陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』ジョン・ル・カレ

 

 

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)

 

 

 スパイ小説のマスターピースであり、輝かしい「スマイリー三部作」の最初を飾る記念すべき傑作である。しかし、このころからジョン・ル・カレの小説はプロットが複雑化し、読みにくくなっていく。この複雑さは本作と同じく「愛と裏切り」をテーマとした『寒い国から帰ってきたスパイ』には見られなかったものだ。

 ちなみにこの小説は映画化されたが、映画を見たカズオ・イシグロはストーリーの筋がわからないと村上春樹にこぼしたそうだ。いくらかプロットを剪定し、すっきりさせた映画でさえこうなのだから、いかに原作が複雑かわかるだろう。

 

 イギリス情報部の元スパイ、ジョージ・スマイリーがかつての上司に呼び戻される。情報部を裏切り、イギリスの情報をソ連に流している二重スパイがいるというのだ。スマイリーはその二重スパイを割り出すため、秘密の調査を開始する。調査を進めると、情報部のかつてのトップだった“コントロール”が謎の極秘作戦を行なっていたこと、そして裏切り者の「モグラ」は現在の情報部のトップにいる四人のうち誰かだということが判明する。しかもその背後にはスマイリーと因縁のあるソ連情報部の伝説のスパイ、カーラの影が感じられた。

 はたして「モグラ」は何者なのか。コントロールの作戦とはなんだったのか。懸命の調査の末に、スマイリーは自身をも巻き込んだ巨大な陰謀に直面する。

 

 それにしても、本作のストーリーはなぜこんなにもわかりにくいのか。

 その原因の一つとして、読者に注意力と記憶力を強いるル・カレの文章スタイルが考えられるだろう。

 物語は小学校にジム・プリドーという教師が赴任し、ビル・ローチ少年と出会う場面から始まる。続いてシーンは切り替わり、主人公のジョージ・スマイリーがかつての上司に呼び出され、調査を依頼される場面に移る。元同僚のピーター・ギラムが運転する車で上司の家に向かう途中、スマイリーは尋ねる。「エリスに関するニュースは?」

 実はこの「エリス」とはジム・プリドーのコードネームであり、プリドーはある作戦の失敗によりスマイリーと同時期に解雇された元スパイなのだ。しかし、エリスの名前が出てからその正体がわかるまでに七十ページほどかかる。それまで読者はエリスとは何者なのか、序盤の小学校教師がストーリーにどう関わってくるのかわからないまま読み続けなければならないのだ。このように「意味ありげな言葉の意味が後半になってわかる」という場面がル・カレの小説には多い。

 加えて探偵役を務めるスマイリーと、読者の思考がシンクロすることが極めて少ない。スマイリーがそのとき何を考えているか、いちいち説明されない。

 なので、スマイリーがかつての関係者たちに聞き取りを繰り返すときも、その相手がどう事件に関わっていたのか、読者はなかなかわからない。スマイリーの真意が何であるか考え続けなければならず、それが読み手の体力を消耗させてくるのだ。

 さらに作中ではフラッシュバックが多用される。スマイリーは情報部に残された資料を読み返し、さらに自分の記憶とのすりあわせを繰り返す。現在の場面とスマイリーの記憶の場面が入り混じり、時系列も複雑になっていく。現在と過去を行ったり来たりするうちに今読んでいるのはいつの話なのか、曖昧になっていく。

 おまけに現在と過去の間に無数の人名がちりばめられているため、余計に混乱してしまう。

 久しぶりに本書を読み返していたとき、スマイリーとジム・プリドーが再開した場面ではたと読む手を止めた。文章中に『スティード・アスプレイ』という見覚えのある名前がでてきたが、この男が何者だったかどうしても思い出せないのだ。どこかのシーンでこの名前が出て来たはずだが、どこだったかわからない。スマイリー以前の世代のスパイだったはずだが、どこでこの名前を見たのか。

 実はこのスティード・アスプレイ、次作『スクールボーイ閣下』にも名前だけ登場していたのを発見した。また、ネットの情報によると過去作『ドイツの小さな町』にも登場しているそうだ。こうなると無性に気になって来て、シリーズをもう一度読み返そうかといいう気になってくる。

 

 以上のように、この小説は読者の注意力と記憶力をフル回転させて読まなければ、話の筋を追うのが難しい。実を言うと、何度も読み返した今でもスマイリーがどうやって二重スパイを特定したか、いまいち理解できていない。自分の貧弱な頭脳が悲しい。

 

 自分が初めて本書を読んだときも、ストーリーをあまり理解できなかった。複雑なプロットを追いかけるのがやっとで、物語の細部まで味わうことはできなかった気がする。

 ではつまらなかったのかというと、むしろ面白かった。細かい部分を把握できなくとも、一つ一つのシーンに興奮し、夢中になって読んだ。

 この作品の文章の密度、人間達のドラマは傑作『寒い国から帰ってきたスパイ』を凌駕する。多少ストーリーがわかりにくくても、ぐいぐい読ませるだけの力がある。

 

 「二重スパイは誰か?」というのが物語の主題だが、実はその正体に意外性はない。というのも「一番怪しい人間が犯人」なのだ。そこにミステリーの犯人当ての面白さはない。

 しかし、これがリアルなのかもしれない。ル・カレ自身が半生を綴った『地下道の鳩』にニコラス・エリオットの興味深いエピソードが登場する。エリオットは実在した二重スパイであるキム・フィルビーの上司であり友人だった男だ。エリオットはフィルビーこそが裏切り者であり、長年に渡って自分たちを欺いていたことを知りながら、それを指摘しようとせず、むしろフィルビーが疑いから逃れられるように手助けしたという。これは「モグラ」の正体に薄々気づきながら、気づいていないふりをしていた本作の登場人物たちと重なって見える。あまりにも大きな裏切りに直面したとき、人間はそういう行動を取るものなのかもしれない。

 この作品では、裏切られた人間たちの姿があますところなく描かれる。スマイリーが調査によって直面するのは、スパイたちの忠誠心の亡骸だ。スマイリーの愛情は妻のアンに裏切られるし、ジム・プリドーをはじめ、国のために働いたスパイたちはその国によって忠誠を裏切られる。ル・カレは確かな観察眼で、裏切りが何をもたらすか、裏切られた者たちに何が残るかを全編を通してじっくりと描き出す。

 ジム・プリドーはスマイリーの前で忘れようとしてきた情報部への不満、憤怒をぶちまける。国から切られたスパイは裏切りによってえぐられた傷跡を抱えたまま、誰にも知られないまま苦しみを隠すしかない。

 スマイリーが二重スパイの正体を探ろうとするとき、それは見えないところに埋まっていた愛と裏切りの歴史を掘り起こすことでもある。スマイリーとアン、プリドーとビル・ヘイドン、そしてスマイリーとカーラ。彼らの何年も前から続く因縁が紡ぐ糸を、手繰るとき、その糸は人々の間に沈んでいた、見たくもなかった黒い錘につながっている。

 

 そうして張り巡らされた糸をたどりながら、いよいよスマイリーとギラムのコンビは「もぐら」の正体に近づいていく。真相への最後のピースを得るためにトビー・エスタヘイスを尋問するシーンはこの小説のハイライトの一つである。大物としてふるまっていたトビーを、スマイリーは慇懃無礼なまでに穏やかな口調でなぶるように追い詰めていく。ここではスマイリーのスパイとしての腕前、冷酷さがいかんなく発揮されている(ちなみに、このシーンは村上博基訳よりも菊池光訳の方がスマイリーのいやらしさがよく出ていると思う)。

 だが、二重スパイとの対決に完全な勝利を収めかけたスマイリーは、最後に大きな衝撃を味わう。

 全ての元凶となったもぐらの正体に気づいた瞬間、全編通じて冷静だったスマイリーは初めて感情を爆発させる。自身の内側で嫌悪、怒り、共感など、国やスパイたちに向けての抑えきれない感情がほとばしった後、スマイリーはただ立ち尽くすしかない。裏切り者の真の罪深さが露呈される瞬間、ここは何度読んでも興奮させられる。

 

 ちなみに、本作の次にグレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』をつづけて読むと面白いかもしれない。こちらも二重スパイをテーマにした小説だが、『ティンカー、テイラー』とは読後の印象が大きく異なる。

 『ヒューマン・ファクター』の主人公は他国との友情に従って裏切りを行う思慮深い男だ。対してル・カレが描く「もぐら」は習慣的な裏切りの行為に暗い喜びを覚えるような人間だ。

 キム・フィルビーと実際に友人だったグリーン。対してフィルビーを人格ごと嫌悪したル・カレ。二人が国を裏切ったスパイへ向ける視線はかなり異なり、それが小説にも反映されているのだろう。『ヒューマン・ファクター』も傑作なので、ぜひ読み比べてほしい。

『春琴物語』(1954 大映東京/伊藤大輔)

 

 

春琴物語 [DVD]

春琴物語 [DVD]

 

 

 映画が始まると、画面には「第二回東南アジア映画祭 ゴールデンハーヴェスト賞 受賞」という言葉とトロフィーが映し出される。これは大映永田雅一が香港ショウ・ブラザーズと発足したコンペで、現在でもアジア太平洋映画祭として存続しているようだ。こんな映画祭があったとは初めて知った。

 

 谷崎潤一郎の『春琴抄』を原作に、巨匠・伊藤大輔が撮った文芸映画である。スタッフも豪華で美術の木村威夫、音楽に伊福部昭など後に名の知られる人たちも多く参加している。

 明治時代を再現した美術も力が入っていて、見応えがある。着物から洋服、行灯からランプ、自転車はドレスを着た夫人など、明治の文明開化の有様が感じられてるのが面白い。

 ちなみに、本作は大映京都ではなく大映東京で撮影されている。理由は「純粋な明治ものをつくるため」らしいが、当時の京都撮影所に不足があったのだろうか。ここらへんの事情はよくわからない。

 

 冒頭、奉公のために商家に連れてこられた幼い佐助は、商家の娘であるお春(春琴)を見かける。手を引かれたお春が画面奥の戸を通って消えていくのを呆然と見送る佐助の後ろ姿には、運命の恋が始まった瞬間を感じさせてワクワクさせられる。しかしそれをナレーションで説明してしまうのはちょっとくどい。

 

 成長したお春は盲目だが美貌と琴の才に恵まれた。お春は佐助のことを大層気に入り、琴の習い事に行くときにはいつも佐助を付き添わせた。そのうち佐助に三味線の才能があることに気づき、お春は親に頼んで佐助を自分の弟子にしてもらう。こうしてお春と佐助は主従関係にありながら、師匠と弟子の間柄になった。佐助にとって、密かに慕うお春にこうして仕えるのは何よりもの喜びだった。

 やがてお春は琴の師匠から免許皆伝をいただき、師匠の名をもらって「春琴」と名乗るようになる。

 

 春琴と佐助は周囲から結婚を望まれるが、本人たちはそれを拒否して主従関係を維持しようとする。

 春琴が佐助に三味線を教えて師弟関係を望むのも、家庭を持つよりも自分が主人で佐助が下僕という関係の方が尊いと考えているからだろうか。ここらへんは映画を見ていて少しわかりにくかった。こういったところに谷崎潤一郎の「自虐による愉悦」が表れているのかもしれない。

 高熱で倒れた春琴が佐助に介抱されている。佐助が寝汗を拭こうと春琴の着物の裾に手を入れると、春琴が「灯りがまぶしい。消して」と頼んでくる。要するに誘いの言葉だか、そのことに気づいた佐助は息を飲み、意を決してランプの明かりを消して襖を閉める。直接的な描写はないが、このシーンはなかなかにエロい。

 こうして佐助の子供を身ごもった春琴だが、父親が誰であるかは決して明かそうとはしない。沈黙を守り続けるうちに子供は生まれ、親の知り合いに預けられるが、幼いうちに死んでしまう。

 子供が死んだことへの悲愁が軽く流されてしまうのに違和感があるが、この子供がラストでもう一度意味を持って来る。

 

 琴の教室を開くようになった春琴の元に、商売で成り上がった利太郎が頻繁に訪ねて来る。利太郎は春琴に下心を持ち、そのため自分の新築祝いにと春琴を誘い、琴を演奏させる。

 ここで主演の京マチ子も花柳喜章も見事な演奏を披露する。この映画には俳優達が舞や琴や三味線を当たり前のようにこなすシーンが数多くあるが、こういうシーンを見ると当時の俳優たちのスペックの高さに驚かされる。これは今の俳優のレベルが下がったというよりも、当時と今では映画の観客の求めるものが変わったということかもしれない。

 道を行く人たちが思わず足を止め、振り返るような抜群の演奏をする春琴を、下心を持つ利助が食い入るように見つめる。それを遠くから眺めていた女が「ボンもイカもの喰いねえ」と笑いながらいう。あまりに無邪気に投げつけられる侮辱の言葉に、当時の盲目の人に対しての差別意識がよくわかる。

 

 利太郎の誘いを厳しくはねつけた春琴は、ある事件のせいで顔面に大火傷を負ってしまった。火傷でただれてしまった顔を佐助に見られたくないと泣く春琴のため、佐助は自分の目を針で刺す。

 自分は原作小説でもこの場面が苦手で仕方なかったのだが、映画でもこのシーンは怖い。とにかく怖い。目の位置を鏡で確認し、落とさないように針に通した糸を指に巻きつけ、黒目に突き刺す。そういったディティールにも寒気がするし、徐々に暗くなって見えなくなっていく過程もゾッとする。

 

 目を潰してからの展開は蛇足の感もあるし、禍々しい愛の告白の凄みも少し薄められてしまった気もするが、ここには不幸な二人に最大限の救いを差し伸べたいというスタッフの気持ちが表れているのかもしれない。

 が、そのあとのシーンに少し心を打たれた。

 それは春琴の幼くして死んだ子の墓参りをするため、二人が佐助の故郷にやって来る場面だ。二人を出迎えようと店から佐助の父と母が店から出て来る。このなんてことのない、ごくごく短いシーンに不覚にも感動してしまった。

 年老いているが、見るからに人の良さそうな父母が「はやく、はやく」と言いながら店から出て来る。父は久しぶりの息子の顔をじっくり見るために、あわててメガネを探している。そういった二人の様子からは、善良さを感じるが、その善良さはどこまでも普通のものだ。自分は、その普通さにホッとしたのだ。

 周囲の差別的な目にひるまず、盲目の人間が二人、寄り添って生きていこうとする。そういった春琴と佐助のことを、老いた父母のような普通の人たちが暖かく出迎えてくれる。そのことに良かったなあ、本当に良かったなあと、こちらも二人の行く末を祝福したい気持ちになってきた。

『喜多川歌麿女絵草紙』 藤沢周平

 

 

新装版 喜多川歌麿女絵草紙 (文春文庫)

新装版 喜多川歌麿女絵草紙 (文春文庫)

 

 

 当代随一の浮世絵師、喜多川歌麿が江戸で六人の女たちと出会う。個性は違うが揃って魅力的な女たちを、歌麿美人画の題材にしようとする。

 歌麿にとって「見えないものを隠しているような女」こそが、絵の題材に値する。そんな女の姿を絵の中に写し取ろうとする時、歌麿は同時に女の人生を垣間見ることになる。女たちが送ってきた人生に、歌麿は翻弄される。 

 そういう時の歌麿は女にとって傍観者にすぎない。歌麿が女たちの境遇に同情や愛情を感じることもあるが、それ以上のことはできない。女たちを救うことも、苦悩を分かち合うこともできず、歌麿は絵を描き続ける。女の生命を、絵の中に閉じ込めるように。だがその度に歌麿には捉えられない女の姿が、するりと手を抜けるように絵から逃げていってしまう。

 ある者は確かな幸福を掴み、江戸の町を悠々と歩く。またある者は抜けられない苦境に喘ぎ、もがき苦しんでいる。歌麿はそんな女たちの姿が、鮮やかな四季の風景に溶け込んでいくのを見つめるしかない。

 そんな歌麿にとって、唯一の例外が千代だ。歌麿の弟子であり、死んだ妻の代わりに身の回りの世話をしてくれる出戻りの女。歌麿にとって傍観者ではなく、当事者として関わることのできる、唯一の女だ。だが、歌麿は千代と家庭を持とうとは考えない。そういった関係を持つには、歌麿は老いすぎた。そのうちに、千代も歌麿の元を去ってしまう。

 歌麿はひとりぼっちだ。

 

 藤沢周平の処女作である『溟い海』は、葛飾北斎を主人公にした作品だ。『溟い海』と『女絵草紙』の主人公、北斎歌麿の境遇には多くの共通点がある。絵師として世間に名を轟かせたが、すでに若さを失い、新しい才能の出現に脅かされている。

 『溟い海』の北斎安藤広重の「東海道五十三次」に、自分の到達できない新しい才能を感じ、大きな憤怒と嫉妬を抱える。

 『女絵草子』では世に打って出ようとする東洲斎写楽の絵に、歌麿は自身の衰えを感じざるを得ない。

 男たちは新しい時代の波に押し流されようとする。未知の才能への憤怒は、北斎を広重襲撃という激しい行動へ導こうとする。

 それに対し、写楽という才能への、歌麿の反応は静かだ。残った力を振り絞り、もうひと勝負を決意する。しかし、すでに己には若さも、力も残っていないかも知れない。そんな疑いに囚われた歌麿は雪の降る夜に歩き回る。

 そんな歌麿の前に、七人目の女が登場する。

 この女の登場はあまりにも唐突だ。だが、直後の歌麿の行動には、創作に対する我が身を切り裂くような覚悟と、言いようのない寒々しさが感じられ、圧倒される。

 歌麿にとって、女とは何なのだろう。愛をかわし、幸福に暮らす相手でない。全ては絵だ。絵の題材として、女は存在する。そのことを言い聞かすように、歌麿は女の股座を覗き込む。

 歌麿が女たちの人生を垣間見たように、読者も歌麿の人生の暗部を目撃する。そして幾多の女を見出し、描いて来た男の行き着いた先に、戦慄せざるを得ない。

それではおうちに帰りましょう『ペンギン・ハイウェイ』(2018 石田裕康)

 

ペンギン・ハイウェイ 公式読本

ペンギン・ハイウェイ 公式読本

 

 

  石田監督の前作「陽なたのアオシグレ」はあまり好きになれなかった。なので今作も期待せずに見に行ったが、かなりおもしろかった。森見登美彦の世界が忠実に映像化されていた。

 主人公のアオヤマ君にとって、世界はワクワクするような発見に満ちている。「プロジェクト・アマゾン」と名付けた川の探検や大好きな歯医者のお姉さんのことまで、日々の驚きをアオヤマ君は研究し、ノートに丁寧に保存している。

 街中に大量のペンギンが出没する。「海」と名付けられた不思議な球体が宙に浮かぶ。森では「ジャバウォック」という未知の生物が蠢いている。アオヤマ君の暮らす街にはファンタジー小説に相応しいような、現実離れした事件が次々と起こるが、アオヤマ君はこれらの不思議な出来事を科学的に解明しようとする。

 現実離れした出来事を観察し、仮設を立て実験し、検証する。子供の目で不思議を捉え、科学的に研究する。こういったところに一本の芯が通っているため、一見ジュブナイルファンタジー小説のような作品がSFとして成り立っている。

 また、アオヤマ君が研究に用いるノートやペン、森に作った秘密基地など、小道具も楽しい。

 

 そうして街に深刻な異変が起こるうち、お姉さんの日常も変貌してしまう。自分は何者なのか?なんのために生まれてきたのか?街の様子が変貌していくのに合わせ、お姉さんは自分を見失い、苦しむこととなる。

 そんなお姉さんをアオヤマ君は研究によって救おうとする。培ってきた科学の方法で、お姉さんの謎を解こうとする。

 「お姉さんを救いたい」という思いが、これまでの研究が、ノートが、世界の真理の一端を暴き、その瞬間から物語は圧巻のクライマックスに向けて走り出す。

 だが、それはお姉さんとの別れを意味していた。

 少年の冒険は終わり、季節が巡って秋がやってくる。カフェで一人座っているアオヤマ君。

 そこに、映画の作り手はあるサプライズを用意している。原作にはない映画オリジナルのシーンだが、あそこから「アレ」が戻ってきて再会できたことは、アオヤマ君にとってはこれ以上ない希望を与えてくれただろう。

劇場版 のんのんびより ばけーしょん(2018 川面真也)

 

『劇場版 のんのんびより ばけーしょん』オリジナルサウンドトラック

『劇場版 のんのんびより ばけーしょん』オリジナルサウンドトラック

 

 

 テレビアニメの『のんのんびより』のあくまで延長として。劇場版だからと野心的にならず、ただテレビアニメの内容を潤沢な予算で丁寧にやる。観ていてそういう印象を受けた。

 たとえば冒頭に出てくる川のせせらぎや、沖縄の夜空や海を輝かせる星と夜光虫など、映像も充実しているし、ギャグもいつも通り面白い。サプライズはないが、ファンの期待を裏切らない。ある意味安心できる出来だ。

 ところが沖縄旅行が終わる寸前、あるサプライズが待っている。この瞬間、物語は観客の予想もテレビアニメのスケールも超え、予想以上に映画として充実した瞬間を迎える。こういった観客の印象に残るような、鮮やかな一瞬が映画の命であり、観ていてドーンと盛り上がるのだ。それをギャグで落とすのも良い。

 黙って車に乗ろうとする夏海をれんげが呼び止める。冒頭に出てきた水車小屋の絵が、ここで伏線として効いてくる。台詞だけではなく映像で語ろうとする姿勢が心地良い。

 

 夏海が実質的な主人公だが、他のキャラクターにもそれぞれに見せ場がある。中でも一番活躍していたのはひかげで、様々なギャグシーンにオチをつける。

 あと、個人的には一穗が一番好きなのだが、そんな一穂にも川下りの場面で見せ場があって嬉しかった。川に飛び込んではしゃいで見たり、頼れる大人としての一面を見せたり、いつもと違う一穂だったが最後には‥‥‥。

 OPとED曲、両方とも良い曲だと思ったが、特にEDの歌詞は聴いているとじんわりと効いてくる。映画のストーリーと相まって感動的だ。

 

おもいで

おもいで

 

 

『誇り高き挑戦』 深作欣二

 

 

誇り高き挑戦 [DVD]

誇り高き挑戦 [DVD]

 

 

 火山をバックにしたニュー東映のロゴが出て、すぐさまファンクの力強いシャウトに機動隊とデモ隊の白黒写真が画面いっぱいに広がる。無闇なエネルギーにオープニングから映画の世界にガツンと引きずり込まれる。

 

 終戦後の日本、業界新聞の記者・黒木(鶴田浩二)はかつて大手新聞社の敏腕記者だったが、今では社員が四人しかいないような会社に勤め、すっぱ抜いたネタを元に会社から金をせびるまでに落ちぶれていた。今日も三原産業という会社を脅しに行った黒木は工場から走り去った車に乗っていた男を見て表情を一変させる。その男・高山(丹波哲郎)は戦争中に日本軍の特務機関員として暗躍していた男であり、黒木とは因縁の相手であった。

黒木は戦争中のリターンマッチだと高山について調査を始める。執念の調査はやがて高山との対面へと結びついた。高山は今では武器ブローカーとして、様々な国へと武器を横流ししていた。戦争中に犯した罪も忘れ、闇社会での金儲けに励む高山に対し、黒木は力強くタンカを切る。

「お前の泣きっ面が見たくなったぜ」

 高山の犯罪を告発するため、黒木の執念の調査が続くが、調査に協力していた弘美(中原ひとみ)にまで高山の魔の手は迫り‥‥‥。

 

 戦争前の古い時代を鶴田が、戦後の新しい時代を丹波が象徴している。この二人の対比は鮮烈だ。

 丹波哲郎は戦争中に特務機関員として働いていて、敗戦後はGHQの協力者に寝返った男だ。時代によって自由に主義主張を入れ替えて生き残ってきた。そして今は国際的な犯罪組織で武器のブローカーをやっている。

 モダンな大胆さと爬虫類的な冷たさを持つ丹波の悪役は魅力的だ。敗戦の悲愁とは無縁の大胆さ。それに散々利用してきた女を電話一本で殺してしまうような冷酷さが際立っている。

 

 対する鶴田はいつもの着流しではなく、黒のトレンチコートにサングラス姿の現代的な佇まいで、これも悪くない。

 鶴田のサングラスはただのコスチュームではない。戦中に一人の女性の死について調査している時、丹波に痛ぶられた目の傷を隠すためのもので、鶴田の戦中へのこだわりを表すアイテムだ。

 

 鶴田が今も戦中に執着しているのに対し、丹波は戦後の時代を歓迎している。

「戦後、この国に根性なんてなかった」

 植民地も悪くない。ようは儲ければいいんだと、丹波は戦後の日本を受け入れ、したたかに生き残ろうとする。

 鶴田は丹波のような生き方を受け入れることができない。時代が変わったから、日本が負けたから、それまでの罪が消える訳ではない。鶴田は丹波の拳銃の密輸入を追求する。

 

 鶴田は丹波の犯罪について記事を書き、原稿を古巣の新聞社に持ち込むが、編集長たちは受け取ろうとしない。

 今の日本でこんなことを記事にしようとしても無理がある。今は耐えるときだ。そうすればいつか状況は良くなる。そんな編集長たちのおためごかしに鶴田は激昂する。

「あんたたちは戦争中と何も変わっていない」

「あんたらの力じゃ、世の中はびくともしない」

 鶴田は編集長を、新聞社のあり方を激しく罵る。戦争中は軍への忖度にまみれた記事を書いていたのに、いざ敗戦すれば戦争の責任を過去に押し付けて涼しい顔をしている。そんな新聞社と犯罪者の丹波がどう違うのか。

 

 戦中と戦後で、時代は大きく変わってしまった。戦争の間に犯してきた罪から、丹波のような人間は大した反省もなく立ち直ろうとしている。それが鶴田には許せないのだ。

 鶴田はサングラスを決して外さず、強引な調査を続ける。鶴田は丹波や新聞社だけでなく、今の時代さえ憎んでいるようだ。

 そういった鶴田の姿を見て思い出すのは加藤泰の『懲役十八年』だ。この映画の安藤昇も戦争を引きずり、新しい時代を受け入れることができない。最後には新時代で私腹を肥やしていた小池朝雄を撃ち殺すことで、現代と折り合うことを完全に拒否してしまう。そしてこの『懲役十八年』の脚本を書いたのが笠原和夫だ。

 『仁義なき戦い』の一作目でも、菅原文太は時代に取り残された男として描かれている。刑務所に入っているうちに闇市の時代は過ぎ去り、文太は社会の急激な変化に取り残されてしまう。そうして過去を清算せずに起業家として振舞っている金子信雄らに対して、文太は怒りを爆発させるのだ。

 

 深作欣二は本作の後も『軍旗はためく下に』や『仁義なき戦い』で「戦後の日本」を描いて来た。この『誇り高き挑戦』はそういったテーマに連なる作品である。

 深作の映画で敗戦後の悲惨さや怒りが表現されるとき、そこにはどこかシニカルさが感じられた。情緒に溺れることなく、状況を冷酷に観察する冷たい視線があった。

 こういった点は深作と同時期に活躍していた中島貞夫の映画と比べるとわかりやすいかもしれない。特攻隊を描いた『あゝ同期の桜』では、中島は特攻に赴く若者たちに入れ込んで撮っている(そしてそれが大いに泣かせる)。これには東京撮影所と京都撮影所という違いも大きいのかもしれない。

 

 鶴田は丹波の犯罪を世に訴えるために厳しい調査を続けるが、過去を憎む苛烈な生き方に鶴田の周りの人たちは離れていってしまう。

 鶴田と一緒に調査を続けてきた梅宮辰夫(まだ痩せていて美青年だった!)も、「新しい時代のアスファルトのまっすぐな道が好きだ」といって、鶴田と袂を分かってしまう。

 鶴田はそれでも調査を続けるが、ついに丹波の犯罪を暴くまでには至らなかった。丹波は日本から脱出しようとする直後、自分が仕えていた組織の人間たちに痛ぶられるように殺されてしまう。

 丹波の死体のそばに鶴田が為す術もなく佇む。その姿をカメラがズームアウトして撮るシーンに、鶴田の無力さが滲んでいて印象に残る。

 

 無念の鶴田だが、ラストには少しの希望が感じられる。悲惨な世の中も、ほんのちょっとずつでも変わっているのかもしれない。

 しかし、いい年の鶴田が女子大生に「何もわかっていない」と言われるラストは見ていて恥ずかしい気もする。

 逆光に浮かび上がる国会の姿を、ついにサングラスを外した鶴田が眩しそうに見ている。   

 その姿をローアングルで力強く捉えたショットで映画は終わる。

 

チャットモンチーの思い出

 

 

誕生(初回生産限定盤)

誕生(初回生産限定盤)

 

  チャットモンチーを初めて見たのはテレビのミュージックステーションだった。曲は『とび魚のバタフライ』で、幼い見た目や歌声から「中学生みたいなグループやなあ」と思った。そしてそのまま忘れてしまった。

 次にチャットモンチーを見たのは数年後だ。寝付けない深夜、テレビのチャンネルを回し続け、チャットのライブ映像がたまたま目に止まった。

 演奏されていたのは『親知らず』で、メンバーの中学生みたいなルックスとは裏腹に、充実した演奏に力強いボーカル、それに印象的な歌詞の世界に魅了された。

 続いて『世界が終わる夜に』や『東京ハチミツオーケストラ』も強く印象に残り、そして『とび魚のバタフライ』の演奏を聴いて「ああ、あのときのグループか」とようやく気付いた。

 幸運なことに高校の友達にチャットモンチーの好きなやつがいて、そいつにCDを何枚も借りて聴いた。そしてめったに行かないライブにも足を運ぶようになった。

 

 バンドから高橋久美子が脱退し、チャットモンチーは二人体制になった。二人になってからも何回かライブに行ったが、自分の生活にも変化があって、いつしかライブへ足は向かなくなった。

 それでもCDは買っていたし、過去の曲も繰り返し聴いていた。聴き続けるうちに好きな曲は変化して行った。最初は『親知らず』や『恋の煙』が好きだったが、気づけば『少年のジャンプ』と『コスモタウン』を延々と繰り返していて、そのうちに『ひとりだけ』や『Y氏の夕方』が最高だと思うようになった。

 二人になって以降は『私が証』や『最後の果実』が好きだ。ただ、どうしても二人で作った曲よりも、過去の三人で作った曲を聴くことが多かった。

 音楽のジャンルについてまったく詳しくないが、自分はチャットモンチーをロックバンドだと思っていた。特に橋本絵莉子のシャウト、あの可愛らしいのに力強い歌声を聴くたびに、チャットモンチーはロックバンド以外の何者でもないと勝手に確信していた。

 あの歌声は二人になってからも健在だったが、なんとなく三人の頃の曲の方が聴き手をガツンと引き込むような力がある気がした。チャットモンチーは二人体制になってからバンドのスタイルを大胆に変更してきたが、そのせいか曲調もロック調のものよりもポップの方に寄った曲が多くなった。

 チャットが変化していった理由として、三人の時と同じことをしても仕方がないという思いが二人にはあったのだろう。

 また、メンバーも歳を重ね、人生が深まっていくにつれて過去の曲にこめられていた「切実さ」が薄れていったのではないだろうか。特に橋本絵莉子は結婚や出産という大きな出来事があり、その変化に合わせて徐々に、かつてのチャットモンチーが好んだ恋愛や思春期といったテーマが、瑞々しい曲の題材として機能しなくなったのではないか。二人になってからのチャットはもう一度切実に歌うことのできる新しい題材を得るために苦闘していたのではないか、と考える。

 これは自分の考え足らずな空想かもしれない。自分よりもこのバンドのことを長く、深く追ってきた人は一笑に付すような意見かもしれないが、とにかく自分は二人体制のチャットの曲を深く聴き込んでなかったことをそういう風に解釈していた。

 

 しかし、先日発売されたチャットモンチーの最後のアルバムを聴いた時、この解釈への自信がなくなってしまった。『誕生』と名付けられたこのラストアルバムに、自分はなぜこれほど感動するのだろう。高橋久美子が作詞した『砂鉄』のゆっくりとした、穏やかな全肯定には泣かされるし、さらにアルバムの最後を飾る『びろうど』のどうしようもない程の誕生への祝福がこちらの胸を打つ。

 

 チャットモンチーは過去のスタイルにこだわらず、逞しく変化してきた。かなりの成功を手にしていたのに、バンドとして過去のスタイルにこだわらず、新しい道を模索し続けていた。そのことを自分は見くびっていたということだろうか。

 数日後の武道館でのライブを、自分は映画館のライブビューイングで見るつもりでいる。チャットモンチーのライブを見るのは久しぶりだ。自分にとって本当に得難い経験を与えてくれたこのバンドが、どれほどの進化を遂げたか目に焼き付けるつもりである。