江戸の橋を舞台に、男女の出会いと別れを描いた短編集であり、藤沢周平が市井小説に本格的に取り組む契機となった記念すべき作品である。
本書の誕生について書かれたエッセイが『ふるさとへ廻る六部は』に収録されている。それによると、橋を舞台にするというアイデアは、週刊誌との連載小説の約束に苦しんでいた藤沢が、編集者との打ち合わせ中にたまたま思いついたものだったという。橋の上で男と女が出会い、または別れるといった漠然としたイメージが浮かび、これなら書けると思ったらしい。
ところで、橋を印象的に使った作品といえば、自分が真っ先に思い出すのは加藤泰の映画である。加藤泰は映画の中で好んで橋を登場させ、印象的なシーンを作り上げてきた。『加藤泰、映画を語る』という本によると、加藤にとって橋には「これを渡ったら別世界」というイメージがあったそうだ。
この「別世界」というイメージは『橋ものがたり』に出てくる橋とも一致する。たとえば「小ぬか雨」という短編では、希望のない生活を送る人妻が、追っ手から逃げる若い男と偶然出会い、その男と江戸を去って逃げることを夢見る。このとき江戸と隣の街をつなぐ橋が、今まで通りの灰色の生活と、危険だが新しい生活との境界線という決定的な場となり、そこを女は渡れるかが小説のテーマとなる。橋を渡った先にある別世界を夢見て、女は男を逃がそうとする。
また、加藤泰の映画においても、橋というのは主人公たちにとって何か決定的なことが起こる場所であった。『車夫遊侠伝 喧嘩辰』で内田良平が桜町弘子と橋の上で恋に落ちるシーン、または『お竜参上』で藤純子と菅原文太の雪の中での別れのシーンなど、加藤泰が男女の人生を決定するような一瞬を情緒たっぷりに描くとき、そこにはいつも橋があった。
同じように、『橋ものがたり』でも橋がクライマックスの舞台となっている。「小ぬか雨」では主人公の女は新たな人生を求め、自分も連れて行って欲しいと男に懇願する。しかし、男は女を押しとどめ、一人で橋を渡って別の世界へ去って行く。今とは違う別の生活を夢見ながら、女はついに橋を渡ることができない。
「ここを渡れば別世界」というイメージ、それと何か決定的なことが起きる舞台としての役割、この二つの点で加藤と藤沢の橋は共通するのである。
しかし、橋の象徴的な使い方は同じでも、そこでの語り口は加藤泰と藤沢周平では異なっている。
加藤泰は男女の情念の噴出を、凝った構図や美術によって鮮やかに描き出す。対して藤沢の筆で描かれた男女の交流には淡白さがあり、主人公たちの情念は激しく放出されることはない。じわりと滲む程度である。
ただし、そこにはただ淡白なだけではなく、陰影に富んだものがある。藤沢の書く男女の情念には、ぽとりと落ちた墨汁がゆっくりと滲んで行くような、心にあとを引くものが残るのだ。
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本書に収録された短編はそれぞれ趣向が異なる。股旅ものの「吹く風は秋」や、意外なトリックが光る「思いちがい」、子どもの目線から大人の世界をセンチメンタルに描いた「小さな橋で」など、藤沢は物語作家としての腕を存分に発揮している。
中でも目を引くのは「赤い夕日」という短編で、これは近親相姦という妖しいテーマを扱った異色作である。
主人公・おもんは大店のおかみとして不自由のない生活をしているが、秘められた過去があった。おもんは孤児であり、十七まで斧次郎というやくざ者に育てられてきた。斧次郎を父親として慕っていたおもんだが、いつしか斧次郎とは男女の関係になる。そして日中は娘として振る舞い、夜は女房として振る舞うという異様な関係が、斧次郎の家を出るまで続いたのだ。
おもんが斧次郎の女となる瞬間を、藤沢はごく少ないページでさらりと描写する。その控えめな書き方が、かえって二人の異常な生活に妖しいものを感じさせる。
最後におもんはある事件をきっかけに、斧次郎との関係を清算することになる。そこでおもんは今の夫との強い結びつきを得るが、大切な思い出にもなっていた、帰る場所を一つ失ってしまった。斧次郎と暮らした町に背を向け、月夜に照らされた橋を夫と渡りきったとき、おもんと斧次郎とのつながりは完全に絶えてしまう。
橋を象徴的に使うことで、娘であり、妻でもあった主人公の喪失が見事に描かれている。
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そして本書のラストを飾る「川霧」である。本作のハッピーエンドはあまりに唐突で、御都合主義の感じさえする。しかし、出直すか、という言葉とともに、朝の光が寄り添う中、橋の上を男と女が歩いて行く、このラストシーンにひどく心を揺さぶられてしまった。
いったい自分はどこに感動したのか。鍵となるのは主人公の「出直すか」という呟きにあったのだと思う。この素朴だが、極めて前向きな言葉が、これまで登場してきた男女たちの人生を思い出させたのだ。
この江戸の町で、『橋ものがたり』の主人公たちは暮らしている。橋を渡れた者も、渡ることができなかった者も、幸福な出会いを遂げた者も、心に傷を抱え、それを誰にも理解されずにいる者も、それでも人生を続けている。
そういった男や女たちにとって、この「川霧」の主人公の、傷も悔恨も抱えて生きていこうとする清々しく前向きな言葉が、何か救いになったような気がしたのだ。