読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日曜日には鼠を殺せ

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

笑ってはいけない超特急 『バルカン超特急』(アルフレッド・ヒッチコック/1938)

 

バルカン超特急 [DVD] FRT-035

バルカン超特急 [DVD] FRT-035

 

 

 

アルフレッド・ヒッチコック、いわずとしれたサスペンス映画の帝王。今なお幾多の映画監督に影響を与える、映画史に残る大巨匠である。『バルカン超特急』はヒッチコックのイギリス時代の作品で、これと『巌窟の野獣』を撮ったあと、デヴィッド・O・セルズニックに招かれたヒッチコックはハリウッドに乗り込んだ。

そんな時期の作品なので、さぞかしヒッチコックも気合を入れて撮ったと思いきや‥‥‥。

 

避暑地バルカンからイギリスへ向かう列車が発車しようとしている。そこには民族音楽を研究している伊達男、イギリス人紳士の二人組、不倫中の弁護士カップルなど、さまざまな人たちが休暇を終えて日常に戻ろうとしていた。

アイリス(マーガレット・ロックウッド)もその一人である。友だちと休暇を楽しんだ彼女はイギリスに戻ったら、ろくに会ったこともない婚約者と結婚する予定だった。

駅のホームで友だちと別れを惜しむアイリス。そのとき、頭上から植木鉢が落下してきて、彼女の頭部を直撃した。

突然の衝撃にフラフラになりながらも、なんとか列車に乗りこんだアイリスを助けたのは、親切な老婦人のフロイ(デイム・メイ・ウィッティ)だった。

同じコンパートメントで隣同士に座ったフロイはせっせとアイリスを手当てし、何かと気遣ってくれる。アイリスはそういったフロイの優しさに好意を抱き始めた。

歩けるくらいに回復したアイリスは、フロイを誘って食堂車でおしゃべりを楽しむ。すっかり打ち解けた二人だったが、やがてアイリスは急な眠気に襲われ、コンパートメントに戻ることになる。

「ゆっくりおやすみ。寝たら良くなるから」

隣からフロイが優しく語りかけてくれる。安心したアイリスはやがて眠りにおちた。

 

目をさますと、隣の席は空になっていた。

すっかり良くなったアイリスは、お礼を言おうとフロイを探しに列車を歩き回るが、見つからない。

それどころか、誰もが列車に乗ってからフロイを見ていないと言う。食堂車で会ったイギリス人二人組も、女連れの弁護士も、アイリスが一人でいるのは見たが、婦人は見ていないと証言する。

混乱するアイリスに、話を聞いていた乗客が話しかける。自分は医者だが、ひょっとしたらあなたは最近、頭に何か強い衝撃を受けたことがあるのでは?それが原因で、あなたの記憶に障害が起きているのかもしれない。フロイという女性は実在しない、あなたの妄想かもしれない‥‥‥。

アイリスは何もわからなくなってしまう。フロイはどこへ消えたのか?何かの事件に巻き込まれたのか?それとも、全ては自分のみた白昼夢にすぎなかったのか‥‥‥?

 

今作はシチュエーションが非常に魅力的である。完全な密室となった走行中の列車、そこから人が消失する謎、そこに全てが主人公の夢だったのではないかというサスペンスが加わる。今作の設定やアイデアをかなりパクった『フライト・プラン』はもちろん、このアイデアが後続に与えた影響はかなりのものだろう。

 

しかし、これだけのトリックを実現させるにはかなりの大技が必要となる。この点に関しては元祖である今作でさえ、偶然に頼りすぎてあまりうまくいっているとは言えないだろう。

イギリス人紳士の二人や不倫カップルが「老女を見てない」と証言したのは偶然にすぎないし、そもそもなぜ犯人は列車の中で老女を行方不明にしなければならないのか。前日のホテルで殺害した方がはるかに簡単で安全だっただろう。

 

それでも要所でヒッチコックのサスペンスの腕前はいかんなく発揮されている。窓ガラスの文字に気づく一瞬、黒幕が判明するタイミングなどは観ていてハッとさせられるし、犯人が主人公たちに睡眠薬入りの酒を飲ませようとする、ありきたりなシーンでもヒッチコックの手にかかれば本当にハラハラさせられる。

 

ヒッチコックという人は全体の整合性や多少の矛盾よりも、一瞬のアイデア、そのサスペンスをどう映画で表現するかを優先する作家なのだろう。『サイコ』のような、骨組みまでしっかりした作品の方が特別なのかもしれない。

 

今作でも列車から婦人が消えたというシチュエーションもマクガフィン=口実にすぎず、話の整合性といったものは問題にしていないのだろう。ただ、そういった無関心が映画の緊張感をいくらか削いでしまっているのはいなめない。

 

というより、今作の奇妙な点は前半から後半にかけて雰囲気がゆるくなっていくところにある。

前半をギャグを挟みながら、後半にかけてサスペンスが増していくという映画はいくらでもあるだろう。ヒッチコックの他作品、『知りすぎた男』や『裏窓』も良質なサスペンスでありながら、クスリと笑わせるようなシーンもあった。『バルカン超特急』でも序盤は笑わせるようなシーンが多く、婦人が失踪してからはアイリスの錯乱もあり、緊張感が増していく。しかしアイリスが列車を緊急停止させたあたりでサスペンスが最高潮に達したのち、徐々に映画はゆるい空気になっていくのだ。

 

その原因はユーモアなシーンの量にある。

いや、ユーモアというよりもギャグといった方が正しいかもしれない。とにかくくだらないものからナニまで、ギャグシーンが非常に目立つ。

おもしろいのがイギリス人紳士の二人組。傲慢で、いつもクリケットの試合結果ばかり気にしている二人だが、いつもゴーマンな振る舞いをするたびに周囲に軽くあしらわれ、情けない目にあう。映画の序盤、二人がホテルに泊まりに来たときも、上等の部屋に泊めろと詰め寄るのだが、結果的にメイドの控え室に使われているような狭い部屋に通される。真面目くさった顔した二人がぶつくさ文句を言いながら、ホテルでパジャマの上下を分け合って寝ているシーンはかなりおかしい。

 

もう一つお気に入りなのは婦人が救出されるシーン。主人公と一緒に婦人を探していたマイケル・レッドグレーヴが列車の奥の扉を開けると、そこには主人公が眠らないようにと、黙々と体操をしている‥‥‥。このシーンのおかしさは実際に見てもらわないと伝わらないかもしれない。

 

 

他にも手品師とのドタバタの格闘シーンがあり、のんきにホームズの仮装をした男女がいちゃついたり、前半の緊張感とは打って変わって、映画はユーモラスな空気が増していく。

淀川長治さんの話によると、ヒッチコックはオヤジギャグも好きだったようで、こういったギャグシーンもかなりノリノリで撮ってたのかもしれない。

 

終盤はもっとすごくなっていく。主人公たちは婦人の奪還に成功するが、そのうち列車は規定のコースをはずれて深い森へと入ってしまう。森の中では黒幕のスパイたちが大勢待ち構えていて、列車に向かって銃弾を浴びせてくる。

絶体絶命のピンチに、主人公たちも銃を手に取り銃撃戦が始まるのだが、この銃撃戦が妙にテンションが低くてのほほんとしている。

 

「射撃は得意じゃないんだけどなあ」とぼやきながらイギリス人が射った弾で、敵のスパイたちがバタバタと倒れていく様はもはやシュールな趣さえある。絶体絶命の場面なのに、本当にサスペンスの巨匠が撮ったのかと思うくらい、緊迫感が皆無なのだ。これだけ盛り上がらない銃撃戦は他に無いのではないだろうか。むしろクセになってくる出来栄えである。そして銃撃戦の間にも、細かいギャグがつるべ打ちされる。もはやコメディ映画の領域に突っ込んでいる。

 

もちろんヒッチコックは意図的にやっているし、これはこれでおもしろいのだが、中盤のサスペンスとの落差に観ていてとまどってしまうのも事実である。本当に銃撃戦のあたりから別の映画のようになっている。

ヒッチコックはあまり本数を観てないが、他にもこういう作品はあるのだろうか。それとも『バルカン超特急』だけ特別なのか。自分の勉強不足を恥じながら、ヒッチコックについてますます興味が湧いてくる。

 

二大スターの奇妙な対決 『太平洋の地獄』(1968 ジョン・ブアマン)

 

太平洋の地獄 [DVD]

太平洋の地獄 [DVD]

 

 

 

ジョン・ブアマンの『太平洋の地獄』を観た。あの有名なラストシーンについては知っていたので身構えていたが、思っていたよりも素直に楽しめた。

 

第二次世界大戦末期、零戦に撃墜されたアメリカ空軍の飛行機乗り、リー・マーヴィンは太平洋のある無人島に流れ着く。仲間が助けに来るまで島でサバイバルしなければならないマーヴィンだが、その島には日本軍の生き残り、三船敏郎が生活していた。

こうして出会ってしまった二人の、小さな島での小さな戦争が始まる‥‥‥。

 

この映画の登場人物はリー・マーヴィン三船敏郎のみ。それ以外の俳優は一切出てこない。

圧巻は二人が浜辺で初めて対決するシーン。手にナイフと棒切れを持って向かって来るマーヴィンに対し、三船は木刀を持って対峙する。鋭い目で相手を射抜き、重心を落として木刀を下段にビシッと構えた立ち姿は見るからに決まっていて、圧倒的な強さが感じられる。

 

190センチを超えるマーヴィンの頑強な肉体と向き合うとき、問題となるのは並みの日本人ではつり合いがとれないことである。両者のあいだではケンカさえ起こらないだろう。

それを三船は木刀を持った立ち姿だけで軽々とクリアしてのけた。この1シーンのみで、マーヴィンの肉体とつり合うだけの強さを、観客で一瞬に理解させたのである。この強さに説得力があるからこそ、体格差を問題にせず、二人は対等の存在としてぶつかり合える。他の日本人ではなく、三船敏郎だからできた芸当である。

本作の三船は大熱演。ジャングルを走り回り、敵の米兵に怒り狂う姿の苛烈さ、ところどころでみせる愛嬌など魅力たっぷり。

 

と同時に、このシーンは当時の「世界のミフネ」が、文字どおり世界のスターであったことを物語っている。外国人スタッフに囲まれた中でも、日本の時と変わらない三船敏郎の演技ができたのは、それだけ周囲のリスペクトがあったからだろう。

 

リー・マーヴィンは何と言ってもその巨体、顔、そして低く唸るようなしゃべり方が圧倒的な存在感をもたらす。

ところで本作を観て思ったのだが、マーヴィンの走っている姿は意外と鈍臭く見える。あの必要以上にひょろ長い手足のせいだろうか。『ポイント・ブランク』で見せた、標的を見据えてどんな障害でもふみつぶしていくような、強烈な歩く姿に対して、本作の走るマーヴィンの姿はなにかギャップ萌えのようなものさえ感じる。

 

もうひとつ、本作を観ていてふと思ったことがある。本国アメリカではリー・マーヴィンはどんな存在だったのだろう。

自分の知っているマーヴィンといえば『復讐は俺に任せろ』や『リバティ・バランスを射った男』の粗野で乱暴な悪役、『ポイント・ブランク』や『殺人者たち』のブラックスーツで身を固め、顔色一つ変えずに人を射つ殺し屋、『特攻大作戦』や『最前線物語』の頼れる鬼軍曹など、演じた役のほとんどに暴力がつきまとう、「B級映画スター」の称号がもっとも似合う俳優の一人、それがリー・マーヴィンであった。

しかし、もしかしたらアメリカではこの人を評価する別の文脈があるのではないか、ふとそんなことを思った。

たとえば本作の監督をつとめたジョン・ブアマンはイギリスのテレビ監督出身だったが、それをアメリカに招いたのがマーヴィンだったらしい。このことはマーヴィンの B級俳優のイメージとはだいぶ異なるエピソードではないだろうか。

他にもジョン・フランケンハイマーユージン・オニールの戯曲『氷人来たる』を映画化したとき、舞台版でジェイソン・ロバーズが演じた主人公を、映画ではリー・マーヴィンが演じている。自分はこの作品を見ていないのではっきりしたことはわからないが、マーヴィンがただのアクション映画のスターと見なされていたなら、こういった文芸作品に出演することはなかったのではないか。

このように、当時のアメリカでのマーヴィンは単なるギャング映画や戦争映画のスターとしてではなく、卓越した演技力を備えたひとりの役者として評価されていたように思える。

 

『太平洋の地獄』に話を戻す。

浜辺でのファーストコンタクトから、観客は二人の対決がどれだけ激しいものになるかと、先の展開に期待することになる。

ところが、この映画は観客の期待をたやすく裏切る。これだけの重量級スターの二人を揃えたのに、この後の二人の対決はすごく地味なものとなっている。じりじりした持久戦の繰り返しで、三船がジャングルに火をつけて相手をいぶり出そうとしたり、マーヴィンは水筒をガンガン殴る音で三船を錯乱させようとしたり、なかなか直接対決にはいたらない。

ついにはマーヴィンが三船にションベンをひっかけてみたり、子どものケンカのような攻防に脱力感さえ覚える。

 

 

そういった戦いを続けているうちに、いくら待っても助けは来ないし、こんな無人島で殺し合いするのが馬鹿らしくなった二人は休戦状態となる。といっても食料も水もなんとかなるし、やることもないので二人とも浜辺でダラダラしてすごすしかない。しかも二人とも相手の言葉がわからず(わかろうともしない)、大げさなボディ・ランゲージでなんとなく相手の言うことを理解している状態。三船やマーヴィンのようないい歳した大人が、バタバタ動いてコミュニケーションをとろうとしている。はたから見ていると間抜けに見える。

 

このあたりから二人の関係はより子どもっぽく、情けなくなっていっておもしろい。

あまりにも退屈なのか、マーヴィンはヤドカリを捕まえて遊んでいる。一方で三船は真剣な様子で浜辺に枯山水のような模様をつくっている。そこへマーヴィンがのそのそとやって来て、模様の端っこを踏んでぐしゃぐしゃにする。「コラーッ」と三船に怒られて、またのそのそと逃げていく。

また別の日、三船はバスケットボールくらいはある、でかい貝を捕まえて、マーヴィンに見つからないようコソコソと食べようとしている。なにがおかしいって、このときの三船はわざわざほっかむりした、まるで泥棒のような姿になっている。見るからに怪しい。そこをマーヴィンに見つかり、貝をめぐって追いかけっこが始まる。「これはおれが見つけたんだぞ!」なんて言って大の大人が貝を取り合っている様子はこれまたおかしい。

子どものケンカみたいなアホらしいやりとりだが、それをマーヴィンや三船のような強面の大人が大真面目にやっているのである。ここらへんのシーンは前半と打って変わってユーモラスで、見ていておもしろかった。

 

やがて、二人は筏をつくって島から脱出することを決意する。島に自生している竹を切り出し(ここでラロ・シフリンの音楽がいい仕事をする)筏をつくろうとするが、ここでも二人のケンカは絶えない。筏のつくり方でもめて、自分たちの母国語で喚き合う。

 

それでも協力し合っているうちに、二人の間に信頼関係のようなものが芽生える。それが顕著に表れるのは三船がナイフを研ぐシーンである。夜の浜辺で三船が集中してナイフを研いでいる。そのナイフはもともとマーヴィンの持ち物で、筏をつくっているあいだに、いつのまにか三船の手に渡っていたのだ。

そのことに改めて気づいたマーヴィンの顔に、さっと緊張の色が走る。今は協力し合っているが、三船とはかつて殺し合っていた関係であり、敵国の兵士である。しかも自分の唯一の武器は相手に奪われている。

 

やがて三船はナイフを研ぎ終わり、警戒するマーヴィンに向かって歩いて来る。そして自分が丁寧に磨いたナイフを黙ってマーヴィンに渡すのだ。この瞬間から、マーヴィンの三船を見る目が変わってくる。些細なシーンだが、二人の友情めいたものが垣間見える、いいシーンだった。

やがて筏は完成し、ついに島から脱出する日がやってくる。

 

過酷な漂流の末、ついに別の島に流れ着いた二人。島には少し前まで人がいた形跡が残っていた。

島の廃墟から酒を見つけた二人は久しぶりにヒゲを剃り、焚き火のそばで仲良く茶碗酒を酌み交わす。無人島のときとは違う、穏やかな雰囲気が二人の間に漂うが、そこで三船があるものを発見したことで、また険悪な空気が流れる。そして‥‥‥。

 

有名な「あのラスト」だが、まじめに観ていた観客は、ただ唖然とするか、笑うしかなかっただろう。とにかく戦争へのアイロニーとか虚しさとか、戦いを経て築いた二人の友情とか、そういったものを文字通りぶっとばす、あまりにそっけないラストだった。

なにか狐につままれたような気分で、ああやっぱりジョン・ブアマンは一筋縄ではいかないと納得しながらも、唖然としているしかなかった。

 

 

 

安達としまむら(7) 入間人間

 

 

『いもーとらいふ』を読んだときにも思ったが、入間人間は働くことを実に嫌そうに書く。学生から社会人になり、これから何十年も同じ職場で働かなければならないことへの違和感、または会社に行くまでの、1日の始まりなのに体から抜けない疲労感、こういった社会人の乾いた生活を生々しく書けるのに、作者自身は社会人経験がないらしい。なんとなくずるい気がする。

 

安達としまむら』もついに7巻目。前巻で安達の誤爆気味の告白により、ついに「彼女と彼女」の関係になった二人。今作では付き合い出した二人の初々しいイチャイチャが描かれる。

 

念願叶ってしまむらと特別な関係になり、安達の赤面率は大幅アップ。告白を思い出してベッドを転げまわったり、辞書で「付き合う」の意味を調べてじたばたしたり、しまむらと一緒に登校し、ドキドキしすぎて顔から湯気を出してみたり、初期のクールさは見る影もない。

が、それ以上に際立つのはしまむらの人たらしっぷりで、特に電話を盗み聞きしようとする安達を黙らせるためにやった「あれ」にはびっくり、しかも2回目では見事な焦らしプレイまで披露し、安達以上にお付き合いを楽しんでいるように見える。

二人のいちゃつきは「恋人どうし」のそれというより、「犬と飼い主」のじゃれあいというのがしっくりくるかもしれない(もちろん安達が犬)。たとえ犬扱いでも安達なら特別な関係になれたと喜ぶかもしれないが。

 

二人の交際は順調にいっているように見えるが、どこかに暗い影を落としている。

安達はこれまで以上にしまむらからの絶対的な愛情を求める。しまむらが他の友だちと話しているのを見ただけで激しい嫉妬を向けるし、それを隠そうともしないようになる。

親を含め、他人から愛された経験のない安達は、初めて得た愛情に全力で突き進む。ぎこちなく、つんのめりそうになりながらも、自らの幸福に向かって走ることをやめようとはしない。そのことで他の大切なものがそぎ落ち、失われることになっても、安達はしまむらからの愛情の価値を固く信じている。そのために何を犠牲にしても、ひるむことがない。

 

しまむらは自身が安達の一途さに惹かれていることを自覚しつつも、安達に付き合うことで失っていくものを意識せざるを得ない。せっかく友情が復活した樽見も、自分の唯一の安らぎである睡眠さえも、安達のために手放さなければならない。

そして、しまむらは安達ほど愛に飢えてはいないし、他者を捨て去ることができない。

こうした二人の愛情のズレが次巻から波乱を起こすかもしれない。その予感が二人の関係に暗いものをもたらしている。

 

                ○

 

本書には番外編として、三つの小話が挿話されている。三つとも安達としまむらが高校で出会わなかったパラレルワールドを舞台としている。

番外編のテーマとなるのは人と人が巡り会う「運命」についてである。もし体育館で二人が出会わなくても、運命に導かれるように、何らかの形で巡り会う。朝の通勤時間の地下鉄で、または世界の終わる夜、小さな旅の道連れとして、もしくは宇宙人と地球人の立場であっても、何かに導かれたかのように二人は必ず出会う。

 

それは素敵なことではあるが、では運命に選ばれなかった人間(たとえば樽見のような)はどのような思いを抱え、人生を送るのか。それを描いたのが同じ作者の『少女妄想中。』である。

 

『マリアンヌ』

ロバート・ゼメキスの『マリアンヌ』は「映画を見た」という余韻にたっぷりと浸らせてくれる良作だった。

 

1942年、第二次世界大戦の最中に二人のスパイが恋に落ち、結婚して幸せな家庭を築いている。幸福の絶頂のなか、妻にドイツのスパイ容疑がかかる。妻の無実を証明するため、男はたった一人で調査を始める。

 

これまで人生は順調、奥さんは美人で子どもは可愛くて、仕事もうまくいっている中、突然自分の妻が敵のスパイかもしれないと疑いをかけられる。その瞬間、愛すべき妻の全てが疑わしく思えてくる。スパイであることが証明されれば、自らの手で処刑しなくてはならない。夫のブラピは妻の無実を証明するために孤軍奮闘することとなる。

 

主演の二人が好演で、ブラピはガタイが良くて軍服がよく似合うし、マリオン・コティヤールも美しい。

全編にわたって緊張感が持続する。特に終盤のピアノのシーンや、宝石商の店に乗り込む夫を妻が車中で見守るシーン。ブラピやマリオン・コティヤールの浮かべる表情のひとつひとつがサスペンスを高めていく。

 

妻がドイツのスパイなのか?ブラッド・ピットの妻への疑いへのサスペンスや葛藤が一番の見どころだが、意外にもアクションシーンも見応えがある。なんといってもステン・ガンである。ステン・ガンは当時のレジスタンスたちが愛用した、丸い鉄パイプのような外見の質素で小さなサブマシンガンで、とにかく性能は二の次で製造しやすさを優先させられた銃である。この安っぽい銃をブラピは作中にわたって使いこなし、それが無性にかっこいい。最近の映画で、これだけステン・ガンが活躍したものはないだろう(多分)。個人的にはこれだけで十分に映画代の元は取れた。

 

 

最後に二人がある決断を下したあと、妻が子どもへ残した手紙が読み上げられる。劇場ではこのシーンで泣いている人もいたが、自分はちょっとくどすぎるかなと考えるぐらいで、ここでは心を動かさなかった。そう思っていると、次の場面で自分でも思っていなかった形で涙腺を刺激された。

それは牧場の緑の中で、成長し何年分かの歳をとった二人が立っている後ろ姿を映した、数秒程度のごく短いショットである。そのなんのてらいもない、単純な後ろ姿に不意に心を突かれた。

どうしてその後ろ姿に感動させられたか。それはその後ろ姿が、映画では描かれなかった、ある欠損を抱えながらも続けられた男の人生を想像させたからだろう。それはかけがえのない大切なものを失っても、それでも人生を続けた人間の姿であった。たとえどれほどの打撃を被っても、生きることをあきらめない、人生を続けなければならない。どういうわけだか、そういった生きることへの肯定のようなものが、不意に自分の涙腺を刺激し、涙が流れる前にあわてて席を立つ羽目になったのだった。

 

 

『ブルベイカー』と吹き替え

先日、テレビで『ブルベイカー』というロバート・レッドフォードの古い映画をやっていた。途中から見たが、なかなかおもしろかった。

 

リンチ、賄賂、殺人のまかり通る刑務所を改善するためレッドフォードが赴任してくる。理想と正義に燃えるレッドフォードは囚人たちと生活を送るうちに少しずつ信頼を勝ち取り、刑務所を良いものへと導いていく。しかし、それを快く思わない奴らがいて………という内容だが、おもしろかったのはレッドフォードの囚人たちへの態度である。お前らはゲスな犯罪者たちだし、脱走すれば射つ。犯した罪を許すわけではいし、馴れ合いをする気もない。その代わり、囚人でも人間として扱うし、刑務所の秩序を大切にする。不当な暴力は許さない。

 

ひどい扱いをされているからひねくれてしまっただけで、きちんと心から向き合えば囚人ともわかりあえる」といったわかりやすいヒューマンドラマのような展開にならない。レッドフォードの囚人への態度は毅然としている。本作が公開されたのは1980年だが、ストーリーにも、映像にも70年代の乾いた空気が漂っていて、今見るとそれが清々しい。

 

登場する人間たちも一筋縄ではいかない。例えばある囚人たちは刑務所の改善を目指すレッドフォードに協力するふりをしながら、刑務所とグルになって利益を得ているし、しかも自分たちの犯罪の証拠を隠蔽しようとする。

 

味方であるはずの州知事側も、事なかれ主義を決め込んでレッドフォードの訴えを黙殺し、刑務所長の任まで解こうとする。味方を失ったレッドフォードは、それでも刑務所の大量殺人の証拠を掴み、世間に告発しようとするが………

 

この映画のハイライトはラストにある。レッドフォードは最後まで自分の正義を信じて行動するが、ついに大きな権力に破れ、刑務所を去らなければならなくなる。既に新しい所長が赴任しており、これまで自分が行った刑務所の改善策は撤回されようとしている。失意の中、刑務所を出て行こうとするレッドフォード。そのとき囚人の一人がレッドフォードへ歩み寄り、意外な言葉を伝える。そこから囚人は、レッドフォードへ最後の「贈り物」をする。このラストシーンはちょっと観客にサービスしすぎのような気もするが、レッドフォードの行動は無意味ではなかったことを感じさせ、非常に後味良く映画は終わる。

 

映画自体も楽しめたが、それとは別に気になった点があった。今回は日本語吹き替え版の放送で、レッドフォードに声を当てていたのは野沢那智だったのだが、これがすこぶるかっこいい。自分にとってレッドフォードの吹き替えといえば磯部勉だったが、野沢那智のレッドフォードはより男臭く、押し出しも効いていて、それがこの映画には合っている。

 

野沢那智は『ダイ・ハード』のマクレーン刑事、あのクセの強い、事あるごとに呻いている演技の印象が強いが、今回は打って変わってスマートでかっこいい。これほどレッドフォードと相性がいいとは思っていなかった。

 

とくに刑務所の隠蔽に加担しながら、左遷されるレッドフォードに同情を寄せようとする女を「ウソをつけ!無理をするな」とつっ放すシーンは無性にかっこいい。その毅然とした演技が、レッドフォードによく合っている。

 

しかも当時のレッドフォード自身がむちゃくちゃかっこいいので、かっこよさの相乗効果でむしろトゥー・マッチな感じさえしてくる。おかげでレッドフォードがどれだけ窮地に陥っても、あまり悲壮感が湧いてこない。見てる方もこいつなら大丈夫、どんな危機でも乗り越えられる、なんて気になってくる。映画自身の魅力を損なっている面もあるかもしれないが、今回はその過剰なかっこよさがすごく楽しい。

 

基本的に映画は字幕で見る派だが、改めて吹き替えのおもしろさを再確認した。こういう「めっけもん」があるからテレビの映画放送もバカにならない。

 

 

 

祝日のピンク

 12月23日の朝、起きた瞬間に京都へ行こう、それでピンク映画を観ようと思い立った。とにかく今年のうちにピンクを一本観ておこう、そうしなければならない。前触れも脈絡もない強い思いに突き動かされ、阪急電車に飛び乗った。

 しかし電車に揺られている間に硬かったはずの決意がポロポロと崩れ出し、心細くなってきた。そもそも高い金を払って時間をかけてまで観に行くようなものなのか、しかも天皇誕生日にピンク映画なんて時代が時代なら不敬罪じゃないか。くだらないことでうんうん悩みながら、結局京都に着いてしまったらもう行くしかない。なにせ他にやることもないのだから。

 観光地からはずれたところにある映画館に入ると、古い建物の匂いがした。おじさんがテレビ(韓国ドラマだった)を観ながら店番(?)していた。愛想の良いおじさんから券を買って、シアターへ入ると、午前中でも何人かの先客がいた。自分も手ごろな席に座って、スクリーンを見る。 

 この映画館には前にも一回きたことがあるが、お客さんのマナーがいい。禁煙を無視してタバコを吸っているおっさんや、映画をみながら口喧嘩を始めだすおっさんもいない。ずいぶん平和である。みんなが映画に集中している。

 それはそれで映画館としては望ましいのかもしれないが、どうにも落ち着かない。普通の映画館なら気にならなかっただろうが、なんせピンク映画なのだ。女を押し倒して「奥さん、ここがいいんだろう」みたいなシーンを20人そこらがじーっと観ているという、その姿は滑稽というか、なにかとんちんかんな感じがする。一回そんなことを考え出すと、どうしても映画に集中できない。

 そもそも映画自体があまり面白くない、ハズレの回だった。まじめに観るならバカバカしく、コメディとして観るならバカが足らない。三本立てだったが、三本目の途中で帰ることにした。映画館を出る瞬間、こんなはずじゃなかったという思いが頭の中をぐるぐる回った。

 映画館の外は雨が降っていた。冷たい雨の中を歩くのは、残された気力を打ち砕くのに十分すぎるほどだった。せっかくの祝日に何をしにいったのか、ますますわからない。こんなはずではなかった。ではどうなって欲しかったのか?そんなこともわからない。

 この文章も、どうやって締めくくったらいいのかわからない。

「闇の歯車」(藤沢周平)を読み、深い虚無の世界に浸る

  藤沢周平の小説を初めて読んだのは中学生のときで、本は「隠し剣秋風抄」だったと思う。

 

新装版 闇の歯車 (講談社文庫)

新装版 闇の歯車 (講談社文庫)

 

 

続きを読む