『ファット・シティ』(1972 ジョン・ヒューストン)
本作はアメリカン・ニューシネマの時代にジョン・ヒューストンが放ったボクシング映画。『ファット・シティ』はとびきりの成功を意味するジャズミュージシャンの用語である。かつては『ゴングなき戦い』という邦題で公開されていたはずだが、いつのまにかタイトルが変更されていた。
かつては有望なボクサーだったが、年をとってすっかり落ちぶた男と、将来有望な若手ボクサーが主人公であり、ままならぬ人生を送る負け犬たちの映画である。
とにかく人生をしくじった人たちの愚痴や爛れた生活が延々と続くため、盛り上がらないし、見ていて楽しくない。しかし、中盤の喧嘩のシーンから映画に引きこまれ、最後には映画の世界にしっかりと飲み込まれる。見終わったあとにはガツンと強烈なパンチをもらった気分になった。
ボクシングをやめ、酒浸りになりながら肉体労働でどうにか食っているステイシー・キーチは町の体育館で若いジェフ・ブリッジスと出会う。ブリッジスと思いつきでスパーリングを行い、その才能を認めたキーチは旧知のボクシングジムを紹介する。ブリッジスはジムで意気揚々とトレーニングにはげみ、アマチュアのデビュー戦を迎えるが簡単にノックアウトされてしまう。
一方でキーチは働いて得た金を酒で使い果たす日々を送っているが、そこで中年女のスーザン・ティレルと出会う。飲んだくれで恋人を口汚く罵るような女だが、キーチはティレルを口説き、一緒に暮らし始める。
しかし、二人の生活はかなり荒んだもになった。酒におぼれ、喧嘩を繰り返す毎日に飽き飽きしたキーチはボクシングへのカムバックを決意する。
「肉体労働で体は鍛えられている。あとはトレーニングですぐに元に戻るさ」と嘯くキーチに、トレーナーは強引に強敵との試合を組むが‥‥‥。
キーチの毎日は酔っ払って女との喧嘩を繰り返すような、悲惨なものである。ブリッジスも試合で良い結果を出せず、そのうち付き合っていた女の子を妊娠させてしまうなど、猛スピードで変わっていく人生に振り落とされそうになっている。そういった中途半端に生きている男たちの人生、それがこの映画の全てである。
そのため、観ていてすごく気が滅入るのだが、それでも中盤、恋人同士になったキーチとティレルの猛烈な罵倒合戦から目が離せなくなる。
ティレルは自己憐憫と他人への憎悪で凝り固まっているような、一目で見てやばい女なのだが、なぜそんな女をキーチが口説くのかわからない(スティーブン・ティレルがもっと美人だったなら、まだわかるのだが)。
あるいはどこか自分と似ている相手への同情心のようなものがあったのかもしれないが、そんな感情で始まった恋愛がうまくいくわけがない。日夜喧嘩をくり返したのち、キーチの作った夕食を食べる、食べないという理由から喧嘩が始まり、破局が訪れる。
薄汚れた部屋の床にぶちまけられたケチャップ、不味そうなステーキと缶詰の豆、その中で人生に打ちのめされた男女の、互いの神経をヤスリで削りあうような言葉の応酬。
この喧嘩のシーンは見ているだけで心が冷たくなってくる。それは二人はただ相手が憎いから喧嘩するのではなく、自分の人生への失望をぶつける相手がどうしても必要だからお互いを傷つけ合っていることが観客にも伝わるからである。
そしてラストシーン。試合には勝ったが、カムバックには失敗して今まで以上に落ちぶれたキーチと、ボクサーとしてそこそこの活躍をするブリッジスが再会する。
薄汚れた格好のキーチが飲みに行こうと誘いをかけるが、ブリッジスは断る。キーチはコーヒーだけでもと押し切り、二人は夜のダイナーに入っていく。
キーチは自分のことを棚に上げ、ダイナーで働いている老人を見下すような発言をし、虚ろな目で周囲を見渡す。ダイナーの中では冴えない格好の労働者たちがそれぞれの時間を過ごしている。しかし、キーチの目には何も映っていないようだ。
ブリッジスは帰ろうとするが、「もう少しいてくれ。話したいことがある」とキーチに引き止められる。しかし、キーチは何も話そうとはしない。虚ろな表情のまま、二人でコーヒーをすするだけである。
辺鄙な夜のダイナーで、黙ったまま二人が背を丸めてコーヒーを飲んでいるところにクリス・クリストファーソンの歌が重なり、物語は幕を降ろす。
歌の歌詞のとおり、キーチにとってただ若いブリッジスといっしょに座っていることだけが救いなのだろう。それほど、この年老いた人生の敗者は、引き返せないところまで来てしまったのである。
しかし、このラストシーンに勝るとも劣らない、鮮烈なシーンが他にある。
それはカムバックしたキーチと対戦する、ルセロという名のメキシコ人ボクサーをめぐる一連の場面である。
試合会場に、スーツを着た背をまっすぐ伸ばし、スーツケースを持ったルセロが一人でやってくる。歩く姿はかっちりとしているが、見るからに体調は悪そうだ。これまでの激闘のせいか、ルセロは試合前に滞在したホテルでしきりに腹を抑え、トイレでは血尿を流す。
このルセロとの激しい打ち合いをキーチは制する。監督のジョン・ヒューストンは過去にボクサーになろうとしただけあって、ボクシングシーンはよくできている。派手さはないものの、お互いの命を賭けた激しい闘いだった。
試合が終わり、会場の前でキーチとジムの仲間たちが勝利を祝い、騒いで帰っていく。
そのあと、会場の照明が徐々に消えいていく中、ルセロはまた一人で歩いている。来た時と同じように、スーツを着て、スーツケースを持って、孤独に歩いて帰っていく。
無残な敗者は、それでも卑屈になることなく、背を伸ばしてまっすぐ歩いて去っていく。
これだけのごくわずかなシーンだけで、この寒々しい、年老いたボクサーは観客の記憶に確かに刻まれる。これまでのシーンで、主人公が重ねてきた人生の重みと同等の存在感を放っている。
これからもルセロは死ぬまでリングに上がり続け、血を流し続けるだろう。
彼にはこの生き方しかないのだ。ルセロが暗闇を歩くシーンに、監督のヒューストンはこの映画の核を明確に描き出す。
自分に残された時間がわずかしかないことがわかっていながら、ルセロはリングで戦い続けるしかない。
たとえ勝つことができなくても、負けないために、生きている限り戦い続けるしかないのだろう。