陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『たそがれ酒場』内田吐夢(1955/新東宝)

 

たそがれ酒場 [DVD]

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 戦後、内田吐夢が映画界に復帰してからの第二作目であり、安酒場での一夜の出来事を描いた群像劇である。

 日本酒におしんこ、冷奴を出すような庶民的な居酒屋に、様々な人たちがやってくる。共産主義の運動家。退職する教師を囲む学生たち。ギャング。労働者。警官。身分や立場を超えて色々な人たちが酒を飲んで騒いでいるうちに、いくつもの騒動が起こる。

 客の中には東野英治郎加東大介をはじめとしたベテランから、これから名を売ろうとする後の大御所俳優たちの若い姿が見られる。
 画面奥から突然、男が酒場に駆け込んでくる。男は周囲を見渡し、すぐに階段を飛び越えて画面から消える。この男を演じたのが天知茂だ。映画の中でこの人物について特に説明はないが、十秒にも満たないシーンながら、鋭い目つきと軽やかな身のこなしには目を引かれてしまう。
 そしてギャングを引き連れてやってくる丹波哲郎! 宇津井健の丸顔がハードな役に似合わないのに対し、丹波の若く、精悍でバタ臭い顔つきがとてもかっこいい。このころから被っているソフト帽もよく似合う。
 そんなモダンな丹波が、惚れた女のために宇津井健と一対一で決闘しようする。意外な純情さが微笑ましい。

 多々良純の演じる飲んだくれも面白い。あちこちの席をうろつきまわり、いい加減な口八丁で酒のおこぼれをもらっている。身を持ち崩して世の中からはみ出した男だが、そんな人間でもこの酒場は受け入れてくれる。特にカルメンの闘牛に合わせて小杉勇多々良純が踊る場面は名シーンだ。

 こういった客たちの巻き起こす騒動が楽しく、現代では失われてしまった安酒場の風体も見ていて面白い。
 猫を抱えた中年の夫婦が酒場にやってきて「今日は何にしようか」と話す。そういった酒場の姿には雑多でノスタルジックな魅力がある。

 しかし、映画は小市民を主人公とした、ミニマルな物語に収まらない。むしろ意外なほど豪華な印象さえ受ける。
 おそらく、その豪華さの理由の一つは大胆なカメラワークにあるのだろう。
 酒場のセットの中を西垣六郎のカメラが大きく動き回る。さらに画面の奥行きや高低を目一杯使うことで狭いセットが効果的に使われ、それに合わせて物語のガラも大きなものに感じられる。
 特に津島恵子のストリップのシーンはかなり見ごたえがある。

 もうひとつ重要なのは芥川也寸志が担当した音楽だ。有線の代わりに酒場に雇われたピアニストと歌手が本格的な歌を披露し、さらに客から預かったレコードをかけたり、素人のど自慢大会まで行われる。歌謡曲から本格的なカルメンまで、質素なこの居酒屋には音楽が満ちている。この音楽の存在感は大きく、映画のもうひとつの主役と言っていいほどだ。
 大胆なカメラと充実した音楽。このふたつによって映画自身にこじんまりとした印象を受けず、充実したものを感じるのだ。


 そうして酒場で様々な騒動が起きるうちに、次第に小杉勇と小野比呂志の過去が浮かび上がってくる。
 小杉勇演じる<先生>はかつて一斉を風靡した画家だったが、戦争中に戦意高揚の絵を描いたことを悔やみ、筆を折ってしまう。それ以来パチプロとして生計を立て、酒場で飲むことが今の楽しみだ。
 江藤(小野比呂志)はかつて最先端の音楽家として活躍していたが、弟子に妻を寝取られたことに怒り、妻を刺して人生を棒に振った。現在はさえない酒場の座付き演奏家として、青年の健一(宮原卓也)を育てることだけが生きがいとなってしまった。
 その酒場にたまたま、かつての弟子がやってくる。この弟子は名音楽家として活躍したが、すでに歳をとり「終わった人」扱いされている。
 かつての弟子を見つめる江藤。その表情は苦悶に満ちているが、弟子の方は江藤に気づかない。過去の事件で未だに江藤は苦しんでいるが、すでに弟子の中で江藤は過去のものになっているのだ。このシーンは切ない。
 弟子は健一に目をつけ、自分の楽団に参加しないかと声をかける。しがない酒場から出世できるチャンスに健一は喜ぶが、江藤は行ってはならないと固く命じる。師匠の頑なな態度に健一は面食らうが、それを見かねた先生は、閉店した酒場で江藤を呼び止める。

 さっきまでの喧騒が嘘のような静寂の中、先生が訥々と語り出す。芸術家としては死んでしまった、自分たちの人生について。
 絵で戦争を煽ってしまった男。妻を殺し、音楽家としての道を閉ざした男。先生は自分たちに残された役目について、江藤に懇々と説く。
 自分たちが今できるのは、若い人たちに夢を託すことだけだと。先生は酒場の店員・ユキ(野添ひとみ)に、江藤は弟子の健一に託すべきなのだと、涙ながらに訴える。

 先生の言葉を聞き入れ、江藤は健一が自分の元を離れることを認めた。そうしてはなむけのために最後の歌を歌ってもらう。
 酒場から羽ばたく健一が、イワン・スサーニンのアリアを歌うとき、先ほどまで酔客が騒いでいた酒場に、厳かな歌声が響き渡る。そのとき、新しい明日に向かって踏み出せた者、できなかった者たちの人生が交差する。
 明日もこの酒場には沢山の人がやってくるだろう。しかし、同じ日々が繰り返されるわけでは決してない。
 時代が変わり、人も変わる。あの夜、酒場に集まり、新天地に向かって踏み出せなかった人間たち。先生やユキや江藤のような人間たちは、どこへ行ったのだろうか。
 映画の終わった後も、彼らたちの行く末が、どこか心に引っかかった。

『日本侠客伝 昇り龍』山下耕作(1970/東映)  

 

 

日本侠客伝 昇り龍

日本侠客伝 昇り龍

 

 

 火野葦平の『花と竜』を原作にした、「日本侠客伝」シリーズの第七作目。ちなみにこのシリーズ、前作でも同じ『花と竜』を原作に『日本侠客伝 花と龍』が制作されていて、しかも主演も同じく高倉健藤純子だ。あからさまな二匹目のドジョウ狙いだが、それでも監督をマキノ雅弘からバトンタッチした山下耕作はかなりの力作をものにしている。

 

 この映画の最大の魅力、それは藤純子だろう。この当時二十五歳というのが信じられない。賭場での格調高い立ち振る舞い、ふっと伏せた横顔の色気。全てのシーンで美しい。

 この女彫り師・お京が、賭場に遊びに来た沖仲仕(港湾労働者)の高倉健演じる金五郎と出会うことで物語が始まる。賭場で二人の視線が交差するのをトラックインで撮った印象的なカットで、この二人の因縁が予感される。

 ヤクザに襲撃された金五郎をお京は偶然助けてしまう。山下耕作の演出は情緒感がありながら、暴力シーンの導入が鮮やかだ。高倉健が雨の降る夜を歩く。その傘にいきなり日本刀が叩きつけられる。傘の切り裂かれる鈍い音をきっかけに、橋の上で乱闘が起こる。

 

 自身の血を分けてまで男を治療し、そのうちにお京は相手に惚れ込み、彫り師として一生に一度の仕事をあなたの体に残したいと金五郎に願う。このシーンはまるで恋愛映画のようだ。小川のほとりで話しこむ二人の姿に、菊の花が彩りを添えている。

 堅気の金五郎だが、お京の「これを彫れれば、足を洗ってもいい」という言葉に心を動かされ、自身の体に昇り竜の彫り物を入れてもらう。

 この映画の登場人物たちが人を助けたり、戦ったりするのは誰かの心意気のためだ。ヤクザであり、地元の顔役であるどてら婆(荒木道子)や島村(鶴田浩二)が金五郎の味方についたのは、仕事仲間たちのために組合を作り、事業主たちと争おうとする金五郎の心意気を汲み取ったからだ。また、どてら婆が中立の立場を破って金五郎のためにヤクザとの手打ちの仲立ちをしてくれるのも、自らの命を捨ててまで惚れた男を守ろうとするお京の言葉に胸打たれたからであった。損得勘定で動かない。自分が惚れた相手のために身体を張る人間たち。

 健さんの周りには、そういった心意気を持った人たちが集まる。金五郎の妻・マン(中村玉緒)もその一人だ。藤純子に比べて化粧気のない顔をしているが、労働者たちを引っ張る気の強い女であり、時折見せる笑顔がキュートだ。

 もう一人、印象的なのが伊吹吾郎だ。天津敏の命によって高倉健を襲撃するヤクザだが、それは藤純子への密かな愛情を利用されたためだった。高倉健との静かな決闘、そしてラストの自分の気持ちを殺して頭をさげるシーンなど、短い出番でも強く印象に残る。

 

 全編通してシリアスな映画だが、笑えるシーンもある。そのひとつが遠藤太津朗の登場シーン。天津敏と同じく悪役かと思いきや、「労働者運動の運動家」という意外な役柄だ。しかし長髪にヒゲ、牛乳瓶のメガネと見た目のインパクトがかなり強い。初登場シーンでは高倉に「労働者たちが団結することが大事だ」と説きながら、おもむろに取り出したアンパンを貪り食う。やりたい放題だ。

 もう一つは資本家たちから退職金をもらうため、素人演芸大会という名目で決起集会を開くシーン。集会の音頭をとったどてら婆から、金五郎は急にスピーチを求められる。

 口下手な健さん、大ピンチ! マイクの前に立つが「えー、あー」と言葉が出ない。そのピンチを遠藤太津朗が颯爽と助ける。言葉に詰まる健さんに変わって、言いたいことを鮮やかに喋ってくれ、それを聞いて健さん「そうですタイ!」と調子よく叫ぶ。ちょっとかっこ悪いぞ!

 

 決起集会を襲撃され、どてら婆と仲間の労働者が殺されたことでついに健さんの怒りが爆発する。ラストの立ち回りは狭い室内を役者に寄ったカメラが動き回り、なかなか緊迫感がある。

 だが、最も印象的なのはその後の健さん藤純子の再会シーンだ。病気で倒れたお京の元に殴りこみを終えた金五郎がやってくる。部屋で臥せっているお京に、旅館の女将が「金五郎さんが来てくれましたよ」と声をかけるが、藤は部屋の障子を開けようとしない。そうして健さんを待たせて、必死で身づくろいをする。その間、カメラは藤純子の姿を見せず、障子が開くのを待ち続ける健さんを写し続ける。

「紅を‥‥‥紅を取ってください」

 病気で苦しみながら、愛する男のために綺麗な自分を見せようと必死になる女。ずっと自分を助け、追い続けて着た女を前に、男は何もしてやることができない。高倉健は噛み締めるかの様に、あるいは何かに耐えるかのように障子が開くのを待ち続ける。

 この待つ芝居で藤の病がいかに深いものか、そして高倉健をいかに愛しているのかがわかるのだ。実際に二人が顔をあわせる場面よりも、この会合の寸前の芝居に心打たれる。

 脚本を手がけたのは山下耕作の盟友・笠原和夫。山下とのタッグで前年は『博打打ち 総長賭博』を、この二年後には『博打打ち いのち札』と『女渡世人 おたのもうします』をモノにする。本作は任侠映画にいくつもの名作を残した黄金タッグの、まさしく脂の乗った時期の作品だ。 

『スマイリーと仲間たち』 ジョン・ル・カレ

 

 スパイ小説の歴史に名を残すスマイリー三部作。その完結編である本作で、ついにジョージ・スマイリーとソ連の伝説的スパイ、カーラとの因縁に決着がつく。

 物語はソ連からパリへ逃亡した老婦人が奇妙なロシア人と出会うという、いつもどおり物語と関係のなさそうな場面から始まる。ここから文庫本で四十ページほど、ソ連からの逃亡で痛めつけられ、家族を失った夫人の姿と、夫人が不信感を募らせていく様がじっくりと描かれる。この場面が物語とどう関わって来るかわからず、読者がいい加減しびれを切らしそうになるころ、ようやく主人公のジョージ・スマイリーが登場する。

 前作の『スクールボーイ閣下』でスマイリーは情報部を去り、市井の人として慣れない日常を送っている。そんなスマイリーが、ふたたびかつての上司によって呼び戻される。今回のスマイリーの任務はウラジーミル老人の死について調査することだ。老人はかつてバルト諸国から亡命し、その後イギリス情報部の協力者であった人物だ。情報部は老人の死が情報部とは何の関係もないことを証明するため、スマイリーに調査を命じた。ウラジーミルと既知の仲だったスマイリーは人間をたやすく切り捨てる情報部の官僚的な態度に怒りを覚えるが、依頼を承諾して調査を始める。

 殺害現場とウラジーミルの自宅へ向かい、生前の行動を探るうちに、老人が何かをスマイリーに渡そうとしていたことがわかってくる。しかもその品物がスマイリーの宿敵であるカーラと関係があるようだ。

 

 前作『スクールボーイ閣下』でのスマイリーはあくまで情報部トップの司令官として活動していたが、今作のスマイリーは市井の人であり、情報部の庇護を受けていない存在だ。そんな孤立無援の存在でも、スマイリーは現地工作員として単独行動を行う。自らの足で歩き回り、各国を飛び回り活躍する様は処女作の『死者にかかってきた電話』のころを思い起こさせ、感慨深い。

 カーラが隠そうとした秘密を追求するため、例によってスマイリーは各地を飛び回って調査を進めるが、それはあたかも大英帝国の腐敗をたどるダークツーリズムのようだ。冷戦とスパイ活動を通じて英国が残した負の遺産。カーラを倒すための鍵は、そんな冷戦に身を投じ、肉体も精神も滅ぼしていた者たちの屍の上にあるのだ。正しいものが裏切られ、間違った者がはびこる歪んだ世界の中で、朽ちていった者たちの下をスマイリーは巡っていく。

 

 そのうちの一人、コニー・サックスとの再会は今作のハイライトのひとつだ。冷戦の果て、国への忠誠の果てに何が待っているか。ル・カレは三部作のもう一人の主人公とも言えるコニーの姿をもって神々しく、ときに冷酷に描く。

 スマイリー三部作全ての作品に登場したコニーだが、今作ではかすかに残っていた若々しさも失い、その姿はとても痛々しい。肉体の衰えに精神も蝕まれそうになっている彼女が、最後の力でカーラ追跡のための情報をスマイリーに語る場面は壮絶である。

 しかし、スマイリーは復帰した現役のスパイとして、嘘とまやかしの態度でコニーに接する。そしてコニーの長年国に尽くしてきた忠誠に、スマイリーがとどめを刺す。ギクシャクしたままの別れはもう二人が会うことはないのを予感させ、とても切ない。

 さらにスマイリーはアンとも再会する。『死者にかかってきた電話』からここまで名前だけで一度も登場しなかったあのアンが、ついに読者の前に姿を表すのだ。

 スマイリーにとってアンは常に光と陰の存在であった。そんなアンとスマイリーは、まるで自分たちの傷跡を確認するかのように空疎な会話を繰り返す。スマイリーは彼女との再会で自分たちの愛情がすでに潰え、何も残っていないことを確認する。宿敵のもたらした愛情の破滅をもう一度認めた上で、決着をつけるためにスマイリーは仲間を集める。

 

 カーラを倒すために、スマイリーの下にかつての仲間達が集う。過去の作品にも登場した懐かしい人々の中で、最も印象に残るのはトビー・エスタヘイスだろう。情報部を追われ、胡散臭い美術商として生計を立てていたハンガリー人の小男はスマイリーの指示の下、現場工作員として縦横無尽に動き回る。その生き生きとした活躍を見ていると、スマイリーの相棒はピーター・ギラムよりもトビーの方がふさわしいのではと思うほどだ。

 

 そうしてトビーたちが動き回る間、スマイリーの心理は読者に伏せられる。スマイリーの思考や態度は周りの人たちの視点で描写されるだけで、極端に内省的に振る舞う。

 このときのスマイリーはスパイ戦のプロフェッショナルとして、いつも以上に厳しい姿を見せる。スマイリーは全ての因縁を清算するため、それまでの人間的な姿は影を潜めてしまう。

 

 そしていよいよ、スマイリーとカーラは再び出会う。

 再会の場はあのベルリンの壁だ。

 自分は今まで読んだ小説の中でも『スクールボーイ閣下』のラストシーンが最も好きだが、『スマイリーと仲間たち』のラストもかなり印象的だ。

 最大の勝利の中で、スマイリーは最後の一線を越える。『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』から続いたカーラとの因縁に決着がつくとき、スマイリーの中では相反する感情が絶えず渦巻いている。

 最大の勝利の瞬間、スマイリーは最も憎んだ相手と同じ地点に立つしかない。

 全てが終わり、ベルリンの壁から皆が去った後、ただ一人スマイリーだけが壁の前に佇む。

 いや、彼一人ではない。ピーター・ギラムがスマイリーの肩に手を置き、声をかける。

『死者にかかってきた電話』からこの三部作まで、スマイリーの助手として活躍してきたギラムは、最後までスマイリーのそばにいた。

 

 そしてスマイリーは一言で、これまでの闘いを締めくくる。それは流された血を思えば、あまりにも控えめな言葉だった。

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』ジョン・ル・カレ

 

 

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)

 

 

 スパイ小説のマスターピースであり、輝かしい「スマイリー三部作」の最初を飾る記念すべき傑作である。しかし、このころからジョン・ル・カレの小説はプロットが複雑化し、読みにくくなっていく。この複雑さは本作と同じく「愛と裏切り」をテーマとした『寒い国から帰ってきたスパイ』には見られなかったものだ。

 ちなみにこの小説は映画化されたが、映画を見たカズオ・イシグロはストーリーの筋がわからないと村上春樹にこぼしたそうだ。いくらかプロットを剪定し、すっきりさせた映画でさえこうなのだから、いかに原作が複雑かわかるだろう。

 

 イギリス情報部の元スパイ、ジョージ・スマイリーがかつての上司に呼び戻される。情報部を裏切り、イギリスの情報をソ連に流している二重スパイがいるというのだ。スマイリーはその二重スパイを割り出すため、秘密の調査を開始する。調査を進めると、情報部のかつてのトップだった“コントロール”が謎の極秘作戦を行なっていたこと、そして裏切り者の「モグラ」は現在の情報部のトップにいる四人のうち誰かだということが判明する。しかもその背後にはスマイリーと因縁のあるソ連情報部の伝説のスパイ、カーラの影が感じられた。

 はたして「モグラ」は何者なのか。コントロールの作戦とはなんだったのか。懸命の調査の末に、スマイリーは自身をも巻き込んだ巨大な陰謀に直面する。

 

 それにしても、本作のストーリーはなぜこんなにもわかりにくいのか。

 その原因の一つとして、読者に注意力と記憶力を強いるル・カレの文章スタイルが考えられるだろう。

 物語は小学校にジム・プリドーという教師が赴任し、ビル・ローチ少年と出会う場面から始まる。続いてシーンは切り替わり、主人公のジョージ・スマイリーがかつての上司に呼び出され、調査を依頼される場面に移る。元同僚のピーター・ギラムが運転する車で上司の家に向かう途中、スマイリーは尋ねる。「エリスに関するニュースは?」

 実はこの「エリス」とはジム・プリドーのコードネームであり、プリドーはある作戦の失敗によりスマイリーと同時期に解雇された元スパイなのだ。しかし、エリスの名前が出てからその正体がわかるまでに七十ページほどかかる。それまで読者はエリスとは何者なのか、序盤の小学校教師がストーリーにどう関わってくるのかわからないまま読み続けなければならないのだ。このように「意味ありげな言葉の意味が後半になってわかる」という場面がル・カレの小説には多い。

 加えて探偵役を務めるスマイリーと、読者の思考がシンクロすることが極めて少ない。スマイリーがそのとき何を考えているか、いちいち説明されない。

 なので、スマイリーがかつての関係者たちに聞き取りを繰り返すときも、その相手がどう事件に関わっていたのか、読者はなかなかわからない。スマイリーの真意が何であるか考え続けなければならず、それが読み手の体力を消耗させてくるのだ。

 さらに作中ではフラッシュバックが多用される。スマイリーは情報部に残された資料を読み返し、さらに自分の記憶とのすりあわせを繰り返す。現在の場面とスマイリーの記憶の場面が入り混じり、時系列も複雑になっていく。現在と過去を行ったり来たりするうちに今読んでいるのはいつの話なのか、曖昧になっていく。

 おまけに現在と過去の間に無数の人名がちりばめられているため、余計に混乱してしまう。

 久しぶりに本書を読み返していたとき、スマイリーとジム・プリドーが再開した場面ではたと読む手を止めた。文章中に『スティード・アスプレイ』という見覚えのある名前がでてきたが、この男が何者だったかどうしても思い出せないのだ。どこかのシーンでこの名前が出て来たはずだが、どこだったかわからない。スマイリー以前の世代のスパイだったはずだが、どこでこの名前を見たのか。

 実はこのスティード・アスプレイ、次作『スクールボーイ閣下』にも名前だけ登場していたのを発見した。また、ネットの情報によると過去作『ドイツの小さな町』にも登場しているそうだ。こうなると無性に気になって来て、シリーズをもう一度読み返そうかといいう気になってくる。

 

 以上のように、この小説は読者の注意力と記憶力をフル回転させて読まなければ、話の筋を追うのが難しい。実を言うと、何度も読み返した今でもスマイリーがどうやって二重スパイを特定したか、いまいち理解できていない。自分の貧弱な頭脳が悲しい。

 

 自分が初めて本書を読んだときも、ストーリーをあまり理解できなかった。複雑なプロットを追いかけるのがやっとで、物語の細部まで味わうことはできなかった気がする。

 ではつまらなかったのかというと、むしろ面白かった。細かい部分を把握できなくとも、一つ一つのシーンに興奮し、夢中になって読んだ。

 この作品の文章の密度、人間達のドラマは傑作『寒い国から帰ってきたスパイ』を凌駕する。多少ストーリーがわかりにくくても、ぐいぐい読ませるだけの力がある。

 

 「二重スパイは誰か?」というのが物語の主題だが、実はその正体に意外性はない。というのも「一番怪しい人間が犯人」なのだ。そこにミステリーの犯人当ての面白さはない。

 しかし、これがリアルなのかもしれない。ル・カレ自身が半生を綴った『地下道の鳩』にニコラス・エリオットの興味深いエピソードが登場する。エリオットは実在した二重スパイであるキム・フィルビーの上司であり友人だった男だ。エリオットはフィルビーこそが裏切り者であり、長年に渡って自分たちを欺いていたことを知りながら、それを指摘しようとせず、むしろフィルビーが疑いから逃れられるように手助けしたという。これは「モグラ」の正体に薄々気づきながら、気づいていないふりをしていた本作の登場人物たちと重なって見える。あまりにも大きな裏切りに直面したとき、人間はそういう行動を取るものなのかもしれない。

 この作品では、裏切られた人間たちの姿があますところなく描かれる。スマイリーが調査によって直面するのは、スパイたちの忠誠心の亡骸だ。スマイリーの愛情は妻のアンに裏切られるし、ジム・プリドーをはじめ、国のために働いたスパイたちはその国によって忠誠を裏切られる。ル・カレは確かな観察眼で、裏切りが何をもたらすか、裏切られた者たちに何が残るかを全編を通してじっくりと描き出す。

 ジム・プリドーはスマイリーの前で忘れようとしてきた情報部への不満、憤怒をぶちまける。国から切られたスパイは裏切りによってえぐられた傷跡を抱えたまま、誰にも知られないまま苦しみを隠すしかない。

 スマイリーが二重スパイの正体を探ろうとするとき、それは見えないところに埋まっていた愛と裏切りの歴史を掘り起こすことでもある。スマイリーとアン、プリドーとビル・ヘイドン、そしてスマイリーとカーラ。彼らの何年も前から続く因縁が紡ぐ糸を、手繰るとき、その糸は人々の間に沈んでいた、見たくもなかった黒い錘につながっている。

 

 そうして張り巡らされた糸をたどりながら、いよいよスマイリーとギラムのコンビは「もぐら」の正体に近づいていく。真相への最後のピースを得るためにトビー・エスタヘイスを尋問するシーンはこの小説のハイライトの一つである。大物としてふるまっていたトビーを、スマイリーは慇懃無礼なまでに穏やかな口調でなぶるように追い詰めていく。ここではスマイリーのスパイとしての腕前、冷酷さがいかんなく発揮されている(ちなみに、このシーンは村上博基訳よりも菊池光訳の方がスマイリーのいやらしさがよく出ていると思う)。

 だが、二重スパイとの対決に完全な勝利を収めかけたスマイリーは、最後に大きな衝撃を味わう。

 全ての元凶となったもぐらの正体に気づいた瞬間、全編通じて冷静だったスマイリーは初めて感情を爆発させる。自身の内側で嫌悪、怒り、共感など、国やスパイたちに向けての抑えきれない感情がほとばしった後、スマイリーはただ立ち尽くすしかない。裏切り者の真の罪深さが露呈される瞬間、ここは何度読んでも興奮させられる。

 

 ちなみに、本作の次にグレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』をつづけて読むと面白いかもしれない。こちらも二重スパイをテーマにした小説だが、『ティンカー、テイラー』とは読後の印象が大きく異なる。

 『ヒューマン・ファクター』の主人公は他国との友情に従って裏切りを行う思慮深い男だ。対してル・カレが描く「もぐら」は習慣的な裏切りの行為に暗い喜びを覚えるような人間だ。

 キム・フィルビーと実際に友人だったグリーン。対してフィルビーを人格ごと嫌悪したル・カレ。二人が国を裏切ったスパイへ向ける視線はかなり異なり、それが小説にも反映されているのだろう。『ヒューマン・ファクター』も傑作なので、ぜひ読み比べてほしい。

『春琴物語』(1954 大映東京/伊藤大輔)

 

 

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 映画が始まると、画面には「第二回東南アジア映画祭 ゴールデンハーヴェスト賞 受賞」という言葉とトロフィーが映し出される。これは大映永田雅一が香港ショウ・ブラザーズと発足したコンペで、現在でもアジア太平洋映画祭として存続しているようだ。こんな映画祭があったとは初めて知った。

 

 谷崎潤一郎の『春琴抄』を原作に、巨匠・伊藤大輔が撮った文芸映画である。スタッフも豪華で美術の木村威夫、音楽に伊福部昭など後に名の知られる人たちも多く参加している。

 明治時代を再現した美術も力が入っていて、見応えがある。着物から洋服、行灯からランプ、自転車はドレスを着た夫人など、明治の文明開化の有様が感じられてるのが面白い。

 ちなみに、本作は大映京都ではなく大映東京で撮影されている。理由は「純粋な明治ものをつくるため」らしいが、当時の京都撮影所に不足があったのだろうか。ここらへんの事情はよくわからない。

 

 冒頭、奉公のために商家に連れてこられた幼い佐助は、商家の娘であるお春(春琴)を見かける。手を引かれたお春が画面奥の戸を通って消えていくのを呆然と見送る佐助の後ろ姿には、運命の恋が始まった瞬間を感じさせてワクワクさせられる。しかしそれをナレーションで説明してしまうのはちょっとくどい。

 

 成長したお春は盲目だが美貌と琴の才に恵まれた。お春は佐助のことを大層気に入り、琴の習い事に行くときにはいつも佐助を付き添わせた。そのうち佐助に三味線の才能があることに気づき、お春は親に頼んで佐助を自分の弟子にしてもらう。こうしてお春と佐助は主従関係にありながら、師匠と弟子の間柄になった。佐助にとって、密かに慕うお春にこうして仕えるのは何よりもの喜びだった。

 やがてお春は琴の師匠から免許皆伝をいただき、師匠の名をもらって「春琴」と名乗るようになる。

 

 春琴と佐助は周囲から結婚を望まれるが、本人たちはそれを拒否して主従関係を維持しようとする。

 春琴が佐助に三味線を教えて師弟関係を望むのも、家庭を持つよりも自分が主人で佐助が下僕という関係の方が尊いと考えているからだろうか。ここらへんは映画を見ていて少しわかりにくかった。こういったところに谷崎潤一郎の「自虐による愉悦」が表れているのかもしれない。

 高熱で倒れた春琴が佐助に介抱されている。佐助が寝汗を拭こうと春琴の着物の裾に手を入れると、春琴が「灯りがまぶしい。消して」と頼んでくる。要するに誘いの言葉だか、そのことに気づいた佐助は息を飲み、意を決してランプの明かりを消して襖を閉める。直接的な描写はないが、このシーンはなかなかにエロい。

 こうして佐助の子供を身ごもった春琴だが、父親が誰であるかは決して明かそうとはしない。沈黙を守り続けるうちに子供は生まれ、親の知り合いに預けられるが、幼いうちに死んでしまう。

 子供が死んだことへの悲愁が軽く流されてしまうのに違和感があるが、この子供がラストでもう一度意味を持って来る。

 

 琴の教室を開くようになった春琴の元に、商売で成り上がった利太郎が頻繁に訪ねて来る。利太郎は春琴に下心を持ち、そのため自分の新築祝いにと春琴を誘い、琴を演奏させる。

 ここで主演の京マチ子も花柳喜章も見事な演奏を披露する。この映画には俳優達が舞や琴や三味線を当たり前のようにこなすシーンが数多くあるが、こういうシーンを見ると当時の俳優たちのスペックの高さに驚かされる。これは今の俳優のレベルが下がったというよりも、当時と今では映画の観客の求めるものが変わったということかもしれない。

 道を行く人たちが思わず足を止め、振り返るような抜群の演奏をする春琴を、下心を持つ利助が食い入るように見つめる。それを遠くから眺めていた女が「ボンもイカもの喰いねえ」と笑いながらいう。あまりに無邪気に投げつけられる侮辱の言葉に、当時の盲目の人に対しての差別意識がよくわかる。

 

 利太郎の誘いを厳しくはねつけた春琴は、ある事件のせいで顔面に大火傷を負ってしまった。火傷でただれてしまった顔を佐助に見られたくないと泣く春琴のため、佐助は自分の目を針で刺す。

 自分は原作小説でもこの場面が苦手で仕方なかったのだが、映画でもこのシーンは怖い。とにかく怖い。目の位置を鏡で確認し、落とさないように針に通した糸を指に巻きつけ、黒目に突き刺す。そういったディティールにも寒気がするし、徐々に暗くなって見えなくなっていく過程もゾッとする。

 

 目を潰してからの展開は蛇足の感もあるし、禍々しい愛の告白の凄みも少し薄められてしまった気もするが、ここには不幸な二人に最大限の救いを差し伸べたいというスタッフの気持ちが表れているのかもしれない。

 が、そのあとのシーンに少し心を打たれた。

 それは春琴の幼くして死んだ子の墓参りをするため、二人が佐助の故郷にやって来る場面だ。二人を出迎えようと店から佐助の父と母が店から出て来る。このなんてことのない、ごくごく短いシーンに不覚にも感動してしまった。

 年老いているが、見るからに人の良さそうな父母が「はやく、はやく」と言いながら店から出て来る。父は久しぶりの息子の顔をじっくり見るために、あわててメガネを探している。そういった二人の様子からは、善良さを感じるが、その善良さはどこまでも普通のものだ。自分は、その普通さにホッとしたのだ。

 周囲の差別的な目にひるまず、盲目の人間が二人、寄り添って生きていこうとする。そういった春琴と佐助のことを、老いた父母のような普通の人たちが暖かく出迎えてくれる。そのことに良かったなあ、本当に良かったなあと、こちらも二人の行く末を祝福したい気持ちになってきた。

『喜多川歌麿女絵草紙』 藤沢周平

 

 

新装版 喜多川歌麿女絵草紙 (文春文庫)

新装版 喜多川歌麿女絵草紙 (文春文庫)

 

 

 当代随一の浮世絵師、喜多川歌麿が江戸で六人の女たちと出会う。個性は違うが揃って魅力的な女たちを、歌麿美人画の題材にしようとする。

 歌麿にとって「見えないものを隠しているような女」こそが、絵の題材に値する。そんな女の姿を絵の中に写し取ろうとする時、歌麿は同時に女の人生を垣間見ることになる。女たちが送ってきた人生に、歌麿は翻弄される。 

 そういう時の歌麿は女にとって傍観者にすぎない。歌麿が女たちの境遇に同情や愛情を感じることもあるが、それ以上のことはできない。女たちを救うことも、苦悩を分かち合うこともできず、歌麿は絵を描き続ける。女の生命を、絵の中に閉じ込めるように。だがその度に歌麿には捉えられない女の姿が、するりと手を抜けるように絵から逃げていってしまう。

 ある者は確かな幸福を掴み、江戸の町を悠々と歩く。またある者は抜けられない苦境に喘ぎ、もがき苦しんでいる。歌麿はそんな女たちの姿が、鮮やかな四季の風景に溶け込んでいくのを見つめるしかない。

 そんな歌麿にとって、唯一の例外が千代だ。歌麿の弟子であり、死んだ妻の代わりに身の回りの世話をしてくれる出戻りの女。歌麿にとって傍観者ではなく、当事者として関わることのできる、唯一の女だ。だが、歌麿は千代と家庭を持とうとは考えない。そういった関係を持つには、歌麿は老いすぎた。そのうちに、千代も歌麿の元を去ってしまう。

 歌麿はひとりぼっちだ。

 

 藤沢周平の処女作である『溟い海』は、葛飾北斎を主人公にした作品だ。『溟い海』と『女絵草紙』の主人公、北斎歌麿の境遇には多くの共通点がある。絵師として世間に名を轟かせたが、すでに若さを失い、新しい才能の出現に脅かされている。

 『溟い海』の北斎安藤広重の「東海道五十三次」に、自分の到達できない新しい才能を感じ、大きな憤怒と嫉妬を抱える。

 『女絵草子』では世に打って出ようとする東洲斎写楽の絵に、歌麿は自身の衰えを感じざるを得ない。

 男たちは新しい時代の波に押し流されようとする。未知の才能への憤怒は、北斎を広重襲撃という激しい行動へ導こうとする。

 それに対し、写楽という才能への、歌麿の反応は静かだ。残った力を振り絞り、もうひと勝負を決意する。しかし、すでに己には若さも、力も残っていないかも知れない。そんな疑いに囚われた歌麿は雪の降る夜に歩き回る。

 そんな歌麿の前に、七人目の女が登場する。

 この女の登場はあまりにも唐突だ。だが、直後の歌麿の行動には、創作に対する我が身を切り裂くような覚悟と、言いようのない寒々しさが感じられ、圧倒される。

 歌麿にとって、女とは何なのだろう。愛をかわし、幸福に暮らす相手でない。全ては絵だ。絵の題材として、女は存在する。そのことを言い聞かすように、歌麿は女の股座を覗き込む。

 歌麿が女たちの人生を垣間見たように、読者も歌麿の人生の暗部を目撃する。そして幾多の女を見出し、描いて来た男の行き着いた先に、戦慄せざるを得ない。

それではおうちに帰りましょう『ペンギン・ハイウェイ』(2018 石田裕康)

 

ペンギン・ハイウェイ 公式読本

ペンギン・ハイウェイ 公式読本

 

 

  石田監督の前作「陽なたのアオシグレ」はあまり好きになれなかった。なので今作も期待せずに見に行ったが、かなりおもしろかった。森見登美彦の世界が忠実に映像化されていた。

 主人公のアオヤマ君にとって、世界はワクワクするような発見に満ちている。「プロジェクト・アマゾン」と名付けた川の探検や大好きな歯医者のお姉さんのことまで、日々の驚きをアオヤマ君は研究し、ノートに丁寧に保存している。

 街中に大量のペンギンが出没する。「海」と名付けられた不思議な球体が宙に浮かぶ。森では「ジャバウォック」という未知の生物が蠢いている。アオヤマ君の暮らす街にはファンタジー小説に相応しいような、現実離れした事件が次々と起こるが、アオヤマ君はこれらの不思議な出来事を科学的に解明しようとする。

 現実離れした出来事を観察し、仮設を立て実験し、検証する。子供の目で不思議を捉え、科学的に研究する。こういったところに一本の芯が通っているため、一見ジュブナイルファンタジー小説のような作品がSFとして成り立っている。

 また、アオヤマ君が研究に用いるノートやペン、森に作った秘密基地など、小道具も楽しい。

 

 そうして街に深刻な異変が起こるうち、お姉さんの日常も変貌してしまう。自分は何者なのか?なんのために生まれてきたのか?街の様子が変貌していくのに合わせ、お姉さんは自分を見失い、苦しむこととなる。

 そんなお姉さんをアオヤマ君は研究によって救おうとする。培ってきた科学の方法で、お姉さんの謎を解こうとする。

 「お姉さんを救いたい」という思いが、これまでの研究が、ノートが、世界の真理の一端を暴き、その瞬間から物語は圧巻のクライマックスに向けて走り出す。

 だが、それはお姉さんとの別れを意味していた。

 少年の冒険は終わり、季節が巡って秋がやってくる。カフェで一人座っているアオヤマ君。

 そこに、映画の作り手はあるサプライズを用意している。原作にはない映画オリジナルのシーンだが、あそこから「アレ」が戻ってきて再会できたことは、アオヤマ君にとってはこれ以上ない希望を与えてくれただろう。