陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『黒の試走車(テストカー)』 増村保造

 

 

 

黒の試走車 [DVD]

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 スポーツカーを巡る産業スパイたちの攻防を描いた、大映の『黒シリーズ』の第一作目である。

 タイガー社に勤める産業スパイたち、リーダーの小野田(高橋悦史)とやり手の部下の朝比奈(田宮二郎)は開発中の新車・パイオニアの情報を守ろうとするが、業界最大手のヤマト社にデータを盗まれてしまう。ヤマト社では元関東軍情報部の馬渡(菅井一郎)が指揮をとり、スパイ活動を行なっていた。

 馬渡へのリベンジに燃える小野田だが、恐喝や買収などあの手この手で対抗しようとしても、全て馬渡に上を行かれてしまう。どうやらタイガー社の中に内通者がいるらしい。

 ヤマト社はパイオニアから盗んだ技術を元に新車を開発するつもりだ。このままではパイオニアの売れ行きは大打撃を受けてしまう。

 朝比奈は恋人でバーの女給をしている昌子(叶順子)に、とあるバーに勤めてほしいと頼む。そのバーは馬渡の行きつけの場所だった。そこで馬渡から何か情報を聴き出すのが朝比奈の狙いだ。

「この件が終わったら君と結婚する」という朝比奈の言葉に折れ、昌子は渋々とバーで働き、馬渡に気に入られるのだが‥‥‥。

 

 田宮二郎を始めとしたスマートで都会的な俳優たち、それに増村保造のテンポの良い演出と白黒の映像が「スパイたちの知能戦」という題材とマッチしている。

 なかでも産業スパイのリーダー、高橋悦史が非常に目立つ。一人だけ黒のスーツに身を固め、会社のためというより惚れ込んだパイオニアのために命がけで働く男だ。

 新車の情報を盗まれたことを「恋人を寝取られたようだ」とぼやくほどで、企業人としてこれ以上ない人間だが、企業のためなら家庭でも他人でも犠牲にしてなんら良心の痛まない、冷酷な人間でもある。

 ヤマト社が開発する新車の情報を得るため、高橋たちは相手企業の幹部を工事現場で脅す。暴行され、地面に這いつくばった幹部を高橋を含めた三人の男たちが見下す姿は、ギャングの姿そのままである。

 こういった産業スパイの姿には戦中の特高警察など、強権的な組織の姿が投影されているのかもしれない。敵が元関東軍の情報将校だったり、「警察や軍隊と一緒だ」というセリフがあったり、公開当時は戦争が遠いものではなかったことがわかる。

 

 ハイライトは船越英二高橋悦史、密室での二人の攻防だろう。高橋の仕掛けたトラップがわかりやすすぎるのが難点だが、高橋の熱量、船越の焦燥の演技で緊張感が保たれ、目が離せない。

 船越が厳しく追求してくる高橋を「警察のつもりか」となじる。対して高橋は「おれは産業スパイだ」と誇らしげに言う。このシーンの禍々しさはなんだろう。会社の為といった大義名分から外れ、己の執念にとりつかれた男の狂気。そういったものさえ感じられる。

 組織の持つ暗黒を、高橋が一身に表現している。そんな高橋が、最後に自分の元を去る田宮を呼び止めようとするのがちょっと切ない。田宮を自分の家に連れて行ったり、本気で後継者にするつもりだったのか。

 

 もう一人、忘れてはならないのが上田吉二郎だ。ヤマト社の情報をリークする業界新聞の記者役で、階段を登るたびにヒーヒー息切れする、ぶくぶく太った男。そんな上田が終盤、暗闇の中から突如現れるシーンの悪漢っぷりが素晴らしく、もはやかっこよく見えてくるほどだ。

 

 強い印象を残す男たちの中で、肝心の田宮二郎はいつもの色男っぷりが影を潜め、妙に理屈っぽく、世間知らずの男に見える。「僕は人間らしく生きたい」と高橋悦郎を非難するセリフも妙に青臭い。

 田宮が自分の恋人を利用しながら「結婚しよう」と言い続けたり、敵のスパイの親玉に恋人の体を与えながら後悔するシーンなどは無邪気ささえ感じられる。

 

 いまいち貧弱な田宮に対し、本作に出てくる女性たちは非常にたくましい。理屈に囚われず、目的のために平気で相手を出し抜いて生き抜こうとしている、そういう女性のたくましさに増村保造の個性を感じる。

 とくに強烈なのが病室を盗聴していた看護婦で、自分が裏切った船越を「往生際が悪いわよ」とぴしゃりと斬って捨てる、その欲ぶかさと冷酷さにはピカレスクな魅力がある。

 

 だが、最も魅力的なのは田宮の恋人役・叶順子だ。田宮に「結婚しよう」と言われても、笑って真に受けない。若くして人生の酸いも甘いも噛み分けたような、アンニュイな雰囲気の女だ。豊満な肉体に挑発的な瞳が強い存在感を放っていて、惚れた男に従う単純な女ではなく、自我を持った人間として描かれている。

 都会的な色男・田宮二郎が本来の魅力を発揮できていない時、この叶順子のアダルトな雰囲気がバランスをとって、映画を引き締まったものにしている。

 最後、叶順子はこれまでの出来事を受け入れて田宮と共に生きていく。「やっぱり愛が大事」という結末が甘く、だらしないものになっていないのは、この叶順子の存在があったからだろう。

『リズと青い鳥』山田尚子

 

 

響け!ユーフォニアム」のテレビ版も映画版も未見である。吹奏楽部や京都アニメーションにもそれほど興味はないが、友人にこの映画を勧められて鑑賞してきた。十分におもしろかった。そして予想以上に百合だった。

 

 本作は全体を通して、「静かな映画」いう印象が強い。演奏シーンを除いて派手な音楽は使用されず、心理描写にもあまり過剰な演出は見られない。

 その代わりに力を入れているのが音や人物の動きの演出で、特に印象的なのが序盤でみぞれと望美が待ち合わせし、音楽室へ歩いて行くシーン。セリフもほとんどないが、みぞれの足や視線の動き、望美の跳ねる髪やターン、そういった写実的な映像が魅力的で、見飽きるということがない。

 また、些細な生活音にもこだわっている。上履きと床の擦れる音、絵本のページがたわむ音などが臨場感を高めている。

 ストーリー自体も控えめで、劇中で大きなイベントはほとんど起こらない。舞台はずっと学校の中だし、主人公たちがプールや祭りに行くサービスシーンもばっさりカットされている。

 学校へ行き、授業を受け、吹奏楽部に通う。そういった当たり前の日常を通して描かれるのはみぞれと望美、ふたりの女の子の物語である。このふたりの関係が童話の『リズと青い鳥』になぞらえて変化して行く。その過程を映画は丁寧に掘り下げる。

 明るく友達も多い望美と、望美に依存気味で無口なみぞれ。ふたりの関係は予想以上に百合百合している。特に望美が向かいの校舎にいるみぞれを見つけ、フルートに反射し多光がみぞれまで届く場面。このシーンに漂う空気感というか、雰囲気は筆舌に尽くしがたい。

 

 本作は静かな映画だが、見終わった後にかなりの充実感がある。

 それは「大切なものが終わる」瞬間が、劇中で鮮烈に描かれているからだろう。

 そのひとつが終盤の演奏シーンだ。この演奏シーンもコンクールの大舞台などではなく、音楽室で大会に向けての練習という、視覚的に地味な場面だ。しかし、決して見劣りしない。

 覚醒し、完璧な演奏を見せるみぞれと、みぞれの才能に気づいてしまった望美。キャラの感情の変化と音楽の盛り上がりがシンクロし、すごく見応えのあるシーンになっている。

 

 そして終盤の理科室のシーンだ。ここはこの映画のハイライトだろう。みぞれは秘めていた感情を全てむき出しにして、ぶつかっていくが、望美は痛恨の決断を下す。 

 こういった場面でも、作り手はキャラを派手に泣かせたり、心情を叫ばせて表現したりはしない。ただ、キャラの細かい動きや呼吸音など、小さなディティールを積み重ねる。

 そういった細部のクオリティと、役者の演技を中心に構成することで、むしろシーンは力強いものになっている。

 ここでみぞれ役の種﨑 敦美、望美役の東山奈央 、二人の役者が最高の演技を見せる。

「みぞれのオーボエが好き」と言った時、望美は何を思っていたのか。「自分とは別の道を歩いてほしい」と伝えたかったのか。それとも「望美のフルートが好き」と言って欲しかったのか。

 今までとは違う世界を生きなければならない望美が、ひとりで廊下を歩いて行く。このシーンはかなり切ない。

 

 望美は「ハッピーエンドがいい」と何度か口にするが、この終わりはハッピーエンドなのか。本作では明確に描かれていない気がする。作り手はわかりやすい救いや愁嘆場を用意していない。

 ただ、主人公たちは前とは少し変わった日常を生きる。高校生の彼女たちにとって、今はまだ道半ばなのだろう。このあとも人生は続く。そうやって日常を続けるうちに、彼女たちの決断がハッピーエンドなのか、初めてわかるのかもしれない。

 ラストシーンで望美は「みぞれの演奏を支える」と言う。この言葉には決意が詰まっている。大事なものが終わってしまっても望美は立ち止まらない。また新しい関係を築いていこうとする。立ち止まらずに歩いて行くその先に、ふたりにとっての幸福があればいいと思うのだ。

 

 ちなみに、ネット上のいろんな人の感想文によると、見ている人によってみぞれと望美、どちらに感情移入するか分かれるようだ。自分は途中から完全に望美に感情移入していた。

 そのためか、終盤から頭のなかで「技術的な理由で聖飢魔Ⅱを脱退したゾッド星島親分」のことがぐるぐる回って仕方がなかった‥‥‥という信者にしかわからない話で感想文を終える。

 

悪魔が来たりてヘヴィメタる

悪魔が来たりてヘヴィメタる

 

 

一つの写真、一人の男 『キャパの十字架』沢木耕太郎

 

 

キャパの十字架 (文春文庫)

キャパの十字架 (文春文庫)

 

 

 ロバート・キャパ。スペイン内戦を始め五つの戦場を駆け回り、最後は地雷によってこの世を去った伝説の戦場カメラマン。特にスペイン内戦で撮ったある写真は、のちの報道写真のあり方を決定づけたと言われるほど重要なものとなった。

 その写真は『崩れ落ちる兵士』と呼ばれた。頭を撃たれた兵士が文字通り崩れ落ちる瞬間をとらえた傑作だが、この写真には多くの謎が残っている。   

 スペインのどこで、いつ撮られたのか。本当に撃たれた兵士を撮った物なのか。キャパがこの劇的な瞬間を撮影できたのはなぜか。

 やがて兵士は撃たれたのではなく、倒れた演技をしているだけだという「やらせ疑惑」も出て、未だ議論は絶えない。

 

 そんなキャパと『崩れ落ちる兵士』について、沢木耕太郎は前から並々ならぬ興味を持っていたようだ。それがわかるのが『キャパの十字架』に先立つ二十年以上前に書かれた「三枚の写真」という文章である。これは『象が空をⅡ 不思議の果実』に収録されたものだが、この文章を書いている時、沢木はキャパの評伝を翻訳している最中だった。

 この文章ではすでにキャパと「崩れ落ちる兵士」の真贋について言及しているし、さらには「大きな十字架を背負ったキャパ」という『キャパの十字架』とほぼ重なる表現も出てくる。他にもいろいろな文章で沢木のキャパについての言及は見られ、沢木にとってキャパという存在がどれだけ大きかったかがわかる。

 そして沢木は、ついに『崩れ落ちる兵士』の真贋についての調査に乗り出した。スペインを何度も訪れ、関係者へのインタビューを重ね、その結論が本書『キャパの十字架』である。

 

 

 最初に不満点を挙げておく。本書にはキャパやゲルダが撮ったいくつもの写真が縮小されて掲載されているが、目の悪い自分には写真の細部が見えにくくて困ってしまった。自分は文庫版を読んだので、単行本よりも余計に写真が小さくなっていたのかもしれない。

 沢木の検証では隅っこに写っている小さな草や雲が重要な意味を持ってくるのだが、小さい写真を見比べるのに疲れ、せっかくの検証を十分に楽しむことができなかった。

 

 それでも本書はおもしろい。特に印象に残るのは写真の持つ脆弱性と、キャパという人物の持つ魅力である。

 

 本書を読んで、写真というものの脆さに改めて気付かされた。

 トリミングやキャプチャーなどの編集によって写真の印象は大きく変わる。さらには写真を紹介する者の意思によって、写真は平気で嘘をついてしまう。

 例えばススペレギ教授と曾祖母の写真のエピソードがある。このスペイン人の教授はキャパの写真がフェイクであることを指摘し、沢木の検証に大きな影響を与えた人物である。

 そのススペレギ教授の曾祖母はスペイン内戦中、フランスへ逃げようとする民衆の一人だった。逃げる途中、海岸に座り込んだ曾祖母の姿を、ある報道カメラマンが写真に残していた。この写真はトリミングされ、様々な雑誌に掲載される。

 編集されていくうちに、写真はどこで撮られたものか、被写体の女性は誰かが曖昧になっていく。そのうちに、写真は全く関係のないゲルニカ空爆の被害者を写したものとして扱われてしまう。

 写真の「事実」を歪めるのは簡単なことなのだ。こういった写真の脆さは『崩れ落ちる兵士』も例外ではない。

 

 ただ、その一方で写真が予想以上に多くのものを語ることも事実なのだ。一瞬を切り取った写真をくまなく精査するとき、写真は思いもしなかった事実の一片を見せてくれる。

 沢木の検証は写真の隅に映る小さな断片を調べることで始まる。そういったごく微小な細部を積み重ねていくことが予想以上の仮説を生み出し、事実への接近を可能にする。

 

 

 そうした事実と仮説の積み重ねの末、いろいろなことが明らかになっていく。キャパはどのように撮影を行ったかということも、最初は重要視されていなかったキャパの恋人、ゲルダ・タローが『崩れ落ちる兵士』に深く関わっているかもしれないことも。そしてロバート・キャパという人間についても。

 沢木は細かい検証を重ねながら、キャパという人間をもう一度捉え直そうとする。何度もスペインに行き、撮影場所を探しに歩き回り、写真の隅の隅を見比べる。そうした作業を繰り返す内、キャパが背負った「罪」の存在と、「十字架」を背負いながら幾多の戦場を渡り歩いた男の姿が徐々に露わになっていく。

 そのとき、読者の前には非凡な力を持ち、戦場を嫌いながら戦場を必要とする男の、物悲しい姿が存在感を持って浮かび上がってくるのだ。

 本書は単にキャパの神話を剥ぐだけのものではない。沢木があれだけの時間と手間をかけて謎を追ったのはキャパを否定するためではなく、キャパの新たな実像を描くためだった。そういう印象を受ける。

 キャパの行為を糾弾することもできただろう。ただ、沢木はそうしなかった。

 そうして本書を振り返ったとき、読者に残るのは、あとがきで作者が振り返ったとおり「旅をした」という余韻である。

 写真の謎を追いかけることが、キャパの足跡を巡る一つの旅となる。その旅が終わったときに残る読後感が、本書の最大の魅力かもしれない。

 

 

不思議の果実―象が空を〈2〉 (文春文庫)

不思議の果実―象が空を〈2〉 (文春文庫)

 

 

『スーパーカブ』 トネ・コーケン

 

 

スーパーカブ (角川スニーカー文庫)

スーパーカブ (角川スニーカー文庫)

 

 

 

 

 自分はバイクに乗ったこともないし、カブに触ったことさえない。これから乗ることもないだろう。

 そんなバイクへの興味がペラペラにうすい人間でも、この『スーパーカブ』は楽しく読むことができた。

 

 

<ストーリー>

山梨の高校に通う女の子、子熊。両親も友達も趣味もない、何もない日々を送る彼女は、中古のスーパーカブを手にいれる。初めてのバイク通学、ガス欠、寄り道、それだけのことでちょっと冒険をした気分。仄かな変化に満足する子熊だが、同級生の礼子に話しかけられ——「私もバイクで通学してるんだ。見る?」一台のスーパーカブが彼女の世界を小さく輝かせる。ひとりぼっちの女の子と世界で最も優れたバイクが紡ぐ、日常と友情。

 

(裏表紙より引用)

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今日ですべてが報われる『15時17分、パリ行き』 クリント・イーストウッド

 

 

 

 鑑賞前に、自分がこの映画に期待していたのは「テロリストに対峙した三人は、いかにしてテロを阻止したか」という点である。武装したテロリストを相手に、丸腰の男たちはいかにして凶行を阻止したのか。そのときに何が起こったのか。その緊迫した瞬間を目当てに映画館に向かったのだ。

 しかし、この期待は十分には満たされず、大きく不満が残った。

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今の流行りは寿司ですよ 『希望のかなた』アキ・カウリスマキ

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 アキ・カウリスマキの最新作であり、前作『ル・アーブルの靴磨き』から続く「難民三部作」(元は「港町三部作」と呼ばれていたが、いきなり変更された)の二作目である。

 今作でもカウリスマキのトレードマーク(犬、音楽で心情を表現する演出、シンプルなカメラワーク、あざやかな色彩、極端に少ないセリフ、個性的な顔の俳優たち)は健在である。しかし、いつも通りのカウリスマキのようで、新しい部分もある。

 それはシリアからフィンランドに密航したシュルワン・ハジが亡命を求め、移民申請のための取り調べを受けるシーン。取調官の前で、ハジは移民となった経緯を淡々と話す。政府軍の空爆で家族が殺され、唯一生き残った妹と命がけの逃亡、その妹ともはぐれ、最後の希望がフィンランドへの亡命であること。自分の望みは妹を探し出し、フィンランドに呼び寄せること。ただそれだけだと。

 家族を殺されたことを、ハジは必要以上の感情を交えず、淡々と話す。その顔をアップでカウリスマキは撮り続ける。寡黙を良しとするカウリスマキの映画で、ハジは長いセリフで自分たちの危機と、難民の現実について語り続ける。

 カウリスマキのミニマムな世界観において、このシーンには異質なものを感じる。このシーンには難民について作り手からの強いメッセージがある。

 カウリスマキは本作について、難民についてのヨーロッパの偏見を打ち砕く「傾向映画」として作ったと語っている。そのためにいつもの寡黙さを捨てて、俳優の雄弁な語りによってリアルな難民の姿を表現しようとしている。

 こういった志が、本作に「いつものカウリスマキ映画」以上の新鮮さを与えている。

 

 

 また、本作の主人公、サカリ・クオスマネンも今までのカウリスマキの主人公たちとは一味違う。

 酒浸りの妻と別れ、服の卸売からレストランのオーナーへの転職を夢見る無口な中年男。ここまではいつものカウリスマキの主人公だが、クオスマネンはレストランの開店資金を稼ぐために怪しげな賭場に乗り込み、大勝負を挑むのだ。

 今までのカウリスマキ作品の主人公たちを思い出してほしい。マッティ・ペロンパーやマルック・ペルトラがこういうときに勝てたことがあっただろうか。カウリスマキの主人公たちはいつも敗者だ。特に金の絡んだ勝負には勝てない。ずる賢い奴らに金をむしりとられる、それが今までの主人公のパターンだったはずだ。

 ところが今作のクオスマネンはしたたかに、順調に勝ち進み、なんとギャングの親玉から大金を巻き上げ、悠々と脱出することに成功してしまう。これにはおどろかされた。かつてカウリスマキの映画で、こんな大勝利があっただろうか?

 立派な体躯にふてぶてしい顔のクオスマネン妙に頼もしい。このクオスマネンが購入したレストランの敷地に、移民収容所から逃げ出してきたハジが隠れ住む。

 追い払おうとするクオスマネンにカッとなり、ハジはパンチを見舞う。すかさずクオスマネンが殴り返す。次のシーンではレストランでハジに食事がふるまわれている。

 オーナーの「ここで働くか?」の提案に、ハジは力強く応える。こうしてハジはレストランの従業員として働くことになる。

 

 

 

 フィンランドに逃げ延びたハジの前には、移民申請を機械的に否決し、強制送還を命令する冷徹な裁判所や、ネオナチかぶれの男たちによる暴力などが立ちふさがる。こういったヨーロッパの冷たい不寛容にどう立ち向かえば良いのだろう。カウリスマキの出した答えは人々の小さな親切の大切さである。

 暴力にさらされながらも、ハジの周りはささやかな親切で満ちている。フィンランドへ向かう船の船員、収容所で出会う人たち、ホームレス、レストランのメンバー、そして「礼はいらん。素晴らしいものを運ばせてもらった」と言って謝礼を受け取ろうとしないトラック運転手。これらの人々の純粋な善意がハジへの救いとなる。

 

 

 

 今作は難民をめぐる厳しい現実を描きながら、要所でユーモアがちりばめられ、映画の雰囲気をやわらかいものにしている。 

 自分が好きなのはレストランで働き始めたハジの期限切れビザをどうするか?というシーン。その解決方法があまりに都合が良すぎて、真面目なのかギャグシーンなのかよくわからない。

 しかし、本作の笑いどころは満場一致で「寿司レストラン」のシーンだろう。これに至ってはいつもの「オフビートなユーモア」というより、もはやナンセンスギャグである。

 売上の芳しくないレストランをどうしようと皆が頭を悩ませる中、「今の流行りは寿司だ」とウェイターのテキトーな提案で、レストランは一気に日本風につくりかえられる。

 提灯で飾られた店内にドラが鳴り響き、法被とハチマキと前掛け(日本語で「最高級品 大勉強の店」と書かれているのがまたおかしい)を着けた店員が日本酒を運び、厨房では難しい顔をしたコックが寿司を握っている。シャリに刺身をのせ、さらにでかいスプーン一杯分のわさびをドンとのせた寿司のヴィジュアルはあまりに強烈だ。

 デタラメな日本のイメージに頭がクラクラしてくる。これまでシリアスなシーンが多かった反動か、カウリスマキもここでは大いにボケ倒す。

 

 だが、自分がもっともショックだったのはその前のシーン。寿司のつくり方を学ぶため、本屋で寿司の本を片っ端から購入する場面である。

 クオスマネンは日本語で書かれた本を大人買いするが、なんとその中に池波正太郎の『真田太平記藤沢周平の『孤剣』の文庫本が含まれているではないか!

 まさかフィンランドの、カウリスマキの映画でこの二冊が登場するとは思いもしなかった。カウリスマキはどこでこれらの本を知ったのか?もしや読んだことがあるのか?

 こんな日本人にしか通じないギャグをさらっと入れてくることに、唖然とするやらおかしいやら、とにかくインパクトの強いシーンだった。

 

 

 

 前作『ル・アーヴルの靴磨き』を、カウリスマキはあまりに都合の良いハッピーエンドで締めくくり、そして観客はそれを大いに祝福した。しかし今作のラストでは苦い結末が待っていた。

 ハジは離れ離れになっていた妹を助けることに成功するが、非情な運命を辿ってしまう。現在のヨーロッパを取り巻く状況では、『ル・アーブル-』のようなハッピーエンドはそぐわないものになってしまったのかもしれない。

 それでも、不思議と後味が悪くないのは、全てをやりきって座り込んだハジのもとに、寄り添ってくる一匹の犬のせいだろうか。

 映画の終わりかたは唐突なように感じたが、あの後を映さないことがカウリスマキの優しさなのだろうか。その後、ハジがどうなったかを観客の自由な想像に任せられるように、見た人の頭の中で、ハジが幸福な結末を迎えられるように、あえてカウリスマキはあそこで幕を下ろしたのかもしれない。

 

 順調につくられるなら、難民三部作は次が最終作となる。激しく移り行く世界の中で、次作はどのような結末を迎えるのか。

 不安なのは今作の序盤で、カウリスマキ映画の象徴、カティ・オウティネンがフィンランドを去り、メキシコへと旅立ってしまったことである。

 このカティ・オウティネンの不在がどこか不吉なものに感じられてならない。オウティネンが見切りをつけるほど、今のフィンランドは生きづらい場所なのかもしれない。

 何年後かに最終作がつくられるとき、世界はどうなっているのだろうか。たとえ現実の世界がどれほど冷たく非情なものになっていたとしても、どうか『浮き雲』のときのような、幸福な結末でシリーズを締めくくってほしいのだが。

 もっとも、シリーズ名がまた突然変わっているのかもしれないが‥‥‥。

橋ものがたり/藤沢周平

 

橋ものがたり (新潮文庫)

橋ものがたり (新潮文庫)

 

 

 江戸の橋を舞台に、男女の出会いと別れを描いた短編集であり、藤沢周平が市井小説に本格的に取り組む契機となった記念すべき作品である。

 本書の誕生について書かれたエッセイが『ふるさとへ廻る六部は』に収録されている。それによると、橋を舞台にするというアイデアは、週刊誌との連載小説の約束に苦しんでいた藤沢が、編集者との打ち合わせ中にたまたま思いついたものだったという。橋の上で男と女が出会い、または別れるといった漠然としたイメージが浮かび、これなら書けると思ったらしい。

 

 ところで、橋を印象的に使った作品といえば、自分が真っ先に思い出すのは加藤泰の映画である。加藤泰は映画の中で好んで橋を登場させ、印象的なシーンを作り上げてきた。『加藤泰、映画を語る』という本によると、加藤にとって橋には「これを渡ったら別世界」というイメージがあったそうだ。

 

 この「別世界」というイメージは『橋ものがたり』に出てくる橋とも一致する。たとえば「小ぬか雨」という短編では、希望のない生活を送る人妻が、追っ手から逃げる若い男と偶然出会い、その男と江戸を去って逃げることを夢見る。このとき江戸と隣の街をつなぐ橋が、今まで通りの灰色の生活と、危険だが新しい生活との境界線という決定的な場となり、そこを女は渡れるかが小説のテーマとなる。橋を渡った先にある別世界を夢見て、女は男を逃がそうとする。

 

 また、加藤泰の映画においても、橋というのは主人公たちにとって何か決定的なことが起こる場所であった。『車夫遊侠伝 喧嘩辰』で内田良平が桜町弘子と橋の上で恋に落ちるシーン、または『お竜参上』で藤純子菅原文太の雪の中での別れのシーンなど、加藤泰が男女の人生を決定するような一瞬を情緒たっぷりに描くとき、そこにはいつも橋があった。

 

 同じように、『橋ものがたり』でも橋がクライマックスの舞台となっている。「小ぬか雨」では主人公の女は新たな人生を求め、自分も連れて行って欲しいと男に懇願する。しかし、男は女を押しとどめ、一人で橋を渡って別の世界へ去って行く。今とは違う別の生活を夢見ながら、女はついに橋を渡ることができない。

 「ここを渡れば別世界」というイメージ、それと何か決定的なことが起きる舞台としての役割、この二つの点で加藤と藤沢の橋は共通するのである。

 

 しかし、橋の象徴的な使い方は同じでも、そこでの語り口は加藤泰藤沢周平では異なっている。

 加藤泰は男女の情念の噴出を、凝った構図や美術によって鮮やかに描き出す。対して藤沢の筆で描かれた男女の交流には淡白さがあり、主人公たちの情念は激しく放出されることはない。じわりと滲む程度である。

 ただし、そこにはただ淡白なだけではなく、陰影に富んだものがある。藤沢の書く男女の情念には、ぽとりと落ちた墨汁がゆっくりと滲んで行くような、心にあとを引くものが残るのだ。

 

                   ○

 

 本書に収録された短編はそれぞれ趣向が異なる。股旅ものの「吹く風は秋」や、意外なトリックが光る「思いちがい」、子どもの目線から大人の世界をセンチメンタルに描いた「小さな橋で」など、藤沢は物語作家としての腕を存分に発揮している。

 中でも目を引くのは「赤い夕日」という短編で、これは近親相姦という妖しいテーマを扱った異色作である。

 主人公・おもんは大店のおかみとして不自由のない生活をしているが、秘められた過去があった。おもんは孤児であり、十七まで斧次郎というやくざ者に育てられてきた。斧次郎を父親として慕っていたおもんだが、いつしか斧次郎とは男女の関係になる。そして日中は娘として振る舞い、夜は女房として振る舞うという異様な関係が、斧次郎の家を出るまで続いたのだ。

 おもんが斧次郎の女となる瞬間を、藤沢はごく少ないページでさらりと描写する。その控えめな書き方が、かえって二人の異常な生活に妖しいものを感じさせる。

 最後におもんはある事件をきっかけに、斧次郎との関係を清算することになる。そこでおもんは今の夫との強い結びつきを得るが、大切な思い出にもなっていた、帰る場所を一つ失ってしまった。斧次郎と暮らした町に背を向け、月夜に照らされた橋を夫と渡りきったとき、おもんと斧次郎とのつながりは完全に絶えてしまう。

 橋を象徴的に使うことで、娘であり、妻でもあった主人公の喪失が見事に描かれている。

 

                   ○

 

 そして本書のラストを飾る「川霧」である。本作のハッピーエンドはあまりに唐突で、御都合主義の感じさえする。しかし、出直すか、という言葉とともに、朝の光が寄り添う中、橋の上を男と女が歩いて行く、このラストシーンにひどく心を揺さぶられてしまった。

 いったい自分はどこに感動したのか。鍵となるのは主人公の「出直すか」という呟きにあったのだと思う。この素朴だが、極めて前向きな言葉が、これまで登場してきた男女たちの人生を思い出させたのだ。

 この江戸の町で、『橋ものがたり』の主人公たちは暮らしている。橋を渡れた者も、渡ることができなかった者も、幸福な出会いを遂げた者も、心に傷を抱え、それを誰にも理解されずにいる者も、それでも人生を続けている。

 そういった男や女たちにとって、この「川霧」の主人公の、傷も悔恨も抱えて生きていこうとする清々しく前向きな言葉が、何か救いになったような気がしたのだ。

 

 

橋ものがたり  新装版

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ふるさとへ廻る六部は (新潮文庫)

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加藤泰、映画を語る (ちくま文庫)

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