陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

チャットモンチーの思い出

 

 

誕生(初回生産限定盤)

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  チャットモンチーを初めて見たのはテレビのミュージックステーションだった。曲は『とび魚のバタフライ』で、幼い見た目や歌声から「中学生みたいなグループやなあ」と思った。そしてそのまま忘れてしまった。

 次にチャットモンチーを見たのは数年後だ。寝付けない深夜、テレビのチャンネルを回し続け、チャットのライブ映像がたまたま目に止まった。

 演奏されていたのは『親知らず』で、メンバーの中学生みたいなルックスとは裏腹に、充実した演奏に力強いボーカル、それに印象的な歌詞の世界に魅了された。

 続いて『世界が終わる夜に』や『東京ハチミツオーケストラ』も強く印象に残り、そして『とび魚のバタフライ』の演奏を聴いて「ああ、あのときのグループか」とようやく気付いた。

 幸運なことに高校の友達にチャットモンチーの好きなやつがいて、そいつにCDを何枚も借りて聴いた。そしてめったに行かないライブにも足を運ぶようになった。

 

 バンドから高橋久美子が脱退し、チャットモンチーは二人体制になった。二人になってからも何回かライブに行ったが、自分の生活にも変化があって、いつしかライブへ足は向かなくなった。

 それでもCDは買っていたし、過去の曲も繰り返し聴いていた。聴き続けるうちに好きな曲は変化して行った。最初は『親知らず』や『恋の煙』が好きだったが、気づけば『少年のジャンプ』と『コスモタウン』を延々と繰り返していて、そのうちに『ひとりだけ』や『Y氏の夕方』が最高だと思うようになった。

 二人になって以降は『私が証』や『最後の果実』が好きだ。ただ、どうしても二人で作った曲よりも、過去の三人で作った曲を聴くことが多かった。

 音楽のジャンルについてまったく詳しくないが、自分はチャットモンチーをロックバンドだと思っていた。特に橋本絵莉子のシャウト、あの可愛らしいのに力強い歌声を聴くたびに、チャットモンチーはロックバンド以外の何者でもないと勝手に確信していた。

 あの歌声は二人になってからも健在だったが、なんとなく三人の頃の曲の方が聴き手をガツンと引き込むような力がある気がした。チャットモンチーは二人体制になってからバンドのスタイルを大胆に変更してきたが、そのせいか曲調もロック調のものよりもポップの方に寄った曲が多くなった。

 チャットが変化していった理由として、三人の時と同じことをしても仕方がないという思いが二人にはあったのだろう。

 また、メンバーも歳を重ね、人生が深まっていくにつれて過去の曲にこめられていた「切実さ」が薄れていったのではないだろうか。特に橋本絵莉子は結婚や出産という大きな出来事があり、その変化に合わせて徐々に、かつてのチャットモンチーが好んだ恋愛や思春期といったテーマが、瑞々しい曲の題材として機能しなくなったのではないか。二人になってからのチャットはもう一度切実に歌うことのできる新しい題材を得るために苦闘していたのではないか、と考える。

 これは自分の考え足らずな空想かもしれない。自分よりもこのバンドのことを長く、深く追ってきた人は一笑に付すような意見かもしれないが、とにかく自分は二人体制のチャットの曲を深く聴き込んでなかったことをそういう風に解釈していた。

 

 しかし、先日発売されたチャットモンチーの最後のアルバムを聴いた時、この解釈への自信がなくなってしまった。『誕生』と名付けられたこのラストアルバムに、自分はなぜこれほど感動するのだろう。高橋久美子が作詞した『砂鉄』のゆっくりとした、穏やかな全肯定には泣かされるし、さらにアルバムの最後を飾る『びろうど』のどうしようもない程の誕生への祝福がこちらの胸を打つ。

 

 チャットモンチーは過去のスタイルにこだわらず、逞しく変化してきた。かなりの成功を手にしていたのに、バンドとして過去のスタイルにこだわらず、新しい道を模索し続けていた。そのことを自分は見くびっていたということだろうか。

 数日後の武道館でのライブを、自分は映画館のライブビューイングで見るつもりでいる。チャットモンチーのライブを見るのは久しぶりだ。自分にとって本当に得難い経験を与えてくれたこのバンドが、どれほどの進化を遂げたか目に焼き付けるつもりである。