陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『バーボン・ストリート』 沢木耕太郎

 

バーボン・ストリート (新潮文庫)

バーボン・ストリート (新潮文庫)

 

 

 

 『バーボン・ストリート』は沢木耕太郎のエッセイ集である。これまでの『路上の視野』や『象が空を』などのルポルタージュや書評に比べ、フィリップ・マーロウの年齢から酒や古本への愛情、賭博や寅さんについてなど、身近で俗っぽい話題が多く、より軽妙な魅力がある。

 このエッセイの魅力となっているのは沢木耕太郎の多彩な人物たちとの交友のエピソードである。ルポルライターという職業はたくさんの人に取材することで成り立つ。必然、多くの人と関わりを持つことになるが、沢木の場合は他人との関わり方がただの取材では終わらない、実に自然なものに見えるのだ。そういった関わり方によって得られたエピソードは、その人について印象的な一瞬を、鮮やかにスケッチしてみせる。

 

 中でも白眉なのは『角ずれの音が聞こえる』という短編である。

 文庫本で15ページしかない、この短いエッセイは<彼>の「暖炉の火って、いいなあ」という声で始まる。七人の男たちが暖炉の周りに座り、それぞれ好きなようにおしゃべりを楽しんでいる。沢木もコーヒーを片手に暖炉の暖かいあかりを見つめているうちに、隣に座った<彼>とくつろいだ雰囲気で色々な話をする。ロバート・ミッチャムミッキー・スピレインの豊かな生き方と洒落た贅沢、日本人が贅沢に振る舞うときのもの哀しさ、<彼>の趣味の狩猟の話、冬の森の中で鹿の角が鳴らす音の官能。

 その話を聞きながら、沢木はアメリカへボクシングを観に行ったことを回想する。アメリカで引退を撤回したモハメド・アリとラリー・ホームズの試合が行われる。どうしてもこの試合が観たい沢木は、今隣に座っている<彼>からチケットを譲ってもらったのだった。

 しかし、試合は凡戦だった。意気消沈してホテルに戻った沢木は、そこで試合よりも印象的な体験をする。

 試合を取材しにきたジャーナリストたちが滞在するホテルのフロアに、タイプライターの音が響く。すでに深夜を過ぎて、試合の記事は書き終えて送られたはずなのに、ジャーナリストたちの部屋からタイプ音が絶えることはない。記者たちは何かに突き動かされているようにタイプを打ち続けている。その子気味良い音を聞き続けているうちに、沢木はあわてて自分の部屋に戻って書く予定のなかった観戦記を書き始める。チケットを譲ってくれた<彼>に送るためだ。

 場面は回想から暖炉の前に戻ってくる。もう一度、<彼>は『暖炉の火って、いいなあ』と呟く。そして最後に、その<彼>が何者なのか読者に明らかにされる。

 そのときになって、読者はこれまでの会話や回想が、この<彼>という一人の人間を描くための文章だったことに初めて気付くのだ。単なる随筆に終わることなく、何についての文章なのか最後になって明らかになるという、作者の遊び心が見事に決まった一作であった。