陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

ブログ名変更のおしらせ

 ブログ名を新しくしました。

 前の「日曜日には鼠を殺せ」というのは、このブログを開設した時、ブログの名前に悩んでなんとなく同名の映画から取ってつけた名前です。

 しかし、これだと検索しても映画のDVDとか同名のブログとかが出るばかりで、変えたいと前から考えていました。

 けど新しいブログ名も10秒くらいで考えた適当なものになってしまいました。

 ブログ名は変わりましたが、内容は変わりません。映画や小説の感想をアップしていくつもりです。

 今年は去年よりも記事の数を増やしたいと思っていますので、よろしくおねがいします。

ふとももとおっぱい『安達としまむら』(2)/入間人間

 

 

 この巻から安達はしまむらへの感情が家族愛よりも恋愛感情に近いことを意識し始める。それと同時にしまむらの胸に自分がどう感じるか妄想するなど、安達の言動はどんどん童貞くさくなっていく。女子高生がそれでいいのか。安達の迷走の度合いはどんどん深まっていく。

 また、今作から番外編として、しまむらたちの同級生の日野と永藤、自称宇宙人のヤシロとしまむら妹たち、それぞれのペアについての短編が収録されているのだが、これらの方が本編よりも百合の濃度が高い。

 特に、普段はボーッとして捉えどころのない永藤が、幼馴染の日野に向けるストレートな愛情表現には読んでてドキッとさせられる。それに比べれば、しまむらをクリスマスデートに誘うため頑張ってはいるが、安達はまだまだである。

 

 『安達としまむら』は他人への興味がうすい女子高生・しまむらと、しまむらに秘めた恋心を抱く同級生・安達の二人が主人公のライトノベルである。

 安達はしまむらと「特別な関係」になることを夢見ているが、自分の望みで関係が変わってしまうのを恐れてもいる。それでも諦めきれず、しまむらと徐々にでも仲良くなろうと色々な行動を起こす。

 努力の成果か、二人の仲は少し進歩した。一巻の頃は友だちと言えるか微妙な関係だったが、この巻では普通の友達といえるくらいになった。

 しかし、二人の間には依然として温度差がある。たとえばクリスマスに二人ででかける約束をしたあと、安達はクリスマスをしまむらとどう過ごすか、とにかく悩む。どうすればしまむらが退屈しないか、ひたすら悩み続ける。対してしまむらは気楽なもので、事前に安達へのクリスマスプレゼントを用意するが、それも安達のためというよりも「プレゼント交換でもしたら会話のネタに困らないかな」という程度の気持ちである。相手への気持ちの比重が偏っているため、二人の関係は少しいびつな形を描く。普段はクールなのに、しまむらのことになると暴走気味になる安達の姿は読んでいておもしろいが、ちょっと不憫な気持ちになる。

 

 本シリーズはしまむらの視点と、安達の視点を章ごとに行ったり来たりしながら進む。安達としまむら、二人の視点からみた二つの日常が物語を構成する。そして相手への思いの重さが違うように、二人の日常は同じものを見ていてもだいぶ趣がことなる。

 しまむらにとっての日常に大きな山場はないが、ゆるやかな起伏くらいはある。流れに身を任せるように、しまむらは日々をゆっくりとたゆたう。そうやって漂ううちに偶然出会った安達に対して、しまむらは淡いながらも友情を抱いているようだ。二人に固い結びつきがあるわけではない。それでもしまむらしまむらなりに、安達との関係を尊いものとして扱う。

 しまむらは人間関係のあり方を「形のないまま漂うもの」と定義する。「友だちはこうあるべき」とは考えない。そういう考え方は相手に不必要な期待を抱いてしまう。そういった勝手な期待が一度裏切られると、人間関係は修復できないほどこじれてしまう。

 そのせいか、しまむらは人間関係に執着を持てないでいるようだ。誰かと新たなつながりが生まれるにしても、それが潰えるにしても、自然の流れに身をまかせるようにふるまおうとする。

 しまむらの他者への淡白な接し方は相手に対してごまかさず、誠実に付き合おうとしている証しでもある。そうやって、しまむらは安達と自分なりの距離感を持って接するのだが、一方でそれは他人との距離感に固執しようとする面を見せる。一巻で安達を授業に誘ったり、一緒に帰ろうとしたりしたが、二巻では安達の好意を予感して避けるような素ぶりを見せたりもする。人間関係に達観した様子を見せるしまむらだが、その実はどこか不器用だ。

 

 一方で安達にとっての日常はしまむら側にはない激しさをはらんでいる。慣れない感情に七転八倒しながらも、しまむらへの結びつきを少しでも強いものにするため、安達は動き続ける。

 安達が求めるものはしまむとの「特別な関係」であり、それはしまむらが否定する明確な形を持った関係である。安達はしまむらとの間にそういったズレがあることに気づいている。ただ、それでも安達は歩みを止めようとはしない。

 

 しまむらが他の人と歩いているのを偶然見かけて傷つき、そんなことで傷ついたことに苦悩する安達。自分の胸の内の熱をしまむらと共有したいと思いつつも、その強い熱がしまむらの負担になることに気づいてもいる。

 それでも、現状を確認した上で、安達は諦めようとはしない。しまむらと出会ったという事実だけで、これまでの自分の人生を肯定できるほどの歓びを安達は感じている。この歓びが、(暴走気味だが)前進のための推進力となる。望みが叶う保証も何もないが、それでも夢へ向かって一歩ずつ、できることをやろうとする安達の姿には、こちらの胸を打つものがある。

 

 そして、しまむらから思いがけないクリスマスプレゼントをもらったとき、しまむらが自分のために行動してくれたことに歓喜しながら、次のようなことを考える。

 

「正しい使い方ではないだろうけど、ずっと部屋に飾っておくつもりだった。たとえば、本当にたとえば。いつか、しまむらと私が交わらなくなっても。」

 

 どれだけしまむらとの時間を築こうとも、いつか大切なものを手放さなければならない日が来るかもしれない。

 安達の物語に心動かされることがあるとすれば、それはこういった安達の切実さによるものだろう。

 

 しまむらの方も安達からの好意に(一応)気づいているようだが、それを受け止めることはできないようだ。

 それでも二人の仲は徐々に、ゆっくりと変化している。そしてこの変化は六巻で結実することとなる。

 この二巻での二人の葛藤があるからこそ、六巻で見せたしまむらの行動がより感動的なものとなるのだ。

 

 

 

sundayrat.hatenablog.com

 

 

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寒い国から帰ってきたスパイ /ジョン・ル・カレ

 

寒い国から帰ってきたスパイ

寒い国から帰ってきたスパイ

 

 

 

 

東西に分裂したドイツ、そこで活動していたイギリスのスパイたちが全員処刑された。全ては東ドイツ情報部の冷酷なスパイ、ムントの仕業だった。

 ドイツの情報網が完全に破壊されるのを、イギリス情報部のアレック・リーマスは砂を噛むような思いで見ているほかなかった。しかも最も有能だった二重スパイ、カルル・リーメックはリーマスの眼の前で殺されたのだ。

 イギリスに帰国後、リーマスは左遷され、荒んだ生活を送る。ついには情報部をクビになり、つまらない傷害事件で刑務所に入るまでに落ちぶれてしまう。

 だが、リーマスの転落は偽装されたものだった。英国情報部の長、通称「管理官」とリーマスは狡猾な作戦により、最大の敵であるムントを抹殺するつもりなのだ。

 味方さえ欺く偽装工作を続けるうち、リーマス東ドイツ情報部へ「転向」させようとムントの部下たちが接触して来る。これをリーマスは待っていたのだ。

 リーマスは作戦通り、東ドイツの誘いにのったふりをしながらムント抹殺のための工作を実行していく。しかし、そこにはリーマスさえ知り得ない隠された真実があった‥‥‥ 。

 

 スパイ小説の金字塔であり、かつてイギリス情報部のスパイだった作家、ジョン・ル・カレの名を一躍高めた代表作である。この作品を書いた当時、ル・カレはドイツの大使館に派遣された現役の諜報部員であった。この作品の成功後、ル・カレは退職して専業作家として活躍していく。

 

 本書の魅力の一つはル・カレが描き切ったリアルなスパイたちの生態にあるだろう。現役スパイが書いた本作を評するとき「リアルなスパイ小説」という言葉が当然のように使われる。ジェームズ・ボンドのような神話からより生々しいスパイの姿を描いた点が、本作をスパイ小説の中で輝かしい地位に押し上げているのは確かだろう。そのせいでル・カレは情報部のイメージを悪くしているなど非難されて不愉快な思いをしたこともあったそうだが、それだけの成果は十分にあった。

 本作のプロットは地味であり、特に中盤は主人公のリーマス東ドイツのスパイたちに室内で尋問されるという地味な展開が長く続くが、それでも読んでいて退屈しないのはこのリアリティがプロットを強固に支えているからだろう。スパイが情報を盗み出す方法、尋問の手順、偽装を暴こうとする尋問官との攻防。これらの強固な細部はもちろん、特にスパイの内面描写の迫真性が魅力的である。敵を欺くために自分さえも騙し、真実の中に嘘をちりばめ、相手の信頼を勝ち取っていく過程は非常にスリリングだ。

 しかし、本作は単なるスパイの実録小説で終わっていない。ル・カレのストーリーテラーとしての卓越した腕前も発揮されている。執拗な尋問から法廷劇へ、そして伏線回収から印象的なラストシーンまで描ききり、本作は歴史に耐えうるミステリーの名作としての地位を得た。

 

 

 そもそもル・カレはスパイ小説の作家であると同時に、探偵小説の作家でもあった。

 ル・カレの処女作『死者にかかってきた電話』はのちの作品でも活躍するシリーズキャラクター、デブで内気なスパイのジョージ・スマイリーが外務省の事務官の死と不審な電話の謎を追うという物語である。のちの作品でも見られるアフォリズムは存分に発揮されているが、スパイ小説というよりもスパイを探偵としたミステリーと呼ぶ方がふさわしい作品であった。さらに次の『高貴なる殺人』はパブリックスクールで殺人事件が起き、情報部を離れたスマイリーが事件を解決するという、よりエスピオナージュの要素がうすく、一般的な探偵小説とプロットがほとんど変わらないような作品である。ル・カレの作家としてのキャリアはスパイ小説の作家というよりも、探偵小説の作家として出発したのだ。

 しかし、ル・カレは探偵小説の舞台から『寒い国から−』でスパイの世界に舞い戻った。続けて情報部や大使館の陰謀をめぐる『鏡の国の戦争』や『ドイツの小さな町』という、ぐっとエスピオナージュの要素を濃くした作品を発表し、そしてこれらの作品がスパイ小説のジャンルを代表する一連の「スマイリー三部作」へとつながっていく。これ以降の作品にもミステリーの要素や技法は読み取れるが、それらはあくまで物語の根幹ではなく、話を盛り上げるための手法に過ぎないものだった。

 つまり、『寒い国から−』はル・カレが探偵小説からより本格的なスパイ小説へ舵を取った、大きな転換期の作品なのである。しかし、ル・カレの書く作品のジャンルは変わったとしても、物語のテーマは処女作のころから一貫していた。それはスパイの非情な世界と人間的な愛情の対立である。

 

 ル・カレの作品において、主人公であるスパイたちは愛情とスパイの世界の間で板挟みになる。たとえばジョージ・スマイリーはこの冷たい世界と自身の仕事を憎み、愛情というものを尊重しようとするが、最後の最後までスパイの世界から抜け出す事は叶わない。そのスマイリーが活躍する三部作において、スマイリーの行動の根底にあるのは、妻であるアンへの愛憎相半ばする感情であった。スマイリーの愛情はスパイの冷酷な世界によって危機に陥ってしまう。こういった「大きな力によって個人の人間性が犠牲となる世界」がル・カレの作品に通底するテーマである。

 また、見逃せないのは『寒い国から−』の次にル・カレは『Naive and Sentimental Lover』という作品を発表していることだ。これは完全な恋愛小説であり、しかも主人公のモデルが自身の父親であるという、のちの『パーフェクト・スパイ』を先取りしたような作品だったらしい。『寒い国から−』の次にこういった作品を発表することは、ル・カレにとってスパイと同様、恋愛や愛情が創作の大きなモチーフであったことを表している。しかし、この作品はスパイ小説を期待していた読者にはほとんど評価されず、結局ル・カレは冷戦の世界に戻ってくることになった。もしこの作品が評価されたなら、その後のル・カレの作風も大きく変わっていたかもしれない。

 

 『寒い国から−』の冒頭、スパイの世界についてイギリス情報部の管理官はこう評する。

「ときには、寒いところから帰ってくる必要がある」

 この「寒いところ」というのは冷戦の最前線のことを指している。そんな場所に長く居すぎると、人間として大切なものが氷つき、失われてしまう。

 この小説の中で「目的は手段を正当化する」「個人よりも集団が優先される」といった言葉が何度か出てくる。興味深いのはこれらの言葉をイギリス側の管理官も、東ドイツ側のフィードラーも口にすることだ。本来イデオロギーの異なる両陣営の人間が、同じ思想に従って行動する。互いに異なるイデオロギーを守るため、両者は同じ武器を持って対峙しているのだ。

 物語の終盤、裏切られ窮地に立たされた者たちは、それでも裏切った者たちを責めようとはしない。それは裏切りが冷戦を生き残るために、これまで自分たちも使ってきた武器であるからだ。彼らにとって裏切りがどれほど卑劣なものでも、この冷たい戦争においては非難されるべきものではないのだ。

 これこそが冷戦の最前線に立つスパイたちの生きる世界であり、「寒いところ」の正体である。

 そしてル・カレはこの作品以降、寒い国のルールによって蹂躙される人間たちをより力を入れて書き続けていくことになる。

 

 

 『寒い国から−』では終盤において、この「スパイの世界で蹂躙される人間」という要素が際立ってくる。イギリス情報部の冷酷なトリックが明らかになったとき、極限の状況でリーマスは寒い国と愛した女、この二択を選ばなければならない。そしてリーマスの最後の選択にベルリンの壁が象徴的に用いられたとき、本書のタイトルの意味が鮮烈な印象をもって読者の胸に迫ってくるのだ。

 

『バーボン・ストリート』 沢木耕太郎

 

バーボン・ストリート (新潮文庫)

バーボン・ストリート (新潮文庫)

 

 

 

 『バーボン・ストリート』は沢木耕太郎のエッセイ集である。これまでの『路上の視野』や『象が空を』などのルポルタージュや書評に比べ、フィリップ・マーロウの年齢から酒や古本への愛情、賭博や寅さんについてなど、身近で俗っぽい話題が多く、より軽妙な魅力がある。

 このエッセイの魅力となっているのは沢木耕太郎の多彩な人物たちとの交友のエピソードである。ルポルライターという職業はたくさんの人に取材することで成り立つ。必然、多くの人と関わりを持つことになるが、沢木の場合は他人との関わり方がただの取材では終わらない、実に自然なものに見えるのだ。そういった関わり方によって得られたエピソードは、その人について印象的な一瞬を、鮮やかにスケッチしてみせる。

 

 中でも白眉なのは『角ずれの音が聞こえる』という短編である。

 文庫本で15ページしかない、この短いエッセイは<彼>の「暖炉の火って、いいなあ」という声で始まる。七人の男たちが暖炉の周りに座り、それぞれ好きなようにおしゃべりを楽しんでいる。沢木もコーヒーを片手に暖炉の暖かいあかりを見つめているうちに、隣に座った<彼>とくつろいだ雰囲気で色々な話をする。ロバート・ミッチャムミッキー・スピレインの豊かな生き方と洒落た贅沢、日本人が贅沢に振る舞うときのもの哀しさ、<彼>の趣味の狩猟の話、冬の森の中で鹿の角が鳴らす音の官能。

 その話を聞きながら、沢木はアメリカへボクシングを観に行ったことを回想する。アメリカで引退を撤回したモハメド・アリとラリー・ホームズの試合が行われる。どうしてもこの試合が観たい沢木は、今隣に座っている<彼>からチケットを譲ってもらったのだった。

 しかし、試合は凡戦だった。意気消沈してホテルに戻った沢木は、そこで試合よりも印象的な体験をする。

 試合を取材しにきたジャーナリストたちが滞在するホテルのフロアに、タイプライターの音が響く。すでに深夜を過ぎて、試合の記事は書き終えて送られたはずなのに、ジャーナリストたちの部屋からタイプ音が絶えることはない。記者たちは何かに突き動かされているようにタイプを打ち続けている。その子気味良い音を聞き続けているうちに、沢木はあわてて自分の部屋に戻って書く予定のなかった観戦記を書き始める。チケットを譲ってくれた<彼>に送るためだ。

 場面は回想から暖炉の前に戻ってくる。もう一度、<彼>は『暖炉の火って、いいなあ』と呟く。そして最後に、その<彼>が何者なのか読者に明らかにされる。

 そのときになって、読者はこれまでの会話や回想が、この<彼>という一人の人間を描くための文章だったことに初めて気付くのだ。単なる随筆に終わることなく、何についての文章なのか最後になって明らかになるという、作者の遊び心が見事に決まった一作であった。

暗く、神秘的な場所へ 『きつねのはなし』(森見登美彦)

 

きつねのはなし (新潮文庫)

きつねのはなし (新潮文庫)

 

 

 森見登美彦は最新作の『夜行』で示した通り、青春小説だけではなくホラーの名手でもあり、その『夜行』の原点となるのが、この『きつねのはなし』である。

 自分は森見登美彦の作品の中で、この小説が一番好きだ。読んでいて怖いのはもちろん、文中にどこか静謐さ、儚さがただよっている。ホラーというよりも怪談と呼ぶ方がふさわしい気がする。

 この作品の怖さの秘密はどこにあるか。一つは舞台となる京都の神秘性にある。歴史や文化から見ても、京都の街と妖怪や怪奇は親和性が高い。しかし、より重要なのは作者が徹底して「隠す」ことに力を入れていることだと思う。

 

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『ファット・シティ』(1972 ジョン・ヒューストン)

 

Fat City [Blu-ray]

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 本作はアメリカン・ニューシネマの時代にジョン・ヒューストンが放ったボクシング映画。『ファット・シティ』はとびきりの成功を意味するジャズミュージシャンの用語である。かつては『ゴングなき戦い』という邦題で公開されていたはずだが、いつのまにかタイトルが変更されていた。

 かつては有望なボクサーだったが、年をとってすっかり落ちぶた男と、将来有望な若手ボクサーが主人公であり、ままならぬ人生を送る負け犬たちの映画である。

 とにかく人生をしくじった人たちの愚痴や爛れた生活が延々と続くため、盛り上がらないし、見ていて楽しくない。しかし、中盤の喧嘩のシーンから映画に引きこまれ、最後には映画の世界にしっかりと飲み込まれる。見終わったあとにはガツンと強烈なパンチをもらった気分になった。

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幽霊は昼歩く『降霊』 (1999  黒沢清)

 

 

 郊外にある一軒家、そこにテレビの効果音技師、役所広司とその妻、風吹ジュンが暮らしていた。

 外から見れば何の変哲もない夫婦だが、他の家庭とは大きく違う点が一つだけあった。風吹ジュンは死んだ人間を自分の身に下ろす不思議な力を持っていたのだ。ある日も素性の知らない女性を自宅に招いて、死んだ恋人の霊を自分の身に降霊させ、女性と会話して見せた。

 そんな並外れた能力を持った妻に対しても、夫は当たり前のように受け入れて暮らしていた。何かの記念日があればささやかな外食を楽しみ、それを幸福だと笑って日々を過ごす、平凡な二人。

 しかし、街で起こった少女誘拐事件に思わぬ形で関わった瞬間、夫婦の間に隠された感情がむき出しにされていく。 

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