陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『キマイラの新しい城』殊能将之

 

 それなりにページ数もあるし、とっつきにくいかと思いきや、面白くて1日で読んでしまった。
 これで殊能将之は『鏡の中は日曜日』と二作品を読んだことになる。

 ストーリーはタイムスリップSF +密室殺人。密室となった塔で死亡した中世の騎士、エドガー卿の亡霊が現代日本の社長に取り付いて自分の死の謎を名探偵に解いてもらおうとする、大胆なストーリーである。
 さらに現代でも密室殺人が起き、エドガー卿(がとりついた社長)に容疑がかかる。この二つの謎に、名探偵の石動戯作が挑むのだが・・・・。

 


 様々な分野にまたがる豊富な知識、さらにミステリへの深い考察を持ち、天才と呼ばれた殊能将之

 ネット上のレビューなどから、自分はこの作家のことをミステリのお約束をメタ的に扱いながら本格的なパズラーを書く人だとイメージしていた。他の作家でいうと、麻耶雄嵩が近いだろうか。

 実際に読んでみると、たしかにメタミステリの要素が強い。 
 しかし麻耶に比べると殊能将之の方がより遊び心が強く、読みやすい(少なくとも自分にとっては)。
 一方で麻耶と比べればこの『キマイラ─』は本格ミステリ部分が薄く感じたりする。
 麻耶がエラリー・クイーンばりに論理を重視して犯人を絞り込む様を見せ場にするのに対し、殊能の方はあまりそこを重視していないように見える(実際に作中で、登場人物が論理の不完全性と頼りなさについて言及する場面もある)。

 


 事件の真相は大胆過ぎてバカミスっぽいものだし、そのうえ中盤に至っては名探偵である石動の出番がほとんどなくなり、代わりに殺人事件の容疑者となったエドガーの冒険譚と、その騎士を追う刑事たちの話に移ってしまう。 
 とはいえ、この現代に蘇った騎士の冒険と、石動戯作のヤケクソのような推理劇が楽しい。
 偶然出会った青年の助けを借り、エドガーは千葉から東京までの道中をバイクで旅する。中世の騎士から見た日本の描写が愉快で、ついには思わぬ大立ち回りまで発生して密室殺人そっちのけで盛り上がる。
 一方で石動戯作は750年前の密室殺人に対しペダンティックでユニークな密室講義を繰り広げ、さらに密室つながりで意外な人物がジョン・ディクスン・カーへの激しい愛情を吐露する場面も微笑ましい。ついには周囲を巻き込んだ奇想天外な捜査劇へと発展する。
 これらのドタバタ劇は本当に楽しい。

 


 こうした中盤の大活劇から一転、後半では名探偵による謎の解明が待っているが、そこで殊能将之は一般のミステリ小説の世界からの<ジャンプ>を試みる。

 殊能将之はなにをしようとしたか。それは名探偵から特権を剥ぎ取り、破壊することだ。 
 なんせ本作には、いわゆる<名探偵による名推理>というものが一つも出てこない。事件が佳境を迎えた際、主人公の石動戯作は名探偵として(通常なら)ありえない行動をとってしまう。
 ようやく二番目の殺人事件について名探偵が披露する推理も、「AでなければBではないだろうか」という程度の確実性のない頼りないものでしかない。
 作中で名探偵の役割を与えられた人物であっても「論理的に考えてこれしかいない」という推理(本格ミステリではお決まりのもの)で真犯人を導き出すことができないし、そうしようともしない。

 そして最後には、名探偵という<頑固な現実主義者>であるがゆえに事実を見抜けないというオチまでがつく。
 こうして名探偵の特異性は、作者によって丁寧に破壊されてしまうのだ。
 名探偵が登場する推理小説としては歪んでいるが、これはむしろ作者がいかにミステリ好きであるかを示す証だろう。
 ミステリの面白さの裏も表も知り尽くした作者がこれを分解し、部品を自分好みに改造して再度組み上げた結果、ユニークでアナーキーな小説が誕生したという感じだ。
 では、殊能将之は名探偵というミステリの心臓を破壊し、それからどこへ向かおうとしたのか。

 

 

 Wikipediaによると殊能将之は2004年に『キマイラの新しい城』を発表後、2008年に短編を一本発表し、その後は沈黙期間に入る。そして2013年に突然この世を去った。
 もし、殊能将之が健在であったなら。
 石動戯作はその後どのような道を歩むのか。どんなミステリの挑戦を見せてくれたのか。残念なことに今となっては、その全貌を知ることは誰にもできない。
 ともあれ、まだ自分には傑作と名高い『美濃牛』と最大の問題作『黒い仏』が残されている。