陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『ドイツの小さな町』ジョン・ル・カレ

 

 

 

 

 舞台となるのは反英感情が高まり、デモ行進やナショナリストの指導者のポスターが町中に張り出されている西ドイツの街、ボン。

 そのボンでイギリス大使館の職員、リオ・ハーディングが失踪する。彼は敵国の二重スパイだったのか? 調査のため公安部の調査員アラン・ターナーがイギリスから派遣され、大使館の人間たちに聞き込みを行いハーディングの行方を探ろうとする。しかしその背後には各国の思惑が絡んだ陰謀が隠されており──

 

 

 物語の大半はボンを訪れた調査官ターナーによる、ハーディングの同僚たちへの尋問で占められる。

 最初に言うと、疲れる読書ではあった。なんせ一つ一つの文章の情報量が多く、どのセリフや記述が伏線になるのか気が置けない。そのうえ、主人公のターナーは自分の推理の道筋をめったに明らかにしてくれない。なのでターナーの思考についていくのも読者は苦労する羽目となる。記憶力に自信がないせいで、読む期間が少しでも空くと話についていけなくなってしまう。仕方ないので伏線になりそうなところを細かくメモしながら読み進めたが、今でもストーリーの全容をつかめている気がしない

 しかし、アクションも乏しく言葉の応酬が続くストーリーはすこぶる地味なはずなのに、これがかなり面白い。ル・カレの筆は相変わらずスローペースで、ハーディングの失踪が発覚し、ターナーがボンを訪れるまで約100ページも費やされるのだが、この序盤で大使館の雰囲気と職員たちの生活を描写したことが後々になって効いてくる。

 

 

 大使館では職員ごとにAランクやBランクと階級が決まっていて、Aランクの職員はBランクの職員と付き合わないなど、完全な階級社会ができあがっている。日曜の礼拝では、職員の妻たちの歩く順番が夫の地位の順になることが暗黙の了解となっていたり、教会に一番最初に入るのは最年長の夫人で、その夫人は順番を譲られたことを驚くふりを必ずする。

 上流階級のルールや格式ばったスノッブさに縛られた世界。そんな大使館を優秀だが粗野なターナーが土足で踏み込んで行き、人々の秘密を暴いていく姿には意地の悪い楽しさを覚える。

 ターナーの食えないプロフェッショナルぽさも良いし、外務省のブラッドフィールドやド・リールのスノッブさも秀逸である。けれど特に印象的だったのは中年女性の職員、パージターであった。

 この女性は自分より階級が下のハーディングに誘惑され、規則を破ってあることをしてしまったのだが、そのことを周囲の噂から嗅ぎつけられるのを恐れ、自分からターナーへ告白しようとする。

 最初は毅然とした態度でターナーに対するパージターだが、ターナーの容赦ない追求に次第にボロボロになっていき、ついには泣き出してしまった上に孤独な自分がハーディングに誘惑され心を乱し、しかも最後には都合よく利用されて捨てられたことを認める羽目になる。

 裏切られた人間の惨めさをターナー=ル・カレは容赦なく抉り出すが、そんな痛ましいパージターの姿に読んでいるこっちも意地の悪い楽しさを感じずにはいられない。

 外務省の中でハーディングはランクの低い下級職員であり、しかも純粋なイギリス人ではなくドイツからの移民ということもあって他のメンバーから軽く扱われている。そんなハーディングが大使館メンバーたちを巧みに取り込み、ある目的を達成しようとした様子が調査で明らかになっていく。このスノッブな大使館の世界で、取るに足らない男だと思われていたハーディングが太々しく立ち回る姿にはピカレスクな魅力がある。

 同時に、冴えない職員に思えたハーディングの思わぬ知略に、いつしかターナーの興味はハーディングの人生へと移っていく。

 

 

 ターナーは消えたハーディングの行方を追い続けるが、それは必然、ハーディングという

人間を理解することにつながっていく。やがていつしか、追う者は追われる者に共感を覚え始め、やがて表裏一体の存在となる。ターナーがハーディングの思考を、人生を理解しようとするたびに、単なるソ連の二重スパイだと思われていたハーディングのまとった皮が一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。そしてハーディングの人生を探求することは、ドイツの歴史を辿ることでもあった。

 

 言わずと知れたことだが、かつてジョン・ル・カレはイギリス諜報部のスパイであり、実際にドイツのボンへ外務省職員として赴任していたという。当時のドイツでは本作のような大規模な反英デモは行われなかったらしいが、本書から読み取れるドイツの不安定な雰囲気と、そんな場所で生活しているイギリスの外交官たちの無力感にはリアルなものが感じられる。それはこのル・カレの経験が活かされているからだろう。

 第二次世界大戦でのドイツの敗戦とナチス戦争犯罪。イギリスはじめ戦勝国から与えられた祖国に、ドイツ人が見せる負の感情。

 冒頭から名前だけ登場していたドイツ統一運動の指導者、カーフェルトが終盤にようやく登場する。ナショナリストであるカーフェルトに熱狂する街の様子には、かつてのヒトラーの姿が重ねられる。

 当時のドイツでは元ナチスの党員が断罪されず、新生されたはずのドイツで新しい職に就くようなことが平気で行われていたという。その様子を現地で目撃していたル・カレにとって、ドイツの極右化とナチス復権は身近な恐怖だったのだろう。

 

 

 そして終盤、ターナーがハーディングの目論見をついに見抜いたとき、ここ一番でル・カレは鞭を振って読者を煽る。事件の手がかりを詰め込んだカートごと、真相を知ったターナーが満身創痍で大使館に再び現れる場面で物語は俄然盛り上がり、しかしこの終盤でハーディングの秘密が明かされても物語は幕を下ろさない。

 最後にターナーとハーディングの前へ立ち塞がるのはどこまで行っても個人が無力な、国と国の巨大なゲームである。そこでターナーはハーディングを追い詰めたものの正体を知る。周囲の無関心、国と国のパワーゲームによって分割され統治されたドイツの怨念。偉大なる大国としての地位から滑り落ちながら、威信にすがりついて介入をやめないイギリス。繰り返される歴史に、ハーディングが乗り移ったかのようなターナーが国家的利益のために押しつぶされる人間がいると強く反発する。

 やりとりの背後にはル・カレの当時のドイツとイギリスの関係への感情も伺えるが、それ以上に印象的なのはル・カレが母国へ向ける視線があまりにシニカルであることだ。

 

 

 物語はささやかな一つの殺人と、極めて事務的なセリフで締めくくられるが、そのセリフを発した者は名前さえ示されない。ただ『アングロサクソン人』だと人種だけが強調される。 

 ル・カレは怒っている。そしてこの怒りが、後の『ティンカー、テイラー』などの傑作群に比べ、この小説ではストレートに表れている。

 静かで乾いた結末を読みながら思うのは、改めてル・カレにとってイギリスとは何なのだろうか、イギリス人であることはどういう意味があったのか、ということだった。

 

そこに幽霊が立っている『ねじの回転』ヘンリー・ジェイムズ

 

 

 最近、黒沢清の映画『LOFT』を観て、偉いと思った。そこには恐ろしい幽霊の姿を現代に甦らせようとする、作り手たちの真っ当な努力があった。古典的な怪奇映画を進化させようとする姿には感動さえ覚えた。
 しかし、そんな幽霊を見ているうちに素朴な疑問が湧いてきた。結局のところ、我々は幽霊の何が怖いのだろうか? ホラー映画には殺人鬼が襲ってくるパターンのものも多いが、殺人鬼と幽霊の怖さはどう違うのだろうか?
 そんなことを考えるのは『LOFT』で幽霊を演じるのが安達祐実だからだ。不気味な幽霊が現れる時、それを演じる俳優の達者さによって、むしろ幽霊と矛盾する肉体性が強調されていた。
 たとえば殺人鬼が肉体性を持つ時、そこで観客は作り物であることを忘れ、殺人鬼をリアルなものとして感じられて、恐怖が倍増する。逆に、幽霊は肉体を感じさせないからこそ怖いのではないか。この世とは違う世界の存在を想起させる、そんな異界の空気に幽霊への恐怖があるのでははないか。
 もし、幽霊に触られたらどうなってしまうのか。異次元と日常が接触する、その先に何が待っているかわからない。この「わからない」ことが幽霊の恐怖を支えている気がするのだ。

 同じ頃に読んだ小説『ねじの回転』は、そんな幽霊の怖さがたっぷり味わえる小説だ。ホラー映画『回転』の原作小説であり、黒沢清はもちろん、高橋洋もホラー映画のベストに挙げる作品だ。

 物語の構成は作中作が含まれるかなり複雑なものだが、あらすじを簡単に抜き出すと次のようになる。
 若い家庭教師の女性、「私」が天使のように美しい娘、フローラのいる屋敷で家庭教師として働き始める。フローラは純粋無垢で美しいし、同僚の家政婦、グロース夫人も善良な人で主人公にとって屋敷の生活は申し分のないものだった。やがて、屋敷には寄宿学校に通っていたもう一人の子ども、マイルズが帰ってくる。このマイルズもフローラに負けず劣らず美しく、内面も素直で賢い子どもであり、この二人の子どもを相手に主人公は幸福な教師生活を送る。しかし塔の上で不思議な人影を見てから、館での生活に徐々に暗い影が差し込んでくる。

 職歴なしの若い娘にとって、フローラたちの家庭教師は待遇のかなり良い仕事だが、「館で起こった問題について自分は一切関与せず、報連相の必要もなく自分たちで解決すること」なんて雇い主に念押しされるあたりで、この仕事がただことではないのがわかってくる。この不穏さで掴みはOKである。

 序盤は詳細すぎるほどの心理描写にちょっと読んでいてもたつくが、幽霊と子どもたちの秘密が明らかとなり、駆け引きが始まる辺りから俄然おもしろくなっていく。
 主人公と幽霊のファーストコンタクトは「塔の上に立つ幽霊を遠くから見つける」という迂遠なもので、最初は不審者が侵入したのかと疑う主人公だが、徐々にその不審な影に怯えるようになる。
 幽霊は主人公達に直接危害を加えないが、かわりに子ども達の周囲に現れ、なにかを吹き込んでいるようだ(と、主人公は思い込んでいる)。そのうえ、子ども達は幽霊のことを大人には秘密にしようとする。
 主人公はどうにかして子どもから幽霊を引き剥がそうとするのだが、問い詰められるたびにマイルズたちは幽霊など見ていないと言い張るし、一方で先生の目を盗んで部屋を抜け出し、こっそり幽霊と接触してさえいるようだ。
 しかもマイルズたちが自分たちの美しさと、それが大人たちを虜にしているのを自覚していることがわかってくる。純粋無垢な子どもを演じながら先生を煙に巻こうとする子どもたちの姿は読んでいてちょっとイラつくが、先生とのやりとりはスリリングだ。
 利口で、目端の効きすぎる子ども達に対して「本当はそんな子じゃない」と子どもを信じて疑わない主人公や同僚の家政婦の様子は滑稽でさえあるのだが、その過程で主人公が階級や教養を理由に、同僚にマウントをとる微妙な性格をしていることもわかってきて、そこでも不穏な雰囲気が出てきてハラハラして飽きさせない。

 賢くてふてぶてしい子どもたちに対して、肝心の幽霊はほとんどアクションを起こさないため少し存在感が薄い。しかし子ども達の幽霊を隠そうとする行為が、むしろそこに隠す対象(幽霊)の印象を強くしていく。マイルズが先生に駆け引きを挑み、追求を巧妙に逃れようとするたび、その背後にいる幽霊のことが意識されていく。
 やがて主人公の信じていた「純粋無垢な子ども達」の像が少しずつ剥がれていく。自分の認知する世界が壊され、未知の異界が現れ始める。その不安な予感とともに、存在感の薄かったはずの幽霊は、いつしかたしかな恐怖を纏って主人公の前に現れる。

 そして主人公とマイルスとの心理戦がピークに達した瞬間、物語は急転直下で幕を閉じる。大切なものが一瞬で奪われ、あとには未知の存在への恐怖が残る。この恐怖の実感はのちの日本のホラー映画で見られるものとかなり似通っていた。原作とはいえ、たしかに黒沢清たちに影響を与えたのも納得の幽霊の演出であった。

 

 巻末の解説にある通り、本作は様々な謎が隠されているが、その答えはほのめかされるだけで明確なものは示されない。「幽霊は実在したのか。全ては主人公の妄想ではなかったか」というのが最大の謎だが、自分が一番気になったのは「主人公はなぜこんな話を書き残したのか?」ということ、それに「あんな事件があったのになぜ10年後も家庭教師を続けていたのか?」ということだった。あんな事件を経験したのに、主人公はどのような思いで家庭教師を続けていたのか。
 はたして絶対的な非現実の存在と接触した人間には、なにが待っているのだろう。
 幽霊という異界と出会ってしまった、そんな先生の人生はどのように捻じ曲げられてしまったのか。そのことを想像する時、また違った恐ろしさを覚えるのだった。

名探偵スマイリー。それにル・カレの視線『死者にかかってきた電話』(2)ジョン・ル・カレ

 著名な作家のマイナーなデビュー作を読むのは楽しい。シリーズ物となれば尚更だ。よく知っているキャラクターたちの若いころの(つまり、初登場時の)姿が新鮮でおもしろい。
 たとえばジョージ・スマイリーは後のシリーズと変わらず、いつも通り冴えない。なんせ「身分違いの美女と結婚した」と社交界で陰口を叩かれている、そんなエピソードから物語が始まるほどで、スマイリーがいかに冴えないかという描写にル・カレはやたらと力を入れている。嗜虐的なほどだ。
 しかし中盤で、そんなスマイリーがソリの合わない上司(のちのシリーズにでてくる管理官とは別人)にいびられて思わず泣いてしまう。「スマイリー三部作」のころの老練とした姿とは程遠い、スマイリーの青くさい姿に新鮮な驚きがある。
 さらにはスマイリーの同僚のピーター・ギラム。『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の頃は若々しい悩めるプレイボーイだったが、本作では思慮深い初老の紳士のような喋り方をして、しかもスマイリーからは敬語で話しかけられる。
 設定の固まっていないデビュー作だからこその出来事で、のちのシリーズとのギャップが大きくておもしろい。
 シリーズ恒例のスパイたちの使う隠語の設定もまだ固まっていない。たとえばイギリス情報部は、のちのシリーズでおなじみの「サーカス」ではなく「役所」と呼ばれている。
 注目したいのは「役所」でのスマイリーのあだ名だが、よりにもよって「もぐら」であることだ。言うまでもなく「もぐら」とは『ティンカー、テイラー』における、情報部に潜り込んだ裏切り者を指す隠語であった。
 
 
 戦争での爆撃の跡がいまだ残るロンドンで、外務省職員のフェナンが自殺した。捜査機関はその直前にフェナンを尋問をしていた諜報員、スマイリーに自殺の責任があると疑いをかけるが、スマイリー自身はフェナンとのやり取りは終始和やかなものであり、自殺に結びつくものではないと知っていた。
 フェナンの死には何か別の理由があると睨んだスマイリーは特別捜査班の刑事、メンデルとともに独自の調査を行う。やがて事件は敵対する東ドイツの陰謀、さらにはスマイリーの暗い過去とも結びついてくるのだった。
 
 ジョン・ル・カレといえば『寒い国から帰ってきたスパイ』や『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』など、スパイ小説の金字塔をいくつもモノにした、押しも押されぬスパイ小説の大家である。
 そういった印象が強い読者ほど、このデビュー作のスタイルに驚かされるだろう。というのも本作のジャンルはほとんど本格ミステリなのだ。
 
 疑う人がいるならば物語の終盤、自宅でスマイリーが懸命の推理に励む場面を読んでみれば良い。
 ここでスマイリーはこれまでの事件の謎と手がかりを一気に列挙し、そして「勝負はついた!」と全ての謎が解けたことを宣言するのだ。
 これは作者による「この小説の謎を解く手がかりは全て出そろった」という宣言であり、つまり「読者への挑戦」となんら変わりない役割を果たしている。
 
 他にも本作から本格ミステリ「らしさ」は多く見られる。
 たとえばル・カレは序盤に魅力的な謎を用意している。「外交官は、なぜ自殺の2時間ほど前にモーニングコールを依頼したのか?」というホワイダニットであり、この電話をめぐる謎が物語の中心となって読者の興味を引っ張る。
 また、スマイリーの相棒は恒例のピーター・ギラムではなく『ティンカー、テイラー』でも登場したやり手の刑事、メンデルが務める。スパイと刑事という職業も性格も、生まれ育った階級も違う二人がコンビを組む様子はホームズとワトスンなど、いくつもの探偵小説で見られたおなじみの設定である。
  序盤に提示される魅力的な謎。頭脳明晰な名探偵と活発な助手のタッグ。
 これらはすべて探偵小説──というよりも本格ミステリのパターンと合致している。
 しかも終盤には意外な犯人と、構図の鮮やかな転換による事件の解明さえ用意されている。実際の読んでみた感触も本格ミステリのそれに近い。
 また、とある場面で登場人物のなにげない一言が偶然にも事件の真相を示唆していたという場面があり、こういった遊び心にもミステリらしさが感じられる。
 
 偶然か、それとも意図的なのか。本作は本格ミステリの性格やお約束を、これほどまでも備えた作品なのだ。
 この本格ミステリへの接近は、たぶん意図的なものだと思われる。なぜなら次作の『高貴なる殺人』が、学校で起こった殺人事件をスパイを辞めて市井の人間となったスマイリーが捜査するという、より本格ミステリのフォーマットに沿った作品だからだ。こういった作品を続けて書いたということから、初期ル・カレにミステリへの強い志向性があったことは確かだろう。
 こういったミステリへの志向性は『寒い国から帰ってきたスパイ』の伏線の周到さと終盤の逆転劇へ。さらには『ドイツの小さな町』で真相を知った主人公が大使館に登場する、解決編開幕のカタルシスにもつながっている。
 ル・カレは物語を盛り上げるためにミステリの手法を意欲的に取り入れる。しかし『死者にかかってきた電話』に関して言えば単にミステリのテクニックを拝借したのではなく、本質的な構造としてミステリを志向しており、そこがル・カレの作品群において特別となっているのだ。
 
 しかし、そんな本格ミステリという皮の下でもル・カレのアフォリズムはたしかに脈動し続けている。
 本作の舞台となるのは、いまだ戦争やナチスの暴力の跡が身近で、自分の父がユダヤ人だったというメンデルの告白が一層の重みを持つ時代のロンドンである。
 事件を追うメンデル。殺された外交官の妻であるエルサ・フェナン。裏で糸を引く東ドイツのスパイ、ディーター。 彼らは皆ユダヤ人であり、戦争への恐怖、怒り、憎しみがそれぞれを陰謀や追跡に駆り立てる。
 スマイリーも例外ではない。ドイツを愛するスマイリーはその地を蹂躙したナチスへ怒りを抱き、それがスマイリーを戦時中のスパイ活動に熱中させた。
 ナチスの蛮勇への怒りや悲しみを登場人物の誰もが抱え、戦争の暗い影を引きずって現在を生きている。そんな彼らがそれぞれ異なる陣営に所属し、相手を憎みあう組織のイデオロギーに則って激しく対立する。
 物語が佳境を迎えるにつれ、そんな悲しみをル・カレは浮き彫りにする。
 
 事件のクライマックスでは、因縁のあるスパイたちが再会する。一方は過去を忘れて相手を殺そうと必死になり、もう一人は旧友のために冷酷な殺人者であることを止めようとする。その瞬間、互いが信じたイデオロギーの差異は無価値となる。殺す者と殺される者が逆転する様は、男たちが同じコインの表裏に過ぎないことを表す。
 この鏡像関係は『寒い国から帰ってきたスパイ』やスマイリー三部作でル・カレが繰り返し描いてきたテーマである。その源流がここにはある。
 終盤、スマイリーは事件を次のように総括するが、これらの言葉は事件だけではなく、自由と正義のために戦った自身や組織への総括であり、さらには嫌悪の表明にも思えてくる。
 
「現在、平和というのはうす汚れた言葉だ」
(中略)
「ふたりとも、平和と自由を夢見ていた。そして現状は、殺人者であり、スパイでした」
 

 

 スパイという存在の矛盾と皮肉を描き出し、さらにル・カレはどこまでも冷徹に、最後の最後に駄目押しの一撃を加える。
 飛行機の中でアンとの再会を夢見るスマイリー。その姿を、偶然居合わせた少年はどう見るのか。社会を守るために戦った主人公への、守るべき社会から向けられる視線で物語は締めくくられる。
 ここに至ってスマイリーの終生に渡る孤独は完成し、ジェームズ・ボンド的なスパイ像は完膚なきまでに破壊される。
 ル・カレはイギリス情報部に所属していた時期に、つまり諜報の世界がもっとも身近な時期にこの作品を書いた。あらためて、その事実が大きな意味を持つように思える。
 自身を含めたスパイという存在への鋭く、ニヒルな視線。ジョン・ル・カレのキャリアは、このスパイに向けた冷徹な視点から始まった。

54年後の爆弾『死者にかかってきた電話』(1)/ジョン・ル・カレ

 当時、イギリス情報部の現役スパイであったジョン・ル・カレはこの作品で作家デビューを果たした。
 物語の舞台となるのはドイツが東と西に分かれていた、冷戦下のイギリス。情報部のスパイ、ジョージ・スマイリーは外務省職員の謎の死を調査する。事件の裏には東ドイツのスパイたちの影が見られるが、イギリス情報部は事件を自殺として幕を引こうとする。組織から見放されたスマイリーは単独で調査を続行するが、敵スパイたちの凶手はスマイリーにも向けられ──。
 デビュー作のため、のちのル・カレ特有の複雑なプロットも見られず、あらすじだけ見ると本書はオーソドックスなスパイ小説に思えるかもしれない。
 一方でル・カレの作家人生において、このデビュー作はかなり語るべきところの多い小説である。後の代表作と深く関係している物語であるうえに、ル・カレという作家の個性が強く表れている作品でもある。
 では、ジョン・ル・カレとはどういった作家だったのか。
 簡単に言えば「社会の問題を扱うアフォリズムの作家である以前に、第一級のミステリ作家」。それがジョン・ル・カレである。
 
 『死者にかかってきた電話』において、スマイリーは敵対するスパイに2度も命を狙われる。1度目はスマイリーの機転によってことなきを得たが、2度目の襲撃では大怪我を負ってしまう。
 ここで注目すべきポイントは中盤、このスマイリーを襲撃したスパイの名前がハンス=ディーター・ムントだと判明する場面である。実はこのムントとは、続編『寒い国から帰ってきたスパイ』における最重要人物なのだ。
 『死者にかかっていた電話』の事件後、東ドイツで出世したムントは情報部のトップとして辣腕を振るい、イギリス情報部にとって最大の敵として君臨している。このムントを失脚させるためにイギリスのスパイ、アレック・リーマスが刺客として送り込まれる──というのが『寒い国から帰ってきたスパイ』のストーリーだ。
 そんなムントの若い頃、現場工作員として活動していた『死者にかかってきた電話』でのムントとスマイリーの因縁は、『寒い国から─』の物語の背景として、さらに伏線として重大な意味を持っている。
 ネタバレを避けるために詳細には書けないが、このムントの凶暴な姿自体がル・カレの仕掛けなのだ。この姿を読者に印象付けることによって、ル・カレは後の『寒い国から─』のクライマックスで読者がより強い衝撃を受けるよう、設計して書いている。
 つまり、この『死者にかかってきた電話』は『寒い国から帰ってきたスパイ』の正当な前日譚であり、しかも作品自体が読者を欺く重要なトリックとして機能しているのだ。
(なので、現代の読者は『寒い国から─』をいきなり読むのではなく、発表順に『死者に─』から読まなければ『寒い国から─』の本当の面白さを理解できないと言えるかもしれない。大げさかもしれないが。)
 
 ただし、このような仕掛けをル・カレが初めから、つまり『死者にかかってきた電話』執筆中の段階で考えていたかというと微妙だろう。『死者に─』から『寒い国─』の発表まで数年がかかっているし、『ジョン・ル・カレ伝』によるとル・カレは事前に詳細なプロットを作らないらしい。
 おそらく『死者に─』を発表した数年後『寒い国─』に取りかかった際、この過去作に登場したムントを再登場させ数年越しの伏線として効果的に使うという、言ってしまえば後付けのアイデアが浮かんだのではないか。もちろん後付けと言えど、その発想力の価値は変わりない。
 
 注目すべきは『死者に─』がル・カレのデビュー作であり、『寒い国から─』はデビューからわずか三作目の作品であるということだ。そんなキャリアの若いうちからル・カレはこのような仕掛けを成功させていた。
 さらに、ル・カレはこの<過去作品を重要な伏線にする>メソッドを、最晩年の作品にも利用している。しかもル・カレはそこで、このような<企て>を一層ラディカルに先鋭化させているのだ。
 その作品とは『寒い国から帰ってきたスパイ』の正当な続編であり、スマイリーシリーズの最後の作品となった『スパイたちの遺産』である。
 
 『寒い国から─』が刊行されたのが1963年、『スパイたちの遺産』が2017年。約54年も前に書かれた小説を利用して、ル・カレはあるトリックを仕掛ける。
 『寒い国から─』のとあるシーンで登場したある人物について、それが読者のミスリードを誘う描写だったと『スパイたちの遺産』で初めて判明する。その手法は、もはや叙述トリックのようだ。なんと50年以上の時を超えて炸裂する叙述トリックという、途方も無いことをル・カレは企てた。
 
 しかし、このサプライズは作品を破壊する爆弾でもあった。
 『寒い国から─』の非情な世界の中で、唯一温かみのあった愛と慈しみ。しかしその裏に隠れた真実が『スパイたちの遺産』で明らかとなった時、全てが冷酷で巨大な陰謀の中に取り込まれてしまう。しかもそれは、シリーズの顔であり読者に最も愛された主人公、スマイリーの手によって為される。
 おそらく、『スパイたちの遺産』を読んだ読者が以前と同じように『寒い国から帰ってきたスパイ』を読むことはできないだろう。このトリックによってル・カレは『寒い国─』という物語において、もっとも人間的でナイーブな部分を破壊し、世界をガラリと変質させてしまった。そこにあるのは時に狂信的となる大義を振りかざす、そんなスパイたちのゲームに支配された世界だ。
 
 ただし、正直言ってこの仕掛けには過去作と整合性が取れているか、微妙な部分もある。
 それでも、そんな強引な後付けのアイデアであっても、最晩年のジョン・ル・カレはギリギリの綱渡りを繰り広げる。そこまでしてスパイの非情さを描き、さらに読者に驚きを与えようとする。
 これはジョン・ル・カレストーリーテラーとしての腕前を示す一例であり、同時にル・カレの作家としての志向性を表している。
 単なる社会派作家ではない。たとえ過去の名作に傷が付くことになろうとも、叙述トリックまがいの仕掛けによって読者に衝撃を与えようとする。読者の驚きがすなわち小説の面白さだと、そういったミステリ作家のマインドをル・カレは持っている。
 そして、デビュー作『死者にかかってきた電話』はル・カレが作家人生の最後まで持ち続けた〈企て〉への志向性を表す最初のものであり、その志向性と読者を欺く技巧を作家人生の最後まで持ち続けた証が『スパイたちの遺産』であった。
 
 同時に、この『死者にかかってきた電話』と合わせて後の二冊──ル・カレのキャリアを決定づけた金字塔『寒い国から帰ってきたスパイ』、そして最晩年に放った作家生活の総決算『スパイたちの遺産』──この三作は、数十年という長い期間に変化していった国際関係と、そんな世界の裏で暗躍し続けたスパイたちの顛末を描いた三部作と見るべきだ。
 この三部作で、スパイたちが誰を、なんのために裏切ったか。もう一度読み返せばル・カレが数十年かけて描いたスパイたちの重層的な歴史が立ち現れてくるだろう。
 
(長くなったので次の記事に続く)

『帰去来殺人事件』山田風太郎

 

 

 新宿の商売女たちの堕胎などを手がける闇医者でありアル中。そんな山田風太郎の生み出したアクの強い名探偵、荊木歓喜を主人公とした短編8作が収録されている。
 五十年代の作品なので仕方ないが、大袈裟で芝居がかった台詞回しなどが鼻につく。そこに目をつぶればなかなか楽しめる短編集で、とにかく謎の発生から解決までやたらとテンポが良いのでサクサク読める。

 正直いって山田風太郎の物理トリックはあんまり印象に残らない。「西条家の通り魔」や「女狩」ではトリックの強引さが目立つし、さらにトリックのネタが被り気味の話まである。
 代わりに秀逸なのは犯人の動機、ホワイダニットの部分。「西条家─」での母性に潜む悪鬼、「女狩」での犯人による運命への呪詛、「お女郎村」の謎を生む合理主義の生み出すひねくれた論理など。どれも奇抜で、かつ身につまされるような生々しさもある。高木彬光など仲間たちと手掛けた連作短編中の一編である「怪盗七面相」にいたっては、犯人の動機には意外性とともにこの連作短編への皮肉な遊び心まである。世界の本質をえぐりだす眼力があり、それをエンタメに昇華するアイデアがある。
 この部分をさらに前面に押し出せば『夜よりほかに聴くものもなし』が生まれるのだろう。

 そんな中で、表題作「帰去来殺人事件」は間違いなくベストの出来。
 複雑なプロットに秀逸なアリバイトリック。そしてこれまでの作品を通して描かれてきた善と悪との曖昧な境界線が、名探偵と犯人の関係さえも侵食していく。そんな白黒で分けられない世界を体現した名探偵、荊木歓喜
 どう考えても荊木歓喜シリーズの総決算なのに、その後も平然とシリーズが続いていたというのもなんだかすごい。

『キマイラの新しい城』殊能将之

 

 それなりにページ数もあるし、とっつきにくいかと思いきや、面白くて1日で読んでしまった。
 これで殊能将之は『鏡の中は日曜日』と二作品を読んだことになる。

 ストーリーはタイムスリップSF +密室殺人。密室となった塔で死亡した中世の騎士、エドガー卿の亡霊が現代日本の社長に取り付いて自分の死の謎を名探偵に解いてもらおうとする、大胆なストーリーである。
 さらに現代でも密室殺人が起き、エドガー卿(がとりついた社長)に容疑がかかる。この二つの謎に、名探偵の石動戯作が挑むのだが・・・・。

 


 様々な分野にまたがる豊富な知識、さらにミステリへの深い考察を持ち、天才と呼ばれた殊能将之

 ネット上のレビューなどから、自分はこの作家のことをミステリのお約束をメタ的に扱いながら本格的なパズラーを書く人だとイメージしていた。他の作家でいうと、麻耶雄嵩が近いだろうか。

 実際に読んでみると、たしかにメタミステリの要素が強い。 
 しかし麻耶に比べると殊能将之の方がより遊び心が強く、読みやすい(少なくとも自分にとっては)。
 一方で麻耶と比べればこの『キマイラ─』は本格ミステリ部分が薄く感じたりする。
 麻耶がエラリー・クイーンばりに論理を重視して犯人を絞り込む様を見せ場にするのに対し、殊能の方はあまりそこを重視していないように見える(実際に作中で、登場人物が論理の不完全性と頼りなさについて言及する場面もある)。

 


 事件の真相は大胆過ぎてバカミスっぽいものだし、そのうえ中盤に至っては名探偵である石動の出番がほとんどなくなり、代わりに殺人事件の容疑者となったエドガーの冒険譚と、その騎士を追う刑事たちの話に移ってしまう。 
 とはいえ、この現代に蘇った騎士の冒険と、石動戯作のヤケクソのような推理劇が楽しい。
 偶然出会った青年の助けを借り、エドガーは千葉から東京までの道中をバイクで旅する。中世の騎士から見た日本の描写が愉快で、ついには思わぬ大立ち回りまで発生して密室殺人そっちのけで盛り上がる。
 一方で石動戯作は750年前の密室殺人に対しペダンティックでユニークな密室講義を繰り広げ、さらに密室つながりで意外な人物がジョン・ディクスン・カーへの激しい愛情を吐露する場面も微笑ましい。ついには周囲を巻き込んだ奇想天外な捜査劇へと発展する。
 これらのドタバタ劇は本当に楽しい。

 


 こうした中盤の大活劇から一転、後半では名探偵による謎の解明が待っているが、そこで殊能将之は一般のミステリ小説の世界からの<ジャンプ>を試みる。

 殊能将之はなにをしようとしたか。それは名探偵から特権を剥ぎ取り、破壊することだ。 
 なんせ本作には、いわゆる<名探偵による名推理>というものが一つも出てこない。事件が佳境を迎えた際、主人公の石動戯作は名探偵として(通常なら)ありえない行動をとってしまう。
 ようやく二番目の殺人事件について名探偵が披露する推理も、「AでなければBではないだろうか」という程度の確実性のない頼りないものでしかない。
 作中で名探偵の役割を与えられた人物であっても「論理的に考えてこれしかいない」という推理(本格ミステリではお決まりのもの)で真犯人を導き出すことができないし、そうしようともしない。

 そして最後には、名探偵という<頑固な現実主義者>であるがゆえに事実を見抜けないというオチまでがつく。
 こうして名探偵の特異性は、作者によって丁寧に破壊されてしまうのだ。
 名探偵が登場する推理小説としては歪んでいるが、これはむしろ作者がいかにミステリ好きであるかを示す証だろう。
 ミステリの面白さの裏も表も知り尽くした作者がこれを分解し、部品を自分好みに改造して再度組み上げた結果、ユニークでアナーキーな小説が誕生したという感じだ。
 では、殊能将之は名探偵というミステリの心臓を破壊し、それからどこへ向かおうとしたのか。

 

 

 Wikipediaによると殊能将之は2004年に『キマイラの新しい城』を発表後、2008年に短編を一本発表し、その後は沈黙期間に入る。そして2013年に突然この世を去った。
 もし、殊能将之が健在であったなら。
 石動戯作はその後どのような道を歩むのか。どんなミステリの挑戦を見せてくれたのか。残念なことに今となっては、その全貌を知ることは誰にもできない。
 ともあれ、まだ自分には傑作と名高い『美濃牛』と最大の問題作『黒い仏』が残されている。 

『さよならに反する現象』乙一

 

 

 とりあえず装丁が美しい。表紙に描かれた奇妙な図形たちが見る角度によって妖しく光って見せる。

 たぶん2016年から2020年まで、様々な雑誌に掲載された短編を集めた短編集(ただし、「怪談専門誌幽」に掲載された短編は、いつ掲載されたか表記されていない)。
 掲載誌の関係か、全体的にホラー系統の作品が多い。

 

「そしてクマになる」
 リストラされた父親が家族に内緒でクマの着ぐるみのアルバイトを始め、やがて本当のクマになろうとする。乙一版「山月記」ともいえる(?)作品。
 ラストは一応ハッピーエンドだが、ちょっと不穏に感じる終わり方でもあった。最初に妻と息子が男といっしょにいるのを目撃した時、あれは本当に白昼夢だったのか。そこに一度疑いを持つと、あまりに物わかりの良い妻も嘘臭く感じられる。
 終盤、風船が木に引っかかっているのを主人公が発見する。これは主人公が四足で走り出した時に手放した風船だが、では主人公がクマのように走り回ったのは本当の出来事なのか。すると周囲の人たちの反応がなさすぎる(着ぐるみのクマが走り回るのに騒いだり注目する様子がまるでない)のも気になる。一体、白昼夢はどちらなのか。というかそういうひねった作品なのか。単に愛情が勝利したというラストだと解釈すれば良いのか。
 意外と奥深い作品なのかもしれない。


「なごみ探偵おそ松さん・リターンズ」
 これは非常にイマイチ。元ネタになったアニメを知らないとあんまり楽しめないと思う。
 乙一の理性的でテンション低めの文章とドタバタ喜劇の展開があっていない。乙一にはこういうのよりもオフビートな脱力系のユーモアが似合う。
 「部屋の鍵が凍った池の下に沈んでいる」という密室ネタは魅力的だが、あっさり種明かしされてしまうのでこれもイマイチ。
 ラストにはアンチミステリを意識したような展開で少し面白くなるが、振り切っていないのでミステリとしての弱さはいなめない。


「事件を解決するよりも大事なこと、それは、みんなが笑顔でいることなんだなと気付かされる」


 という主人公の述懐は面白かった。これはラストの伏線にもなっている。


「家政婦」
 この短編から乙一の本領発揮。
 主人公の家政婦が赴任した屋敷には、眉目秀麗な小説家とその息子、そして幽霊がいた。
 <近所で死んだ者たちの、魂の通り道になっている屋敷>という設定がユニークで、後のミステリ部分や真相の伏線となっている。
 心霊が身近にいる奇妙な生活の描写から、誘拐被害者の霊の出現によって事件に巻き込まれる展開がスムーズで秀逸。
 主人公の家政婦は、事あるごとに周囲の男たちとの恋愛や玉の輿に乗るのを妄想しているような人物で、この俗っぽさが物語にユーモアを与えている。こういうキャラは昔の乙一作品でもよく見られた。

 また、この作品は文章が素晴らしい。端正で過不足なく、どことなく体温が低い。「なごみ探偵ー」ではミスマッチだった文章のテンションが、この作品ではマッチしている。
 そしてラストの一文がなかなか怖い。死を目前にした人間と幽霊との間には境目など存在しないのかもしれない。


「フィルム」
 星野源の楽曲を元にした掌編。
 乙一の描く「コミュ障で人生うまくいっていない人」はいつだって素敵だ。
 未来を映すフィルムと、幼馴染の少女。
 短い中で起承転結がしっかりしている好編である。少女とのやりとりを通し、徐々に主人公の境遇が明らかになっていく。そしてラストには、穏やかな希望が残される。
 ダメな自分の今の境遇が、未来の誰かのためになる。そういった希望のあり方が素晴らしい。


「悠川さんは写りたい」
 心霊写真を作るのが趣味である男が、交通事故で地縛霊となった女に取り憑かれる。
 この幽霊(写真に写ることができない)のために心霊写真をでっちあげ、浮気していた元恋人に復讐して恨みをはらしてあげようとする話。
 この女幽霊があざといけど可愛らしい。特に「あはー」という笑い方があざといのだが、こういった要素がないと境遇が不憫で物語が重くなりすぎるので、結果的にちょうど良い塩梅になっている。

 そんな幽霊が取り憑いた相手は、就職にうまくいかず、心霊写真を偽造して投稿するのが生きがいの冴えない男。そんな男が明るい幽霊に振り回される。
 幽霊と一緒に服を買ったりカフェに入ったり、ほとんどデートのような場面も楽しい。
 中でも幽霊に教えてもらいながら肉じゃがを作る場面が仄かな温かみを感じさせて良い。


「味付けは、悠川家のものですけどね」

 

 とはいえこの主人公、冴えないふりして実は大学に慕ってくれる女の子がいると後で発覚し、ちょっと裏切られた気分になるのだが。

 死んだ家族たちと幽霊ならではの再会を果たし、心温まる話で終わりそうなところを最後の最後に意外なオチが待っている。
 想像の余地を残すラストは、幽霊が本当のところでは人間の理解を超えた別世界の存在であることを感じさせる。


 本書をホラー系の短編集だからと、ドス黒い作品が多いかと予想しているとそういう作品は意外とない。

 むしろ「フィルム」や「悠川さんは写りたい」には、過去の「しあわせは子猫のかたち」や「手を握る泥棒の話」のような、いわゆる<白乙一>と同じエッセンスが感じられるほどだ。

 ホラーといっても、乙一の作品の根底には人間への優しさと肯定がある。
 それでも、結末ではきっちりと恐怖を残す。乙一らしさとホラーのツボを両立させた、良い短編集だった。