陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『銀河を渡る』 沢木耕太郎

 

銀河を渡る 全エッセイ

銀河を渡る 全エッセイ

 

 

 沢木耕太郎の初のエッセイ集『路上の視野』シリーズは自分にとって特別な書だった。特にシリーズの三作目、古本屋のワゴンで見つけた『地図を燃やす』はこの作家に興味を持つきっかけとなった本で、その後古本屋をまわって『象が空を』シリーズも集めるほど、自分は沢木耕太郎のエッセイを好んでいた。なので二十五年ぶりの全エッセイ集『銀河を渡る』も、ワクワクしながら読んだ。
 それで、どうだったか。実を言うと、かつてのエッセイほどの感動はなかった。特に旅についての文章は、かすかに味気なさを感じたほどだった。
 しかし、いったい何故だろうか。あの『路上の視野』と本書との違いはどこにあるのか。色々と振り返ってひとつ思い浮かんだ仮説は、作者が年齢を重ね、色々な意味で豊かとなったことが原因ではないかということだ。
 
 『路上の視野』のころ、沢木は三十代に入った頃であり、その文章からあまり金のないことがうかがえた。確かに外国への旅は行われていたが、旅の中であまり金を使わないようにしようとする心がけが感じられたし、文章からうかがえる限り、日本での沢木の生活もかなり質素なものに見受けられた。
 自分にとって『路上の視野』を特別なものにしていたのは、当時の沢木の若さと貧しさだったのではないか。そういった作者に、同じように若く貧しかった自分は共感や憧憬を抱き、それが反射して『路上の視野』をひどく魅力的に見せていたのではないか。
 『銀河を渡る』に収録されたエッセイのほとんどは二千年代に入ってからのものであり、そのころ沢木は五十歳をすぎたころだった。その年齢で行われる旅に、さすがに二十代のころの貧しさは見られない。旅行や出会う人に関しても余裕が感じられた。そのことが自分には味気なさに感じられたのかもしれない。ロサンゼルスのVIP用のボクシングジムでミッキー・ロークと出会った話よりも、香港で1ドル程度のフェリーでの航海を「豪華だ」と楽しむ話の方が、自分にとって圧倒的に面白かったのだ。

 と、ここまで本書をクサすようなことを書いたが、決して本書がつまらないわけではない。楽しんで読むことができた。特に沢木と親交のあった高倉健、そして『旅する力』でも登場した編集者、太田欣三へ向けた追悼文は読んでいて胸を打たれた。
 しかし、自分にとって最も興味深かったのは「すべて眼に見えるように」という、本書では比較的地味で短いエッセイだった。
 このエッセイは作文の苦手だった作者が、どうやって文章を書けるようになったかを、子供の夏休みの作文を例にわかりやすく解説したものである。
 まず、頭の中に浮かんでいるもやもやしたものを単語の形で書き出す。思いつくだけの単語を記し、眼に見えるようにして、その単語でごく簡単な短い文章を作ってみる。「子供 作文 苦手」という単語の群れから「子供のころ、作文が苦手だった」というように。
 こういった簡単な文章をいくつか作り並べると、そのうち文と文の間に付け加えることや入るべき文章が浮かんでくる。そうやって文を膨らませていくうちに、一つの長い文章ができるという。
 この文章の作り方はごくごく簡単で素朴な方法だろう。これくらいのやり方なら、習うまでもなく既に実践しているひともいるかもしれない。
 では、なぜこのエッセイが面白かったのか。

 自分は昔、文章を書くことが苦手だった。苦痛だったと言っても良い。どうすれば頭の中で漠然とただよっているものをまとめることができるのか、言葉で表現できるのか。
 悩んだ自分は、いくつかの本を読んでヒントを得ようとした。そのとき参考になったもののひとつが沢木の「断片から」という短い文章だった(このエッセイは『地図を燃やす』に収録されている)。
 「断片から」には、まだライターとしてキャリアの浅かった沢木の、書くことについての苦悩と対処法がシンプルに語られている。文章を頭から結論まで綺麗に書けない。いざ原稿用紙を前にしても、目の前の空白に立ち尽くし、戸惑うしかない。
 書くときは常に”断片”から始まる。断片を集め、つなぎ、並べ替え、組み合わせてようやく一つの全体ができる。だが、それでいいのだ。ルポルタージュにとって大切なのは、断片の確かさと鮮やかさなのだから‥‥。
 ここでいう”断片”とはふたつのものを指している。ひとつは長文における単語、もうひとつはノンフィクションにおける、取材によって得たシーンのことだ。

 そして、このエッセイが突破口となった。自分も最初から完璧な文章を書こうとし、そのたびに筆が止まっていた。そうではなく、まず断片から始めるのだ。不完全なものでも良いから、書き出してみる。それが長文の中で効果的な結論に結びつかなくても、気にしなくて良い。大事なのは断片の鮮烈さだ。そう思ったとき、かなり気持ちが楽になった。この「断片から」は、書くことへのハードルを確実に下げてくれた。
 沢木と同じように、自分も断片から書き始めた。単語を並べ、短文をつくり、膨らませていく。そうやって練習を続けているうちに、どうにかこのブログの記事くらいは書けるようになった。
 そんなときに、この「すべて眼に見えるように」を読んでニヤリとしてしまった。今の沢木も若い時と同じように、断片から始めていること、そして自分は沢木耕太郎と同じ方法で文章を書いていること。このふたつを確認し、嬉しくなったのだ。
 もっとも、肝心の文章の質には大きな差があるが‥‥‥‥。