陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『喜多川歌麿女絵草紙』 藤沢周平

 

 

新装版 喜多川歌麿女絵草紙 (文春文庫)

新装版 喜多川歌麿女絵草紙 (文春文庫)

 

 

 当代随一の浮世絵師、喜多川歌麿が江戸で六人の女たちと出会う。個性は違うが揃って魅力的な女たちを、歌麿美人画の題材にしようとする。

 歌麿にとって「見えないものを隠しているような女」こそが、絵の題材に値する。そんな女の姿を絵の中に写し取ろうとする時、歌麿は同時に女の人生を垣間見ることになる。女たちが送ってきた人生に、歌麿は翻弄される。 

 そういう時の歌麿は女にとって傍観者にすぎない。歌麿が女たちの境遇に同情や愛情を感じることもあるが、それ以上のことはできない。女たちを救うことも、苦悩を分かち合うこともできず、歌麿は絵を描き続ける。女の生命を、絵の中に閉じ込めるように。だがその度に歌麿には捉えられない女の姿が、するりと手を抜けるように絵から逃げていってしまう。

 ある者は確かな幸福を掴み、江戸の町を悠々と歩く。またある者は抜けられない苦境に喘ぎ、もがき苦しんでいる。歌麿はそんな女たちの姿が、鮮やかな四季の風景に溶け込んでいくのを見つめるしかない。

 そんな歌麿にとって、唯一の例外が千代だ。歌麿の弟子であり、死んだ妻の代わりに身の回りの世話をしてくれる出戻りの女。歌麿にとって傍観者ではなく、当事者として関わることのできる、唯一の女だ。だが、歌麿は千代と家庭を持とうとは考えない。そういった関係を持つには、歌麿は老いすぎた。そのうちに、千代も歌麿の元を去ってしまう。

 歌麿はひとりぼっちだ。

 

 藤沢周平の処女作である『溟い海』は、葛飾北斎を主人公にした作品だ。『溟い海』と『女絵草紙』の主人公、北斎歌麿の境遇には多くの共通点がある。絵師として世間に名を轟かせたが、すでに若さを失い、新しい才能の出現に脅かされている。

 『溟い海』の北斎安藤広重の「東海道五十三次」に、自分の到達できない新しい才能を感じ、大きな憤怒と嫉妬を抱える。

 『女絵草子』では世に打って出ようとする東洲斎写楽の絵に、歌麿は自身の衰えを感じざるを得ない。

 男たちは新しい時代の波に押し流されようとする。未知の才能への憤怒は、北斎を広重襲撃という激しい行動へ導こうとする。

 それに対し、写楽という才能への、歌麿の反応は静かだ。残った力を振り絞り、もうひと勝負を決意する。しかし、すでに己には若さも、力も残っていないかも知れない。そんな疑いに囚われた歌麿は雪の降る夜に歩き回る。

 そんな歌麿の前に、七人目の女が登場する。

 この女の登場はあまりにも唐突だ。だが、直後の歌麿の行動には、創作に対する我が身を切り裂くような覚悟と、言いようのない寒々しさが感じられ、圧倒される。

 歌麿にとって、女とは何なのだろう。愛をかわし、幸福に暮らす相手でない。全ては絵だ。絵の題材として、女は存在する。そのことを言い聞かすように、歌麿は女の股座を覗き込む。

 歌麿が女たちの人生を垣間見たように、読者も歌麿の人生の暗部を目撃する。そして幾多の女を見出し、描いて来た男の行き着いた先に、戦慄せざるを得ない。