだけがいつもと変わらないのだが、そのヤシロさえもむしろ周囲の変わってしまった光景を際立たせるようで、余計に切ない。
孤独の影と寒々しさを背負いこみ、さらにしまむら自身の死の影が作中でちらつき、物語は否応にも薄暗いものを纏う。
しかし、そんな暗いストーリーにやがて一筋の光明が差す。
しまむらの孤独を癒すのは、やはり安達であった。
しまむらの幻覚のはずの安達が奇跡のように現実化する瞬間がある。
『気にしてるの?』
『気にしてるっていうか・・・・・・・それはまぁ、歳をとればみんなそうだから』
「死ぬのは怖い?」
一瞬、指が止まる。でも前を向いたまま、平地を踏むように答える。
「んー、あんまり」
安達の幻影はこの瞬間だけ、まるで実態のようにしまむらのそばに存在する。セリフの鍵かっこの違いでその距離感が見事に表現されている。
たとえ死んでも、空想が生み出した幻であったとしても、安達はしまむらのそばにいて、生きる希望であり続ける。
死ぬことの不安さえも、安達によって取り除かれ、未来を照らす光となる。しまむらにとっての安達がどれほど大きな存在であったか。
かつて安達は「しまむらは太陽だ」と称した。そんな安達がしまむらを暖かく照らす存在であることに、二人の愛情と積み重ねてきた時間がより顕著に感じられ、読んでいる方も救われる気持ちになる。
そして、しまむらがヤシロと交わした約束がついに明らかになる。
しまむらがヤシロに語る願い、それは「別の世界線の自分と安達たちが、必ず出会えるようにする」というものだった。
「わたしに会えない安達も、安達に会えないわたしも・・・・・・どこにもいちゃいけない気がする」
それが『安達としまむら』の世界を形作るなら。
ヤシロはしまむらの願いを受け入れた。
舞台は別の世界へ。
外伝の1巻よりも少し前、ひとりぼっちのまま街をうろついていた頃のチトに移る。
孤独で、生きることの実感を持てないまま世界をさまようチトのもとに、空からヤシロが降ってくる。
全てを変える新しい出会いと、新しい物語の始まりを予感させる場面で小説は幕を下ろす。
全4作の外伝小説に共通するユニークな点として、チトとシマのストーリーが並列して語られることが挙げられるだろう。
安達としまむら側のストーリーでは、二人の日々が進展する様ー出会った相手との関係が長い人生を通して豊かなものに成熟されていくーを、そして決定的な別れ(死別)までの過程が。
チトとシマ側ではひとりぼっちの少女が放浪の果てに新たな出会いを果たし、それによって絶望的な世界の状況の中でも、新しい希望が芽生えようとする様が描かれた。
1巻の頃、チト視点の話には唐突さと戸惑いを禁じ得なかった。
しかし並列して語られたチトの物語が最後には一つの物語に収束することによって、この外伝小説に本編とは違う、独特のスケールが生まれた。
乱暴な表現をすれば、それは宇宙的な視点であり、一つのサーガのような巨大な物語の枠組みである。もちろん、これには宇宙人であるヤシロの存在も寄与している。
日常の様子を丁寧に描写するため『安達としまむら』の物語は本来、地味な印象を与えがちだ。
それをこの外伝小説では、別の物語を付け加えるという構成の工夫で本編とは違う、新しい魅力が生まれたのだ。
さらに最後の話を安達との死別と、チトがシマに出会うための旅の、その始まりの瞬間で締め括られることによって、いっそう物語に統一感が生まれている。
最後の結末から読み取れるのは、人の避けられない運命を、それでも肯定しようとする前向きな姿勢である。
安達としまむらが出会い、死という別れを経たことでヤシロは別世界へ旅立ち、チトとシマは出会うことができた。
いや、もっと言えば老いてほとんどのものが失われ、過去の残滓を頼りに日々を過ごすしまむらが、それでも安達との出会いを良いものだったと思えたからこそ、ヤシロに別世界へ介入することを求めたのだ。
そこには、たとえ最後には絶対的に避けられない別れが待っているとしても、人と出会うことには意味があるというメッセージが感じられる。
そしてこれは入間人間が百合作品で書き続けてきたテーマではないか。
『少女妄想中。』で、『佐伯沙弥香について』で、『エンドブルー』で書かれてきたのは、たとえ悲劇的な別れに終わっても、それでも人と人が出会うことを肯定しようとする意思だった。
入間人間の複数の百合作品を貫くものは、このテーマなのかもしれない。*1
現在、『安達としまむら』の10巻(本編の方)をちょっとずつ読んでいるのだが、この外伝小説での別れが前提になっているせいか10巻の内容が、より愛おしく感じられる。
この頃の日々があったから、老いて多くのものを失ってもしまむらは希望を持つことができたのだろう。それがわかっているからこそ、10巻のふたりの日々がより尊いものに思える。
というわけで、この一連の外伝小説は『安達としまむら』の世界に神話的なスケールと共に、さらなる奥行きを与えた傑作である。ファンの人は、ぜひ読んでほしい。
あと「九月中に記事を投稿する」と宣言しておいて、こんなに遅れてしまってすみませんでした。
安達としまむら アニメ特典小説(3)『ムラ』
※ネタバレありの記事です。
この特典小説、それぞれクオリティが高いが、特にこの3巻はファンには是非読んでほしい。
もっといえば、安達としまむらのファンなら読まないと後悔するかもしれない。
というわけで、全4冊の特典小説の中でもっとも衝撃度が高い第3巻。
物語を簡単に要約すると、安達が真っ赤になりながらしまむらを泊まりの温泉旅行に誘うという内容である。
恋人同士が旅行して一緒に泊まるということは、つまりは「そういうの」だ。恋人として、いくところまで行くのである。
『やがて君になる』でも思ったが、まさか『安達としまむら』でそんな展開になるとは。そういう話題はもっとぼやかしておくのかと思っていた。
(ついでに「ちなみに、キスは少し前に済ませていた」なんてこともさらっと暴露されて、こちらにも衝撃を受ける。)
こんな一大事に、しかししまむらは動じない。
「うん、いいか。行こう」と安達の願いを軽く受け入れるしまむらはさすがだ。
「安達はわたしの裸をまた見たいんだなあ」と、相手が自分を好きなことを十分に理解している様もなんとなく頼もしいが、いざ旅館に着いて雰囲気作りに悩むと「面倒くさいし、取りあえずどっちも素っ裸になっちゃえば」なんて考えるのはどうかと思う。たしかにしまむらには風情がない。
温泉から上がったしまむらに、安達は暴走気味に愛情や様々な欲の混じり合ったものを真っ直ぐに、ものすごく真っ直ぐに伝える。足の付け根とか肘の裏とか、妙にマニアックなところが好きなのか、安達。
そんな安達の言葉を、しまむらはやわらかく受け止める。むしろこの激情を尊いものと見なす。
正確に届けることの難しい感情を明確に、ストレートに伝えてる安達に惹かれるのだ。
だからこれから触れる安達のことを、きっと、良いものだと思えるのだろう。
そして、しまむらは「安達とやりたいこと」を見つけたと、手を引いて連れ出す。そこで行われるのは──。
「変化球」
「十回に三回くらいしか曲がらないけどね」
ふたりの原点であり、この瞬間だけ高校生の頃と変わらない時間が流れる。
埃っぽい体育館の二階、卓球台、セミの声などを幻視しそうになる時間で、違っているのはふたりの間に渡る感情だけかもしれない。
「愛してるぜ」と、しまむらは思う
ふたりの出会いから今までの時間、積み重ねが表れているこの短い言葉を頭に浮かべる時、しまむらは熱を感じる。
まるでこれまで安達が抱いてきたものが移ったかのように。
さて、崩壊した世界をさまよう少女、チトは前巻でシマという女の子と出会った。
ヤシロによると、どうやらどの世界線でもチトとシマは出会うことになっているらしい。
そして用事が終わったと、ヤシロはチトたちのもとを去っていく。
町には巨大な穴に水が流れ込むことでできた滝があり、チトとシマはその水底を目指すことになる。
滝の底を見ること、それは些細なことにすぎない。チトはシマが水の中を泳いでいる姿を見たいだけだ。それで世界が救われるわけでも、生命をつなぐのに役に立つわけでもない。
ただ、出会いによって生まれた生の実感を大切にしようとする。
チトはシマのことを綺麗だと思う。それだけのことで目標もなく、ただ彷徨うだけだったチトの旅に、改めて行き先が生まれる。
絶望的な状況、それでもふたりで生きていこうとする意思。そしてこれをもたらしたのはヤシロだったのだが、ではヤシロの「しまむらさんとの約束」とは何だったのか。この二人を出会わすのが約束だったのか。この謎は4巻へ持ち越しとなる。
ところで 1巻の時はチト=しまむらの別の世界戦の姿? と思いこんでいたが、この巻でのヤシロと気心がしれている振る舞いから、どうもシマ=しまむらのようだ(というか『あだ「チト」「シマ」むら』ということに今更気づいた)。
ならばチト→安達であり、1〜2巻でのチトとヤシロのやり取りは安達とヤシロの旅という、原作ではまず見られないとても珍しいものだったわけで、それを踏まえて読み返すとより面白いかもしれない。
今後の予定
二ヶ月以上記事を書いてないうちに、安達としまむらの10巻が出てしまった。9巻の感想も書いてないのに。
10巻はちょっとずつ読んでいるが、やばいねこれは。
というわけで自分の尻を叩くために今後の予定をここに書いておきたい。
買っておきながらまだ読んでいない本や、一回読んで感想書きたかったけど一文字も書いてない本など、いろいろとたまっている。
●九月中に書きたいもの
・安達としまむらDVD特典小説(3)
・安達としまむらDVD特典小説(4)
・エンド・ブルー(入間人間)
●いつかは書きたいもの
・熱帯(森見登美彦)
・卒業したら教室で(似鳥鶏)
・やがて君になる 佐伯沙弥香について(2)
・時間のおとしもの(入間人間)
・ため息の時間(連城三紀彦)
・安達としまむら(9)
こうやってみると、改めて書き出してみるほどの量じゃないことに気づく。
それにしても入間人間の百合物が多い。ここ数年で自分の小説の嗜好性が変わってきたのだろう。
とりあえず特典小説の感想文に取りかかりたい。感想の旬を過ぎて鮮度も何もないが、自分のためにもこうやって明確に言語化するのは良いことだろう。多分。
安達としまむら アニメ特典小説⑵『死間』
※ネタバレありの感想です。
特典小説の一巻では安達としまむらが社会人となり、同棲している様子が描かれたが、この2巻ではしまむらが20歳の誕生日を迎える日、つまりしまむらの大学生時代が舞台となっている。
20歳となったしまむらは安達からの電話を待ちつつ、散歩に出かける。そこで着物姿の日野と偶然出会い、二人で日野の家へ遊びにいくこととなる。日野は現代の貴族として働いておらず(進学もしていない)、永藤とは今も変わらず親交があるようだ。
この日野のキャラが良い。これまでも良かったが、この巻は輪をかけて良い。
しまむらと日野、二人のやりとりは高校時代となにも変わらない。
日野家でちゃっかりお昼ご飯どころか、昼風呂まで堪能するしまむらに笑ってしまうが、最後にはしまむらが親元を離れることによる、日野との別れが示唆される。
この別れのシーンが白眉である。
もしかしたら、もう二度と会うことはないかもしれない。それでも、日野は明るく言ってのける。
「友達だから別れるんだ。関係なかったらそんなことにも気づけない」
過去は変えられない。ならば、友達だったという過去も変わらない。だからこそ、今の別れも肯定できる。
将来、避けられない別れが来るとわかっていながら、なぜ人は人と出会うのか。人と出会うことに意味はあるのか。日野の言葉はこの問いへの鮮やかなアンサーだ。
もう会うことはないかもしれない。そんな別れを目前にして、日野は気取るわけでもなく、しまむらとの出会いの価値を笑いながら、しっかりと肯定してみせた。二人が出会ったのには、たしかに意味があった。
さて、肝心の安達だが、この二巻ではどういうわけかしまむらの誕生日を忘れていたようで、安達の出番は一瞬しかない。セリフさえない。
しかし、その不在がしまむらからの安達への想いをむしろ際立たせている。
たとえば誕生日なのに安達から電話がかかってこないことについて、しまむらは「できれば、わたしからなにも言わないで気づいてほしい」なんて考えている。こういうめんどくさいことを考えるのは、これまでは安達の方だったのに。
安達との関わりを経て、しまむらは少しずつ変化している。そしてその変化をもたらすのは、いつだって安達なのだ。
満を辞して安達が登場する唯一のシーン、その登場の仕方も実に安達らしい。
しかし、安達の変わらないその姿にこそ、しまむらは価値を見出しているのだろう。
しまむらが自分の将来について考えるときも、そこには安達と一緒にいることが前提となっている。
これからの話を安達とたくさんして、叶えていかないといけないから。
死ぬまでの間、わたしは、幸せでいたい。
わたしの幸せが誰かの喜びでありたい。
つまりなにが言いたいかというと、しまむらって安達のことむちゃくちゃ好きなんだなということである。
誕生日の夜、しまむらはヤシロに「理想の死」について語る。
絶対に避けられない結末、その漠とした不安に、ヤシロは「最後の日にはわたしも一緒になにか考えましょう」としまむらに言う。
これが前巻の「しまむらさんとの約束」につながるのかなと、この段階では予想していた。
しかし、実際にはこの「約束」はより壮大な意味を持っている。それがわかるのは最終の四巻での話であった。
一方、人類が滅亡(?)した別の世界では、チトとヤシロが生き残りを探して歩き回っていた。
ヤシロはこの旅には目的があり、それは「もう終わるかも」しれないという。
そしてふたりは、「シマ」と名乗る少女と出会う。
終わりかけた世界での、新たな出会いはなにをもたらすのか。
ところで、安達母についてしまむら母の歯切れが悪いのはなぜなのだろうか。もしや娘に言えないような仲になっているのか。