陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『落日の門』 連城三紀彦/松浦正人・編

 

落日の門 (連城三紀彦傑作集2) (創元推理文庫)

落日の門 (連城三紀彦傑作集2) (創元推理文庫)

 

 

 連城三紀彦
 綾辻行人伊坂幸太郎米澤穂信、多くの作家たちからリスペクトされ、現在でも特異な存在感を放ち続ける作家。
 連城三紀彦がこの世を去ったのが二〇一三年、約六年経った今でも過去作品を読める機会があるのは、ファンとしてとてもうれしい。
 この『落日の門』に収録された作品は多岐にわたる。恐怖小説ともいえる「化鳥」、香港映画への志向がうかがえる「騒がしいラブソング」「火恋」、生涯最後の短編であり、意欲的な誘拐もの「小さな異邦人」など、収録されたどれもが中期から晩年にかけての注目作だ。
 
 しかし、この傑作選の最大の見所は、連城三紀彦の90年代の代表作と言われながら、発売から現在まで文庫化もされなかった『落日の門』が全編収録されたことだろう。
 『落日の門』は二・二六事件を背景に、五組の男女のドラマが交差する連作短編だ。
 クーデターの直前、愛する女のために仲間を裏切ろうとする軍人、標的である大臣の娘、クーデターのリーダーとその妻たちの人生が錯綜する。一話進むごとに、彼らの秘められた思いが徐々に明らかとなり、やがて物語がひとつの円を描く。
 登場人物は架空ながら、背景となる二・二六事件の空気感にはリアリティを感じる。歴史の歯車に引き裂かれた男女の姿を、この当時の雰囲気が効果的に演出している。
 表題作でもある「落日の門」のミステリーらしさはうすい。しかし裏切り者として糾弾された男が作戦と愛する女のどちらを取るか苦悩する物語は読み応えがあり、唐突に明かされる真実から雪の印象的なラストシーンまで一気になだれ込む。
 続く「残菊」では時代が一気に現代へと移る。赤線廃止法で稼業を終える色街にやってくる最後の客。その客について調べているうちに、二・二六事件との関連、さらに事件に関わった人間たちの思わぬ顛末が明らかになる。読者に提示されていた物語が、ラストのピースによって一気にひっくり返る、その快感が味わえる。
 「夕かげろう」では現代から二・二六事件の直後にまた舞台は戻る。革命を求めた軍人たちはすでに捕まり、処刑を待つ身となった。残された青年将校の妻とその弟がこの短編の主人公だ。軍人の妻として気高く振る舞う女、その妻に惹かれてしまう若い弟、そして裏側にちらつく愛人の姿。
 妻として、女としての想いが一気に噴出するシーンが最大の見せ場だが、ラストの弔いの描写が絶妙だ。そして後の短編のための伏線がさりげなくちりばめてあるのも心憎い。
 「家路」は今作のなかでは最も二・二六事件との関わりがうすい。物語は花葬シリーズの一編「白蘭の寺」を思い起こさせるが、衝撃はこちらの方が上か。二十歳まで病院に隔離され、外の世界を知らずにいた男。突如現れた自分の兄を名乗る者への不信。それらが残り数ページの段階で一挙にひっくり返される。このどんでん返しのスケールは「残菊」を凌駕する。「そんなことが可能なのか」という疑問は連城の文章に込められた熱量に押し切られ、ただ圧倒されるしかない。
 そして最後を飾る「火の密通」二・二六事件で捕らえられた若い軍人のもとに、死んだはずの母が訪ねてくる。
 これもミステリーの要素はうすく、謎の母親の正体は早いうちに察せられるが、そこからこれまでの伏線が一挙に回収され、物語が一本につながっていく。そうして最後に残るのはタイトル通り男と女の胸の奥に秘められた、狂おしいほどの熱情。映像的なラストシーンも印象に残った。
(ただ、これを読むと村橋があまりにかわいそうで‥‥‥。「綾子ちょっとひどない?」と思ってしまう)。

 連城三紀彦の代表作の一つ『恋文』が刊行されたのが一九八四年。それ以降、連城はミステリ作品だけでなく、多くの恋愛小説も執筆してきた。
 そして、連城にとって大事だったのは男女の心の機微、そして「隠す」という行為そのものだった。
 落日の門を読んで思うのは、改めて連城にとって隠すということが一貫したテーマであったということだ。恋愛とミステリという二つのジャンルを自在に行き来した連城だが、そんなことが可能だったのもジャンルを問わず「隠す」こと、「演技する」ことが一貫したテーマだったためではないか。

 犯人が自身の犯行を隠し、それを探偵が暴くのがミステリーの基本的なプロットだ。しかし連城にとって隠すことは単なるミステリーの手法ではなく、もっと根本的な、小説自体のテーマとなっている。
 この『落日の門』では、登場人物たちの抱える秘密や、心の奥に秘められた情念が重要な要素となっている。
 連城の作品にはいわゆる名探偵が存在しない。名探偵は重要ではない。秘密を暴くものよりも、秘密を抱える人物、いわば名犯人という存在が連城にとっての主人公だ。
 胸に秘められた思いがある。なぜ隠そうとするのか。そこに動機があり、ドラマが生まれる。それさえあれば恋愛小説と推理小説の違いは構成の部分に見られるだけだ。連城のミステリと恋愛小説はどこまでも地続きだ。
 そのせいか、『落日の門』で自分がもっとも印象に残るのはミステリーとしての魅力よりも、ラストの女の姿だ。真冬の日が差し込む中、ある男の墓の前での妖艶な微笑み。歴史の波に飲み込まれ、消え入ろうとする女。 
 『落日の門』は大胆なトリックと逆説、さらドラマチックな男女の心の機微、その両方を堪能できる充実した作品であった。


 本書の巻末にはキネマ旬報に連載されていたエッセイが掲載されている。これらのエッセイからは連城の人となりがうかがえ、とても貴重だ。
 このエッセイによって新たに知ったことも多い。例えば連城の描く花街の艶やかな描写が、映画監督の衣笠貞之助からの影響だったことは初めて知った。
 連城が映画好きだったことは知っていた。そもそも若かりし連城はシナリオライター志望であり、シナリオの勉強のためにフランスへ留学、さらに大映増村保造に脚本を読んでもらうなど、かなり本格的にシナリオライターを志していたようだ。『落日の門』でも香港映画から強く影響を受けた作品が掲載されている。
 しかしそれだけではなく、連城の小説に登場する視覚的で華麗な描写、着物や花、灯影の日本的な美しさ、それらが衣笠貞之助山本富士子に由来するとは思いもしなかった。こうしてみると、連城三紀彦の小説は思った以上に映画からの影響が大きかったようだ。

 このエッセイの最終回を、連城は「死ぬわけではないけれど誰方か一人でも惜しんで下さる人はいるのだろうか???」という謙遜の言葉で締めくくった。
 これが書かれた二十三年後、連城三紀彦胃がんでこの世を去った。
 今尚、連城の死を惜しむ人は多い。連城の残した美しい文章、艶やかな男女たち、そして読者を圧倒する奇想はこれからも人々を惹きつけて止まないはずだ。
 

自分とは無関係だと誰が言えるか『春にして君を離れ』/アガサ・クリスティー  

 

 

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 

 そういえば、初めて読んだアガサ・クリスティーの作品は何だったろう。たしか小学生の時に読んだポワロの短編で、覚えているのは牡蠣がトリックに使われたことだけ。それなりに面白かったはずだが、それからクリスティーにはほとんど触れていない。『そして誰もいなくなった』も『ABC殺人事件』も読んでいない。『アクロイド殺し』は大昔に読んだはずだが、あの世に名高いトリックの衝撃しか覚えていない。自分にとってクリスティーとは、その程度の存在だった。

 だが、最近になって急にクリスティーが読みたくなってきた。 そのきっかけとなったのが、知人に紹介された『春にしてきみを離れ』だった。これはかなり面白く、他の作品も読みたいと思うほどだ。

 しかし、この面白さははどこからくるのだろうか?  

 今作のストーリーを解説すると、病気の娘を見舞いに行った老婦人・ジョーンがイラクの砂漠に滞在し、自身の過去を回想するという、それだけ。展開としては非常に地味だ。さらに、この作品のキモとなる秘密も意外とすぐにわかる。というよりクリスティーはこの部分について、あまり隠そうとしていない気がする。あからさまに書いている。そのため、意外性はあまり感じなかった。  

 大きなイベントも起こらず、物語は予想の範疇を出ない。そんな物語が、決して読んでいて飽きることがない。主人公が秘密に気付いた時はハラハラするし、ラストシーンには強い衝撃さえある。この作品の、いったい何がすごいのだろう。

 月並みだがやはり、クリスティーの筆力がすごいということなのか。 ジョーンとロドニー夫妻をはじめ、三人の子供たちのキャラクター造形、含みのある会話、的確な心理描写と伏線の出し方。

 クリスティーの文章はかなり読みやすい。しかしそのウェルメイドな文の中で、人間の弱さを的確に、巧みに抉り出している。読んでいて「名人芸」という言葉が頭に浮かぶ。

 たとえば、エピローグにジョーンがロドニーの本棚を整頓する場面がある。なんてことのない場面だが、この些細な描写だけでこれまでの夫婦の日常を感じさせ、ゾッとさせられる。夫婦の陥った地獄をごくわずかな描写で感じさせる。この手並みはすごい。

 そして最大の魅力は、ジョーンという人間そのものにある。  

 解説の栗本薫は、本作を「哀しくも恐ろしい小説」という風に称している。たしかに、読後感は後を引くし、これからの人生にずっと残りそうな気さえしてくる。  ジョーンは愚かで、弱い人間だ。自分など途中まで、ジョーンの勘違いっぷりに滑稽さを感じていたほどだ。  

 しかし、彼女をただ愚かだと切り捨てることはできない。自分はジョーンと同じことをしているのではないか。そう思った途端、読者はクリスティの術中にはまっている。勘違いした哀れな老女の姿は、いつしか自分を映す鏡となっている。  

 自分が最もリアルに感じたのは、ジョーンが砂漠で気づいたことを夫に告白するか葛藤する場面だ。  

 これまでのことを謝るか。それとも今まで通りに振る舞うか。  固かったはずの決意、あの時は明瞭だった事実が風化していく。さっきまで考えていたことは錯覚じゃないか? そこまでする必要はないのでは?   

 喉元過ぎれば熱さを忘れる。そうして自分の都合の良いように解釈し、また現状維持に甘んじてしまう。他人事とは思えない。ドキッとさせられる。  しかもこうなった原因がジョーンだけの問題ではなく、ロドニーの優しさにもあるのではと考えたとき、物語はより一層やるせなくなる。  

 ジョーンはロドニーのことを「気が弱い」または「主張すべきことは、あくまでも主張しなければならなかった」と称した。ロドニーに関してだけ、彼女は正しいものを見ていたのだ。  

 クリスティー、とにかく侮れぬ。霜月蒼の『アガサ・クリティー完全攻略』によると、この『春にして君を離れ」よりも面白い本がまだあるという。これは読まなければならない。

あれもうんめー、これもうんめー。『安達としまむら8』入間人間

 

安達としまむら8 (電撃文庫)

安達としまむら8 (電撃文庫)

 

 「近いうちに感想を書く」と宣言しておいて、一ヶ月以上経っているのはどういうことだろう。

 先日、『安達としまむら』の再コミカライズ化、そしてテレビアニメ化が発表された。第一巻が出たのが二〇一三年なので、アニメ化まで六年かかったということになる。
 昨今では百合というジャンルがちょっとしたブームとなっているらしい。雑誌で百合の特集が組まれたり、本屋に行けば百合をピックアップした棚が目につく。他にも『やがて君になる』もアニメ化、さらに舞台化までされ、入間人間の書く外伝小説も三巻の発売が発表された。今回のアニメ化もこのブームが背景にあるのだろう。
 で、アニメ化について自分がどう思っているかというと、嬉しい半面、少し心配している。派手な展開の乏しいこの作品が、はたして映像化に向いているのだろうか。
 たとえば『やがて君になる』はかなりうまくアニメ化されていた。しかし、あの作品の成功は原作のコマ割りや構図が元から映像的で、アニメ化に向いていたことが大きいように思える。対して小説であり、心理描写が持ち味である『安達としまむら』の魅力を、アニメで十分に表せられるのか。
 そういった意味で、電撃大王に連載されている袖原もけのコミカライズ版には期待している。マンガで『安達としまむら』の魅力が十分に表現することができるならば、アニメも期待できるのではないか。二話まで読んだところ、なかなかおもしろかった。アニメの続報も期待して待ちたい。

 さて、『安達としまむら』の待望の八巻である。
 前巻が発売されてから約二年半も時間が経っているのにも驚くが、さらに驚くのはこの新刊が大人になったしまむらたちの話から始まることだ。
 先の展開についてネタバレをくらったようで面食らうが、二十七歳になった二人はいっしょに住んでいて、まずまず幸せそうに暮らしている。
 高校生の頃から時間は流れ、人々も少しずつ変化している。変わらないのは宇宙人のヤシロだけだ。
 安達は少し穏やかな性格になり、ヤシロに餌付けできるまでになった(こんなことが前はできなかった)。また、今でもしまむらと日野のつながりが途絶えてないことを微かにうかがわせる描写もあり、それも嬉しい。
 失ったもの、新たに得たもの。しまむらはその両方を見据えて、前向きに生きている。
 そうして高校生の時、修学旅行で交わした約束を果たすため、安達と旅に出る。
 といったところで時間が巻き戻り、高校生の安達としまむらが、今まさに修学旅行に行こうとしている場面に移る。


 この巻では、これまでのように安達としまむらの視点を交互に行き来して進行するのではなく、ほとんどしまむらの視点から物語は語られる。
 ふたりでする初めての旅行。安達は「どうせならふたりきりで旅行したい」とごねるが、旅行の間、前巻以上に恋人らしいイベントがいっぱい起こる。
 修学旅行の間は当然、他の生徒とも一緒に活動しなければならない。そのため今までみたいにふたりだけの世界で出来事が完結しない。
 部屋の中で手をつないでいることをクラスメイトに見られてしまう。女同士で付き合うことで、周りから浮いてしまうことを意識せざるを得ない。
 安達と付き合うことによって、しまむらにとって今までの当たり前が壊れ、熱く新しいものが生まれていく。

 特に大浴場の場面はやばい。ふたりの関係が「仲の良い友達」という範疇に収まらず、「恋人」であるということをしまむらは嫌でも意識させられる。これまでで一番やばいかもしれない。
 他にもバスで寝顔を撮影したり、布団の中で手を繋いだまま眠るなど、恋人っぽさは歴代最高潮だ。
 そうして修学旅行をそれなりに楽しんでいるうちに、しまむらにとって大きな転機がやってくる。


 しまむらは六巻で、安達の告白を受け入れて恋人となった。しかし、その告白の受け方受け方はどこか消極的で「まあ、いいか」という気軽さが感じられた。 
 ところが修学旅行の最中、ある出来事によってしまむらは自分にとって安達がどんな存在なのか、初めて気づく(そのきっかけが、過去に登場したことのある意外なキャラというのが面白い)。

 思い返せば一巻の頃、しまむらは人間関係について複雑な思いを抱いていた。他人といっしょにいることよりも一人でいることを好みながら、一方で誰かとの間で生まれるものが自分にとって大切だと認識している。
 人付き合いを磨耗と称しながら、その重要さも認めている。こういうアンビバレンスなキャラクターがしまむらだった。
 しかし、この巻のしまむらはそういった葛藤を感じさせない。たしかに安達のまっすぐな愛情表現にめんどくさいものを感じながら、それさえも安達の個性として受け入れる。
 人間関係に後ろ向きなものを感じていた女の子が、自分を好きだと言ってくれる子を今までなかったほど強く肯定する。自分にとって安達は必要だと認識する。同性と付き合うことのあれこれを、軽々と飛び越えてみせる。
 旅の終わりに、しまむらは「安達とどこまでいけるか」と考え、さらにそれを知りたいと願う。
 この瞬間、長く続いた安達の一人相撲は終りを告げる。ふたりの間にひかれた歪な線はなだらかになり、猪突猛進に突っ走る安達に、しまむらは自分なりの方法でついに追いつく。
 そして安達は、かつて望んだように「しまむらにとって特別な存在」になることができたのだ。

 八巻まできて、ようやく安達の願いは叶えられた。
 あとがきからも、シリーズも終わりが近いことが感じられる。
 そのためにはまだやり残したことがある。
 安達はしまむらのことを「なにかを終わらせるということを、どこか避けている」と称し、そして自分はしまむらの終わりを見届けたいと望む。
 かつて安達と祭りに行き、樽見の誘いを断ったことでしまむらは図らずとも大きな選択をしてしまった。
 その選択がどういう結果につながるのか。次巻でたしかめることになるかもしれない。
 とりあえず、次巻はできるだけ期間を開けずに出て欲しい。

どうでもいいことだが

夏が近くなるとチャットモンチーの『惚たる蛍』が聴きたくなる。


Hotaru Hotaru - Chatmonchy__live at budokan

 

昔、チャットモンチーがとある夏フェスに参加し、この曲を演奏した。

自分は現地に行けず、後にケーブルテレビで見たが、見るからに暑そうな夏の青空の下で演奏する三人を見て、強く印象に残った。

以来、夏になるとこの曲を思い出す。

 

 

最近ブログをサボり気味だが、近いうちに『安達としまむら』の八巻の感想を書きたいと思っている。

『天国の南』ジム・トンプスン

 

天国の南

天国の南

 

 

 ジム・トンプスンの未翻訳作品が刊行される。これは自分にとって衝撃的な出来事だった。
 数多くのトンプスン作品を翻訳してきた三川基好氏の逝去によって、『この世界、そして花火』を最後にトンプスンの新しい作品を日本で読むことは不可能になったはずだった。それが今ではこの『天国の南』をはじめとし、未翻訳だったトンプスンの小説が定期的に発売されている。ファンは交遊社に感謝しても仕切れないだろう。


 また、本自体のデザインが素晴らしい。トンプスンが主に活躍したペーパーバックを想起させるデザインで、出版社の愛と思い入れが感じられる。
 表紙に使われているホーボーたちの写真も、そのままトンプスンの小説に出てくる男たちの姿にそっくりだ。


 さて、この『天国の南』の舞台はテキサスの油田だ。メキシコ湾近くまでパイプラインを引くため、寂れた街に胡散臭い男たちが集まってくる。人生を持ち崩した労働者、ギャンブラー、悪徳保安官、それに抜群の肉体を持った謎の女など。ノワールとしての舞台は整っている。ここではどんな血なまぐさい事件が起こっても不思議はない。
 作者のトンプスン自身もこのような油田で働いていた過去があるため、ディティールにも優れている。人生をドロップアウトした男たちの描写がとてもリアルだ。
 そうして保安官の銃弾が一人の労働者の顔を吹き飛ばしたとき、物語への期待は大いに高まる。この先待ち構えているであろう、血と暴力の暗い事件への期待が最高潮に達する。
 ところが、である。
 物語は読者の予想を外れ、少し違った方角へ進み始める。物語は前半で期待された禍々しさは影を潜め、黒々しい雰囲気は薄まっていってしまう。
 ノワールの帝王、ジム・トンプスンの小説で、これは一体どういうことだろうか。

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『銀河を渡る』 沢木耕太郎

 

銀河を渡る 全エッセイ

銀河を渡る 全エッセイ

 

 

 沢木耕太郎の初のエッセイ集『路上の視野』シリーズは自分にとって特別な書だった。特にシリーズの三作目、古本屋のワゴンで見つけた『地図を燃やす』はこの作家に興味を持つきっかけとなった本で、その後古本屋をまわって『象が空を』シリーズも集めるほど、自分は沢木耕太郎のエッセイを好んでいた。なので二十五年ぶりの全エッセイ集『銀河を渡る』も、ワクワクしながら読んだ。
 それで、どうだったか。実を言うと、かつてのエッセイほどの感動はなかった。特に旅についての文章は、かすかに味気なさを感じたほどだった。
 しかし、いったい何故だろうか。あの『路上の視野』と本書との違いはどこにあるのか。色々と振り返ってひとつ思い浮かんだ仮説は、作者が年齢を重ね、色々な意味で豊かとなったことが原因ではないかということだ。
 
 『路上の視野』のころ、沢木は三十代に入った頃であり、その文章からあまり金のないことがうかがえた。確かに外国への旅は行われていたが、旅の中であまり金を使わないようにしようとする心がけが感じられたし、文章からうかがえる限り、日本での沢木の生活もかなり質素なものに見受けられた。
 自分にとって『路上の視野』を特別なものにしていたのは、当時の沢木の若さと貧しさだったのではないか。そういった作者に、同じように若く貧しかった自分は共感や憧憬を抱き、それが反射して『路上の視野』をひどく魅力的に見せていたのではないか。
 『銀河を渡る』に収録されたエッセイのほとんどは二千年代に入ってからのものであり、そのころ沢木は五十歳をすぎたころだった。その年齢で行われる旅に、さすがに二十代のころの貧しさは見られない。旅行や出会う人に関しても余裕が感じられた。そのことが自分には味気なさに感じられたのかもしれない。ロサンゼルスのVIP用のボクシングジムでミッキー・ロークと出会った話よりも、香港で1ドル程度のフェリーでの航海を「豪華だ」と楽しむ話の方が、自分にとって圧倒的に面白かったのだ。

 と、ここまで本書をクサすようなことを書いたが、決して本書がつまらないわけではない。楽しんで読むことができた。特に沢木と親交のあった高倉健、そして『旅する力』でも登場した編集者、太田欣三へ向けた追悼文は読んでいて胸を打たれた。
 しかし、自分が最も興味深かったのは「すべて眼に見えるように」という、本書では比較的地味で短いエッセイだった。
 このエッセイは作文の苦手だった作者が、どうやって文章を書けるようになったかを、子供の夏休みの作文を例にわかりやすく解説したものである。
 まず、頭の中に浮かんでいるもやもやしたものを単語の形で書き出す。思いつくだけの単語を記し、眼に見えるようにして、その単語でごく簡単な短い文章を作ってみる。「子供 作文 苦手」という単語の群れから「子供のころ、作文が苦手だった」というように。
 こういった簡単な文章をいくつか作り並べると、そのうち文と文の間に付け加えることや入るべき文章が浮かんでくる。そうやって文を膨らませていくうちに、一つの長い文章ができるという。
 この文章の作り方はごくごく簡単で素朴な方法だろう。これくらいのやり方なら、習うまでもなく既に実践しているひともいるかもしれない。
 では、なぜこのエッセイが面白かったのか。

 自分は昔、文章を書くことが苦手だった。苦痛だったと言っても良い。どうすれば頭の中で漠然とただよっているものをまとめることができるのか、言葉で表現できるのか。
 悩んだ自分は、いくつかの本を読んでヒントを得ようとした。そのとき参考になったもののひとつが沢木の「断片から」という短い文章だった(このエッセイは『地図を燃やす』に収録されている)。
 「断片から」には、まだライターとしてキャリアの浅かった沢木の、書くことについての苦悩と対処法がシンプルに語られている。文章を頭から結論まで綺麗に書けない。いざ原稿用紙を前にしても、目の前の空白に立ち尽くし、戸惑うしかない。
 書くときは常に”断片”から始まる。断片を集め、つなぎ、並べ替え、組み合わせてようやく一つの全体ができる。だが、それでいいのだ。ルポルタージュにとって大切なのは、断片の確かさと鮮やかさなのだから‥‥。
 ここでいう”断片”とはふたつのものを指している。ひとつは長文における単語、もうひとつはノンフィクションにおける、取材によって得たシーンのことだ。

 そして、このエッセイが突破口となった。自分も最初から完璧な文章を書こうとし、そのたびに筆が止まっていた。そうではなく、まず断片から始めるのだ。不完全なものでも良いから、書き出してみる。それが長文の中で効果的な結論に結びつかなくても、気にしなくて良い。大事なのは断片の鮮烈さだ。そう思ったとき、かなり気持ちが楽になった。この「断片から」は、書くことへのハードルを確実に下げてくれた。
 沢木と同じように、自分も断片から書き始めた。単語を並べ、短文をつくり、膨らませていく。そうやって練習を続けているうちに、どうにかこのブログの記事くらいは書けるようになった。
 そんなときに、この「すべて眼に見えるように」を読んでニヤリとしてしまった。今の沢木も若い時と同じように、断片から始めていること、そして自分は沢木耕太郎と同じ方法で文章を書いていること。このふたつを確認し、嬉しくなったのだ。
 もっとも、肝心の文章の質には大きな差があるが‥‥‥‥。
 

『やがて君になる 佐伯沙弥香について』 入間人間

 

 

 すでに百合漫画の金字塔となろうとしている『やがて君になる』のスピンオフ小説である。作者は『安達としまむら』の入間人間。原作漫画の主人公の一人・七海橙子の親友であり、橙子に恋心を抱く佐伯沙弥香の過去を描いた作品だ。

 入間人間が「やがて君になる」の番外編を書く。それを知ったとき、自分は『安達としまむら』も『やがて君になる』も両方好きなので、非常に楽しみだった。
 番外編は沙弥香の中学生時代、中学校の先輩との恋愛についての物語だ。
 この中学生時代のエピソードは原作の漫画ですでに描かれている。なので原作を読んでいる人は沙弥香の恋愛がどういう顛末を辿ったか、もう知っているのだ。
 結末がすでにわかっている話を入間人間はどのように膨らませ、小説にしたか。
 その方法は小学生時代の、沙弥香ともうひとりの女の子の出会いから物語を始めることだった。

 小学生の沙弥香は原作でよく知っている、あの沙弥香のままだ。高校生のころと性格は少し違うが、「小学生のころ、沙弥香はこんな子供だったのだろう」と思わせるだけの説得力がある。
 勉強も習い事も嫌がらず、誰よりも前を進もうとする沙弥香は、スイミングスクールで一人の少女と出会う。授業の間遊んでいるような不真面目な子だが、一生懸命に練習している沙弥香よりも泳ぐのが速い。そしてなぜか沙弥香の周りを無邪気にまとわりついてくる。自分と何もかもが違う少女に沙弥香はとまどうが、徐々にその子が気になっていく。
 少女は沙弥香を見ていると「手のひらが熱くなる」という。少女はまだ幼く、その熱さの正体に気づいていない。しかし、沙弥香だけはその「熱さ」について心当たりがあった。まだ幼い自分たちには縁がないはずの、女の子同士では起こらないはずの反応に、少女も沙弥香も気持ちをかき乱される。
 二人の関係はある出来事をきっかけに破局を迎えるが、少女との出会いは沙弥香の人生に深い傷を刻む。中学生になってからも、この時の経験が影を落とすようになる。

 中学生になった沙弥香は、同じ合唱部の先輩に告白され、先輩と付き合うかで強く葛藤する。人と交際することについて、しかも相手が女性であることに真剣に悩む。先輩の告白がもたらすものについて、真剣に考える。
 悩み続けた結果、他人を好きになることがどういうことかわからないまま、沙弥香は先輩の告白を受け、交際を始める。そうして先輩の好意に誠実に向かい合おうと、沙弥香は先輩が求める通りの人間になろうとする。
 原作では橙子が向ける好意によって、侑は「自分は誰も好きにならない」ことを強いられる。一方で本作の沙弥香は積極的に先輩の好みに合わせて自分を変化させようとするなど、ある種の束縛を受ける。
 「好き」という感情が人を束縛する、というのは原作でも本作でも共通のテーマだが、これは入間人間の過去作品にもよく見られるテーマではないか。
 たとえば『いもーとらいふ』の主人公は妹との愛情を優先するため、親や友人など他の大切なものを切り捨てなければならない。『安達としまむら』では、安達からの過剰な愛情によって、しまむらは自分が大切にしようとしているものを失う可能性があることを予感している。「少女妄想中。」で<走る女の子>に惹かれてしまうアオも、その好意で自縛状態に陥るのだ。

 先輩に合わせて自分を変えていった沙弥香は、しかし残酷な形でその努力は裏切られた。
 先輩の望む人間になろうとした沙弥香は、相手に望まれなくなったときに、何者でもなくなってしまう。
 中学を卒業した後、先輩と出会う前の自分にはもう戻れないのではないか、という不安に沙弥香は苦しめられる。
 その不安が橙子との出会いで払拭される。間違っていたと思った自分の選択が、新しい出会いで昇華される。
 抱え込んだ絶望が一つの出会いで一転する。ここの心理描写は非常に鮮やかだ。
 橙子と出会えたのは先輩との恋愛があったからだ。先輩との日々があったからこそ、新しい出会いがあった。
 つまり、全てが水泡に帰したはずの先輩との交際も、きちんと意味があったのだ。
 無意味に終わったかの様に見えたことでも、何かの結果につながっていく。

 入間人間は小学生時代のエピソードから描くことによって、佐伯沙弥香という人間がいかにして形成されたか、そして七海橙子と出会うまでに、沙弥香にどんな出会いが必要だったか、そういう物語を紡いだ。
 小学生のときに、少女を追いかけて水面に飛び込んだからこそ、後に沙弥香はかけがけのない相手と出会うことができた。
 そして先輩とのやりとりに心が揺らぐとき、沙弥香が思い出すのは少女と出会ったプールの穏やかな水面であり、少女の感じた「手の熱」である。先輩のことを本当に想うとき、あの手のひらの熱さが沙弥香にもふりかかる。
 実を結ぶことのなかった少女との出会いも、何らかの意味を持つ。すべてのものには意味がある。忘れたとしても、なかったことにはならない。
 沙弥香には報われてほしいと思う。と同時に、あの少女も報われてほしいと思う。
 沙弥香と同じように、不幸な顛末に終わった出会いにも意味があり、少女にとって価値のあるものだったなら良いと、そう思った。

 かつて仲谷鳰入間人間の小説『少女妄想中。』の表紙と挿絵を描いたことがあった。そしてこの『少女妄想中。』を、自分は『やがて君になる』や『安達としまむら』の、いわばB面に当たる重要な作品だと思っている。
 というわけで、次にこの作品の感想も書きたいと思う。