『黒の試走車(テストカー)』 増村保造
スポーツカーを巡る産業スパイたちの攻防を描いた、大映の『黒シリーズ』の第一作目である。
タイガー社に勤める産業スパイたち、リーダーの小野田(高橋悦史)とやり手の部下の朝比奈(田宮二郎)は開発中の新車・パイオニアの情報を守ろうとするが、業界最大手のヤマト社にデータを盗まれてしまう。ヤマト社では元関東軍情報部の馬渡(菅井一郎)が指揮をとり、スパイ活動を行なっていた。
馬渡へのリベンジに燃える小野田だが、恐喝や買収などあの手この手で対抗しようとしても、全て馬渡に上を行かれてしまう。どうやらタイガー社の中に内通者がいるらしい。
ヤマト社はパイオニアから盗んだ技術を元に新車を開発するつもりだ。このままではパイオニアの売れ行きは大打撃を受けてしまう。
朝比奈は恋人でバーの女給をしている昌子(叶順子)に、とあるバーに勤めてほしいと頼む。そのバーは馬渡の行きつけの場所だった。そこで馬渡から何か情報を聴き出すのが朝比奈の狙いだ。
「この件が終わったら君と結婚する」という朝比奈の言葉に折れ、昌子は渋々とバーで働き、馬渡に気に入られるのだが‥‥‥。
田宮二郎を始めとしたスマートで都会的な俳優たち、それに増村保造のテンポの良い演出と白黒の映像が「スパイたちの知能戦」という題材とマッチしている。
なかでも産業スパイのリーダー、高橋悦史が非常に目立つ。一人だけ黒のスーツに身を固め、会社のためというより惚れ込んだパイオニアのために命がけで働く男だ。
新車の情報を盗まれたことを「恋人を寝取られたようだ」とぼやくほどで、企業人としてこれ以上ない人間だが、企業のためなら家庭でも他人でも犠牲にしてなんら良心の痛まない、冷酷な人間でもある。
ヤマト社が開発する新車の情報を得るため、高橋たちは相手企業の幹部を工事現場で脅す。暴行され、地面に這いつくばった幹部を高橋を含めた三人の男たちが見下す姿は、ギャングの姿そのままである。
こういった産業スパイの姿には戦中の特高警察など、強権的な組織の姿が投影されているのかもしれない。敵が元関東軍の情報将校だったり、「警察や軍隊と一緒だ」というセリフがあったり、公開当時は戦争が遠いものではなかったことがわかる。
ハイライトは船越英二と高橋悦史、密室での二人の攻防だろう。高橋の仕掛けたトラップがわかりやすすぎるのが難点だが、高橋の熱量、船越の焦燥の演技で緊張感が保たれ、目が離せない。
船越が厳しく追求してくる高橋を「警察のつもりか」となじる。対して高橋は「おれは産業スパイだ」と誇らしげに言う。このシーンの禍々しさはなんだろう。会社の為といった大義名分から外れ、己の執念にとりつかれた男の狂気。そういったものさえ感じられる。
組織の持つ暗黒を、高橋が一身に表現している。そんな高橋が、最後に自分の元を去る田宮を呼び止めようとするのがちょっと切ない。田宮を自分の家に連れて行ったり、本気で後継者にするつもりだったのか。
もう一人、忘れてはならないのが上田吉二郎だ。ヤマト社の情報をリークする業界新聞の記者役で、階段を登るたびにヒーヒー息切れする、ぶくぶく太った男。そんな上田が終盤、暗闇の中から突如現れるシーンの悪漢っぷりが素晴らしく、もはやかっこよく見えてくるほどだ。
強い印象を残す男たちの中で、肝心の田宮二郎はいつもの色男っぷりが影を潜め、妙に理屈っぽく、世間知らずの男に見える。「僕は人間らしく生きたい」と高橋悦郎を非難するセリフも妙に青臭い。
田宮が自分の恋人を利用しながら「結婚しよう」と言い続けたり、敵のスパイの親玉に恋人の体を与えながら後悔するシーンなどは無邪気ささえ感じられる。
いまいち貧弱な田宮に対し、本作に出てくる女性たちは非常にたくましい。理屈に囚われず、目的のために平気で相手を出し抜いて生き抜こうとしている、そういう女性のたくましさに増村保造の個性を感じる。
とくに強烈なのが病室を盗聴していた看護婦で、自分が裏切った船越を「往生際が悪いわよ」とぴしゃりと斬って捨てる、その欲ぶかさと冷酷さにはピカレスクな魅力がある。
だが、最も魅力的なのは田宮の恋人役・叶順子だ。田宮に「結婚しよう」と言われても、笑って真に受けない。若くして人生の酸いも甘いも噛み分けたような、アンニュイな雰囲気の女だ。豊満な肉体に挑発的な瞳が強い存在感を放っていて、惚れた男に従う単純な女ではなく、自我を持った人間として描かれている。
都会的な色男・田宮二郎が本来の魅力を発揮できていない時、この叶順子のアダルトな雰囲気がバランスをとって、映画を引き締まったものにしている。
最後、叶順子はこれまでの出来事を受け入れて田宮と共に生きていく。「やっぱり愛が大事」という結末が甘く、だらしないものになっていないのは、この叶順子の存在があったからだろう。