陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

笑ってはいけない超特急 『バルカン超特急』(アルフレッド・ヒッチコック/1938)

 

バルカン超特急 [DVD] FRT-035

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アルフレッド・ヒッチコック、いわずとしれたサスペンス映画の帝王。今なお幾多の映画監督に影響を与える、映画史に残る大巨匠である。『バルカン超特急』はヒッチコックのイギリス時代の作品で、これと『巌窟の野獣』を撮ったあと、デヴィッド・O・セルズニックに招かれたヒッチコックはハリウッドに乗り込んだ。

そんな時期の作品なので、さぞかしヒッチコックも気合を入れて撮ったと思いきや‥‥‥。

 

 

 

避暑地バルカンからイギリスへ向かう列車が発車しようとしている。そこには民族音楽を研究している伊達男、イギリス人紳士の二人組、不倫中の弁護士カップルなど、さまざまな人たちが休暇を終えて日常に戻ろうとしていた。

アイリス(マーガレット・ロックウッド)もその一人である。友だちと休暇を楽しんだ彼女はイギリスに戻ったら、ろくに会ったこともない婚約者と結婚する予定だった。

駅のホームで友だちと別れを惜しむアイリス。そのとき、頭上から植木鉢が落下してきて、彼女の頭部を直撃した。

突然の衝撃にフラフラになりながらも、なんとか列車に乗りこんだアイリスを助けたのは、親切な老婦人のフロイ(デイム・メイ・ウィッティ)だった。

同じコンパートメントで隣同士に座ったフロイはせっせとアイリスを手当てし、何かと気遣ってくれる。アイリスはそういったフロイの優しさに好意を抱き始めた。

歩けるくらいに回復したアイリスは、フロイを誘って食堂車でおしゃべりを楽しむ。すっかり打ち解けた二人だったが、やがてアイリスは急な眠気に襲われ、コンパートメントに戻ることになる。

「ゆっくりおやすみ。寝たら良くなるから」

隣からフロイが優しく語りかけてくれる。安心したアイリスはやがて眠りにおちた。

 

目をさますと、隣の席は空になっていた。

すっかり良くなったアイリスは、お礼を言おうとフロイを探しに列車を歩き回るが、見つからない。

それどころか、誰もが列車に乗ってからフロイを見ていないと言う。食堂車で会ったイギリス人二人組も、女連れの弁護士も、アイリスが一人でいるのは見たが、婦人は見ていないと証言する。

混乱するアイリスに、話を聞いていた乗客が話しかける。自分は医者だが、ひょっとしたらあなたは最近、頭に何か強い衝撃を受けたことがあるのでは?それが原因で、あなたの記憶に障害が起きているのかもしれない。フロイという女性は実在しない、あなたの妄想かもしれない‥‥‥。

アイリスは何もわからなくなってしまう。フロイはどこへ消えたのか?何かの事件に巻き込まれたのか?それとも、全ては自分のみた白昼夢にすぎなかったのか‥‥‥?

 

                   ◯

 

今作はシチュエーションが非常に魅力的である。完全な密室となった走行中の列車、そこから人が消失する謎、そこに全てが主人公の白昼夢だったのではないかというサスペンスが加わる。今作の設定やアイデアをかなりパクった『フライト・プラン』はもちろん、このアイデアが後続に与えた影響はかなりのものだろう。

 

しかし、これだけのトリックを実現させるにはかなりの大技が必要となる。この点に関しては元祖である今作でさえ、偶然に頼りすぎてあまりうまくいっているとは言えないだろう。

イギリス人紳士の二人や不倫カップルが「老女を見てない」と証言したのは偶然にすぎないし、そもそもなぜ犯人は列車の中で老女を行方不明にしなければならないのか。前日のホテルで殺害した方がはるかに簡単で安全だっただろう。

 

それでも要所でヒッチコックのサスペンスの腕前はいかんなく発揮されている。窓ガラスの文字に気づく一瞬、黒幕が判明するタイミングなどは観ていてハッとさせられるし、犯人が主人公たちに睡眠薬入りの酒を飲ませようとする、ありきたりなシーンでもヒッチコックの手にかかれば本当にハラハラさせられる。

 

ヒッチコックという人は全体の整合性や多少の矛盾よりも、一瞬のアイデア、そのサスペンスをどう映画で表現するかを優先する作家なのだろう。『サイコ』のような、骨組みまでしっかりした作品の方が特別なのかもしれない。

 

今作でも列車から婦人が消えたというシチュエーションもマクガフィン=口実にすぎず、話の整合性といったものは問題にしていないのだろう。ただ、そういった無関心が映画の緊張感をいくらか削いでしまっているのはいなめない。

 

というより、今作の奇妙な点は前半から後半にかけて雰囲気がゆるくなっていくところにある。

前半をギャグを挟みながら、後半にかけてサスペンスが増していくという映画はいくらでもあるだろう。ヒッチコックの他作品、『知りすぎた男』や『裏窓』も良質なサスペンスでありながら、クスリと笑わせるようなシーンもあった。『バルカン超特急』でも序盤は笑わせるようなシーンが多く、婦人が失踪してからはアイリスの錯乱もあり、緊張感が増していく。しかしアイリスが列車を緊急停止させたあたりでサスペンスが最高潮に達したのち、徐々に映画はゆるい空気になっていくのだ。

 

その原因はユーモアなシーンの量にある。

いや、ユーモアというよりもギャグといった方が正しいかもしれない。とにかくくだらないものからナニまで、ギャグシーンが非常に目立つ。

おもしろいのがイギリス人紳士の二人組。傲慢で、いつもクリケットの試合結果ばかり気にしている二人だが、いつもゴーマンな振る舞いをするたびに周囲に軽くあしらわれ、情けない目にあう。映画の序盤、二人がホテルに泊まりに来たときも、上等の部屋に泊めろと詰め寄るのだが、結果的にメイドの控え室に使われているような狭い部屋に通される。真面目くさった顔した二人がぶつくさ文句を言いながら、ホテルでパジャマの上下を分け合って寝ているシーンはかなりおかしい。

 

もう一つお気に入りなのは婦人が救出されるシーン。主人公と一緒に婦人を探していたマイケル・レッドグレーヴが列車の奥の扉を開けると、そこには主人公が眠らないようにと、黙々と体操をしている‥‥‥。このシーンのおかしさは実際に見てもらわないと伝わらないかもしれない。

 

 

他にも手品師とのドタバタの格闘シーンがあり、のんきにホームズの仮装をした男女がいちゃついたり、前半の緊張感とは打って変わって、映画はユーモラスな空気が増していく。

淀川長治さんの話によると、ヒッチコックはオヤジギャグも好きだったようで、こういったギャグシーンもかなりノリノリで撮ってたのかもしれない。

 

終盤はもっとすごくなっていく。主人公たちは婦人の奪還に成功するが、そのうち列車は規定のコースをはずれて深い森へと入ってしまう。森の中では黒幕のスパイたちが大勢待ち構えていて、列車に向かって銃弾を浴びせてくる。

絶体絶命のピンチに、主人公たちも銃を手に取り銃撃戦が始まるのだが、この銃撃戦が妙にテンションが低くてのほほんとしている。

 

「射撃は得意じゃないんだけどなあ」とぼやくイギリス人が敵のスパイたちをバッタバッタと撃ち倒していく様はもはやシュールな趣さえある。絶体絶命の場面なのに、本当にサスペンスの巨匠が撮ったのかと思うくらい、緊迫感が皆無なのだ。これだけ盛り上がらない銃撃戦は他に無いのではないだろうか。むしろクセになってくる出来栄えである。そして銃撃戦の間にも、細かいギャグがつるべ打ちされて、もはやコメディ映画の領域に突っ込んでいる。

 

もちろんヒッチコックは意図的にやっているし、これはこれでおもしろいのだが、中盤のサスペンスとの落差に観ていてとまどってしまうのも事実である。本当に銃撃戦のあたりから別の映画のようになっている。

ヒッチコックはあまり本数を観てないが、他にもこういう作品はあるのだろうか。それとも『バルカン超特急』だけ特別なのか。自分の勉強不足を恥じながら、ヒッチコックについてますます興味が湧いてくる。