ついに大台に乗った『安達としまむら』の10巻は、九つの短編による連作短編の形を取っている。
これらの短編の時系列は複雑で、安達としまむらのどちらかが主人公を務める主要な五編に限れば、物語の時間軸は次のように設定されている。
『Astray from the Sentiment』安達としまむらが実家を出る前夜、安達と母親との別れ
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『The Sakura's Ark』高校二年の冬、しまむらと樽見との決着
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『The Moon Cradle』二人の新居に引っ越した初日
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『Cherry Blossoms for the Two of Us』高校二年のバレンタインデー
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『Hear-t』同棲している二人のある夜の出来事
(これらの合間に、日野や妹たちにスポットを当てた掌編が挟まる)
要するに高校生の頃の話と大人になった頃の話が交互に来て、いろんな年代の二人の関係を楽しめる、贅沢なつくりとなっている。
まず見所になるのはしまむらから安達への、愛情の大きさである。
特に『The Moon Cradle』では、大人になった二人の同棲の様子がたっぷりと堪能できる。
7巻では静かにさせるために安達のデコにキスするなど、唐突に破壊力のある振る舞いをするしまむらだが、今回でもたわむれとして、安達の鼻をしまむらが突然舐めたりする。これでは安達の語彙力が死んでしまうのも致し方ない。
そんなしまむらが、『Cherry Blossoms for the Two of Us』で、なぜ安達に惹かれるか語る場面がある。
「そうだね・・・・・・安達という箱舟についての話をしようか」
(中略)
「桜はわたしを色んなところに運んでいくからさ」
安達がいなければ、そもそも今電車に乗っていない。
安達がいなければ、多分また樽見と会い、そして別れていない。
良いことも悪いことも、安達と共にある。
物理的にも感情的にも、新しいものをもたらしてくれる安達のことを、しまむらは尊いと感じている
この後に続くしまむらの行動と合わせて名シーンであるが、注目したいのはしまむらが安達を「箱舟」と称したことだ。この箱舟が、本書では象徴的なキーワードとなる。
これまでも描かれてきたように、安達と一緒にいることは、しまむらにとって自分の時間が安達によって独占されることを意味する。
なので安達という箱舟とともに新天地に旅立つという選択は、必然的に安達以外の人々との関係が希薄になることを意味する。
安達を重視することは他の人たちと自分との繋がりを断ち切ることだと予感しながら、それでもしまむらは、安達と二人で生きることを選ぶ。
旧約聖書によれば、大洪水を前にして箱舟に乗ることができたのは神に選ばれたノアたち家族と、動物のつがいたちだけであった。それ以外のものたちは大洪水によってすべてが流される地上にとり残されてしまった。
船に乗せるか、乗せないか。その選択の裏側には、選別という非情な行為が含まれている。
そして安達としまむらも、箱舟で旅立つ際には、ある選別をしなければならなかった。
安達にとっては疎遠だった母親のことであり、しまむらにとってはかつての親友、樽見のことだ。
二人の蜜月は、かつては近しい存在だった人たちとの別離を伴わなければならない。
この10巻の見所は安達としまむらたちの蜜月だけではない。
二人と道を違え、意に反した別れを受け止めなければならない者たちの姿。それがもう一つの見どころである。
その中でも、安達の母親には娘と向き合う機会と時間があっただろう。
しかし、樽見にそんなものはなかった。
たとえばコミカライズの三巻に収録された、入間人間の書き下ろし短編のタイトルは『樽見としまむら 0.000』だった。再会の時点で、樽見としまむらの関係は決定されていた。樽見にとっては運命的な再会であっても、そこには何の可能性もなかったのである。
自分が安達と付き合っていることを樽見に告げる際、しまむらは「駅で呼び止めたのはもしかすると間違いだったのかも」と考える。3巻での出来事、相手を思って行動したことが、樽見を悲しませる結末に繋がってしまう。そのことを悔やむしまむらの言葉が、すごく悲しい。
さらに、見落とせないのは『The Sakura’s Ark』という章タイトルが、しまむらが実際に箱舟の話をする8章ではなく、しまむらが樽見と決着をつける4章に使われていることだ。
入間人間は安達としまむらの幸福な日常ではなく、樽見の望みが叶わず、決定的な別離を果たす悲劇の方を「桜という箱舟」と名付けた。
箱舟による幸福だけを見つめることを作者は許さない。
そしてしまむらも、安達と一緒にいるという、自分の選択のもたらすものから目を逸らさない。
もう樽見は物語に登場しないかもしれない。
それでも新天地の生活で、二人は自分たちが残してきた者たちを思い出す。
安達は自身の成長によって。しまむらは樽見が贈ってくれたキーホルダーによって。
たとえ離れて暮らしていても、彼女たちと関わりを持ったことの印がどこかには残っている。
『安達としまむら』の完結が近いことは、公式からアナウンスされている。残り少ない物語でも、安達としまむら、二人の幸福な日々が描かれるだろう。
その生活のどこかに、樽見のキーホルダーがある。離れた人たちとのつながりが、記憶として残っている。
残された者にとって、そんなことは何の救いにもならないかもしれない。
それでも、たとえほんの微かな繋がりにすぎなくても、読んでいる方は救われる気持ちになるのである。