陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『誇り高き挑戦』 深作欣二

 

 

誇り高き挑戦 [DVD]

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 火山をバックにしたニュー東映のロゴが出て、すぐさまファンクの力強いシャウトに機動隊とデモ隊の白黒写真が画面いっぱいに広がる。無闇なエネルギーにオープニングから映画の世界にガツンと引きずり込まれる。

 

 終戦後の日本、業界新聞の記者・黒木(鶴田浩二)はかつて大手新聞社の敏腕記者だったが、今では社員が四人しかいないような会社に勤め、すっぱ抜いたネタを元に会社から金をせびるまでに落ちぶれていた。今日も三原産業という会社を脅しに行った黒木は工場から走り去った車に乗っていた男を見て表情を一変させる。その男・高山(丹波哲郎)は戦争中に日本軍の特務機関員として暗躍していた男であり、黒木とは因縁の相手であった。

黒木は戦争中のリターンマッチだと高山について調査を始める。執念の調査はやがて高山との対面へと結びついた。高山は今では武器ブローカーとして、様々な国へと武器を横流ししていた。戦争中に犯した罪も忘れ、闇社会での金儲けに励む高山に対し、黒木は力強くタンカを切る。

「お前の泣きっ面が見たくなったぜ」

 高山の犯罪を告発するため、黒木の執念の調査が続くが、調査に協力していた弘美(中原ひとみ)にまで高山の魔の手は迫り‥‥‥。

 

 戦争前の古い時代を鶴田が、戦後の新しい時代を丹波が象徴している。この二人の対比は鮮烈だ。

 丹波哲郎は戦争中に特務機関員として働いていて、敗戦後はGHQの協力者に寝返った男だ。時代によって自由に主義主張を入れ替えて生き残ってきた。そして今は国際的な犯罪組織で武器のブローカーをやっている。

 モダンな大胆さと爬虫類的な冷たさを持つ丹波の悪役は魅力的だ。敗戦の悲愁とは無縁の大胆さ。それに散々利用してきた女を電話一本で殺してしまうような冷酷さが際立っている。

 

 対する鶴田はいつもの着流しではなく、黒のトレンチコートにサングラス姿の現代的な佇まいで、これも悪くない。

 鶴田のサングラスはただのコスチュームではない。戦中に一人の女性の死について調査している時、丹波に痛ぶられた目の傷を隠すためのもので、鶴田の戦中へのこだわりを表すアイテムだ。

 

 鶴田が今も戦中に執着しているのに対し、丹波は戦後の時代を歓迎している。

「戦後、この国に根性なんてなかった」

 植民地も悪くない。ようは儲ければいいんだと、丹波は戦後の日本を受け入れ、したたかに生き残ろうとする。

 鶴田は丹波のような生き方を受け入れることができない。時代が変わったから、日本が負けたから、それまでの罪が消える訳ではない。鶴田は丹波の拳銃の密輸入を追求する。

 

 鶴田は丹波の犯罪について記事を書き、原稿を古巣の新聞社に持ち込むが、編集長たちは受け取ろうとしない。

 今の日本でこんなことを記事にしようとしても無理がある。今は耐えるときだ。そうすればいつか状況は良くなる。そんな編集長たちのおためごかしに鶴田は激昂する。

「あんたたちは戦争中と何も変わっていない」

「あんたらの力じゃ、世の中はびくともしない」

 鶴田は編集長を、新聞社のあり方を激しく罵る。戦争中は軍への忖度にまみれた記事を書いていたのに、いざ敗戦すれば戦争の責任を過去に押し付けて涼しい顔をしている。そんな新聞社と犯罪者の丹波がどう違うのか。

 

 戦中と戦後で、時代は大きく変わってしまった。戦争の間に犯してきた罪から、丹波のような人間は大した反省もなく立ち直ろうとしている。それが鶴田には許せないのだ。

 鶴田はサングラスを決して外さず、強引な調査を続ける。鶴田は丹波や新聞社だけでなく、今の時代さえ憎んでいるようだ。

 そういった鶴田の姿を見て思い出すのは加藤泰の『懲役十八年』だ。この映画の安藤昇も戦争を引きずり、新しい時代を受け入れることができない。最後には新時代で私腹を肥やしていた小池朝雄を撃ち殺すことで、現代と折り合うことを完全に拒否してしまう。そしてこの『懲役十八年』の脚本を書いたのが笠原和夫だ。

 『仁義なき戦い』の一作目でも、菅原文太は時代に取り残された男として描かれている。刑務所に入っているうちに闇市の時代は過ぎ去り、文太は社会の急激な変化に取り残されてしまう。そうして過去を清算せずに起業家として振舞っている金子信雄らに対して、文太は怒りを爆発させるのだ。

 

 深作欣二は本作の後も『軍旗はためく下に』や『仁義なき戦い』で「戦後の日本」を描いて来た。この『誇り高き挑戦』はそういったテーマに連なる作品である。

 深作の映画で敗戦後の悲惨さや怒りが表現されるとき、そこにはどこかシニカルさが感じられた。情緒に溺れることなく、状況を冷酷に観察する冷たい視線があった。

 こういった点は深作と同時期に活躍していた中島貞夫の映画と比べるとわかりやすいかもしれない。特攻隊を描いた『あゝ同期の桜』では、中島は特攻に赴く若者たちに入れ込んで撮っている(そしてそれが大いに泣かせる)。これには東京撮影所と京都撮影所という違いも大きいのかもしれない。

 

 鶴田は丹波の犯罪を世に訴えるために厳しい調査を続けるが、過去を憎む苛烈な生き方に鶴田の周りの人たちは離れていってしまう。

 鶴田と一緒に調査を続けてきた梅宮辰夫(まだ痩せていて美青年だった!)も、「新しい時代のアスファルトのまっすぐな道が好きだ」といって、鶴田と袂を分かってしまう。

 鶴田はそれでも調査を続けるが、ついに丹波の犯罪を暴くまでには至らなかった。丹波は日本から脱出しようとする直後、自分が仕えていた組織の人間たちに痛ぶられるように殺されてしまう。

 丹波の死体のそばに鶴田が為す術もなく佇む。その姿をカメラがズームアウトして撮るシーンに、鶴田の無力さが滲んでいて印象に残る。

 

 無念の鶴田だが、ラストには少しの希望が感じられる。悲惨な世の中も、ほんのちょっとずつでも変わっているのかもしれない。

 しかし、いい年の鶴田が女子大生に「何もわかっていない」と言われるラストは見ていて恥ずかしい気もする。

 逆光に浮かび上がる国会の姿を、ついにサングラスを外した鶴田が眩しそうに見ている。   

 その姿をローアングルで力強く捉えたショットで映画は終わる。

 

チャットモンチーの思い出

 

 

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  チャットモンチーを初めて見たのはテレビのミュージックステーションだった。曲は『とび魚のバタフライ』で、幼い見た目や歌声から「中学生みたいなグループやなあ」と思った。そしてそのまま忘れてしまった。

 次にチャットモンチーを見たのは数年後だ。寝付けない深夜、テレビのチャンネルを回し続け、チャットのライブ映像がたまたま目に止まった。

 演奏されていたのは『親知らず』で、メンバーの中学生みたいなルックスとは裏腹に、充実した演奏に力強いボーカル、それに印象的な歌詞の世界に魅了された。

 続いて『世界が終わる夜に』や『東京ハチミツオーケストラ』も強く印象に残り、そして『とび魚のバタフライ』の演奏を聴いて「ああ、あのときのグループか」とようやく気付いた。

 幸運なことに高校の友達にチャットモンチーの好きなやつがいて、そいつにCDを何枚も借りて聴いた。そしてめったに行かないライブにも足を運ぶようになった。

 

 バンドから高橋久美子が脱退し、チャットモンチーは二人体制になった。二人になってからも何回かライブに行ったが、自分の生活にも変化があって、いつしかライブへ足は向かなくなった。

 それでもCDは買っていたし、過去の曲も繰り返し聴いていた。聴き続けるうちに好きな曲は変化して行った。最初は『親知らず』や『恋の煙』が好きだったが、気づけば『少年のジャンプ』と『コスモタウン』を延々と繰り返していて、そのうちに『ひとりだけ』や『Y氏の夕方』が最高だと思うようになった。

 二人になって以降は『私が証』や『最後の果実』が好きだ。ただ、どうしても二人で作った曲よりも、過去の三人で作った曲を聴くことが多かった。

 音楽のジャンルについてまったく詳しくないが、自分はチャットモンチーをロックバンドだと思っていた。特に橋本絵莉子のシャウト、あの可愛らしいのに力強い歌声を聴くたびに、チャットモンチーはロックバンド以外の何者でもないと勝手に確信していた。

 あの歌声は二人になってからも健在だったが、なんとなく三人の頃の曲の方が聴き手をガツンと引き込むような力がある気がした。チャットモンチーは二人体制になってからバンドのスタイルを大胆に変更してきたが、そのせいか曲調もロック調のものよりもポップの方に寄った曲が多くなった。

 チャットが変化していった理由として、三人の時と同じことをしても仕方がないという思いが二人にはあったのだろう。

 また、メンバーも歳を重ね、人生が深まっていくにつれて過去の曲にこめられていた「切実さ」が薄れていったのではないだろうか。特に橋本絵莉子は結婚や出産という大きな出来事があり、その変化に合わせて徐々に、かつてのチャットモンチーが好んだ恋愛や思春期といったテーマが、瑞々しい曲の題材として機能しなくなったのではないか。二人になってからのチャットはもう一度切実に歌うことのできる新しい題材を得るために苦闘していたのではないか、と考える。

 これは自分の考え足らずな空想かもしれない。自分よりもこのバンドのことを長く、深く追ってきた人は一笑に付すような意見かもしれないが、とにかく自分は二人体制のチャットの曲を深く聴き込んでなかったことをそういう風に解釈していた。

 

 しかし、先日発売されたチャットモンチーの最後のアルバムを聴いた時、この解釈への自信がなくなってしまった。『誕生』と名付けられたこのラストアルバムに、自分はなぜこれほど感動するのだろう。高橋久美子が作詞した『砂鉄』のゆっくりとした、穏やかな全肯定には泣かされるし、さらにアルバムの最後を飾る『びろうど』のどうしようもない程の誕生への祝福がこちらの胸を打つ。

 

 チャットモンチーは過去のスタイルにこだわらず、逞しく変化してきた。かなりの成功を手にしていたのに、バンドとして過去のスタイルにこだわらず、新しい道を模索し続けていた。そのことを自分は見くびっていたということだろうか。

 数日後の武道館でのライブを、自分は映画館のライブビューイングで見るつもりでいる。チャットモンチーのライブを見るのは久しぶりだ。自分にとって本当に得難い経験を与えてくれたこのバンドが、どれほどの進化を遂げたか目に焼き付けるつもりである。

 

 

 

『黒の試走車(テストカー)』 増村保造

 

 

 

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 スポーツカーを巡る産業スパイたちの攻防を描いた、大映の『黒シリーズ』の第一作目である。

 タイガー社に勤める産業スパイたち、リーダーの小野田(高橋悦史)とやり手の部下の朝比奈(田宮二郎)は開発中の新車・パイオニアの情報を守ろうとするが、業界最大手のヤマト社にデータを盗まれてしまう。ヤマト社では元関東軍情報部の馬渡(菅井一郎)が指揮をとり、スパイ活動を行なっていた。

 馬渡へのリベンジに燃える小野田だが、恐喝や買収などあの手この手で対抗しようとしても、全て馬渡に上を行かれてしまう。どうやらタイガー社の中に内通者がいるらしい。

 ヤマト社はパイオニアから盗んだ技術を元に新車を開発するつもりだ。このままではパイオニアの売れ行きは大打撃を受けてしまう。

 朝比奈は恋人でバーの女給をしている昌子(叶順子)に、とあるバーに勤めてほしいと頼む。そのバーは馬渡の行きつけの場所だった。そこで馬渡から何か情報を聴き出すのが朝比奈の狙いだ。

「この件が終わったら君と結婚する」という朝比奈の言葉に折れ、昌子は渋々とバーで働き、馬渡に気に入られるのだが‥‥‥。

 

 田宮二郎を始めとしたスマートで都会的な俳優たち、それに増村保造のテンポの良い演出と白黒の映像が「スパイたちの知能戦」という題材とマッチしている。

 なかでも産業スパイのリーダー、高橋悦史が非常に目立つ。一人だけ黒のスーツに身を固め、会社のためというより惚れ込んだパイオニアのために命がけで働く男だ。

 新車の情報を盗まれたことを「恋人を寝取られたようだ」とぼやくほどで、企業人としてこれ以上ない人間だが、企業のためなら家庭でも他人でも犠牲にしてなんら良心の痛まない、冷酷な人間でもある。

 ヤマト社が開発する新車の情報を得るため、高橋たちは相手企業の幹部を工事現場で脅す。暴行され、地面に這いつくばった幹部を高橋を含めた三人の男たちが見下す姿は、ギャングの姿そのままである。

 こういった産業スパイの姿には戦中の特高警察など、強権的な組織の姿が投影されているのかもしれない。敵が元関東軍の情報将校だったり、「警察や軍隊と一緒だ」というセリフがあったり、公開当時は戦争が遠いものではなかったことがわかる。

 

 ハイライトは船越英二高橋悦史、密室での二人の攻防だろう。高橋の仕掛けたトラップがわかりやすすぎるのが難点だが、高橋の熱量、船越の焦燥の演技で緊張感が保たれ、目が離せない。

 船越が厳しく追求してくる高橋を「警察のつもりか」となじる。対して高橋は「おれは産業スパイだ」と誇らしげに言う。このシーンの禍々しさはなんだろう。会社の為といった大義名分から外れ、己の執念にとりつかれた男の狂気。そういったものさえ感じられる。

 組織の持つ暗黒を、高橋が一身に表現している。そんな高橋が、最後に自分の元を去る田宮を呼び止めようとするのがちょっと切ない。田宮を自分の家に連れて行ったり、本気で後継者にするつもりだったのか。

 

 もう一人、忘れてはならないのが上田吉二郎だ。ヤマト社の情報をリークする業界新聞の記者役で、階段を登るたびにヒーヒー息切れする、ぶくぶく太った男。そんな上田が終盤、暗闇の中から突如現れるシーンの悪漢っぷりが素晴らしく、もはやかっこよく見えてくるほどだ。

 

 強い印象を残す男たちの中で、肝心の田宮二郎はいつもの色男っぷりが影を潜め、妙に理屈っぽく、世間知らずの男に見える。「僕は人間らしく生きたい」と高橋悦郎を非難するセリフも妙に青臭い。

 田宮が自分の恋人を利用しながら「結婚しよう」と言い続けたり、敵のスパイの親玉に恋人の体を与えながら後悔するシーンなどは無邪気ささえ感じられる。

 

 いまいち貧弱な田宮に対し、本作に出てくる女性たちは非常にたくましい。理屈に囚われず、目的のために平気で相手を出し抜いて生き抜こうとしている、そういう女性のたくましさに増村保造の個性を感じる。

 とくに強烈なのが病室を盗聴していた看護婦で、自分が裏切った船越を「往生際が悪いわよ」とぴしゃりと斬って捨てる、その欲ぶかさと冷酷さにはピカレスクな魅力がある。

 

 だが、最も魅力的なのは田宮の恋人役・叶順子だ。田宮に「結婚しよう」と言われても、笑って真に受けない。若くして人生の酸いも甘いも噛み分けたような、アンニュイな雰囲気の女だ。豊満な肉体に挑発的な瞳が強い存在感を放っていて、惚れた男に従う単純な女ではなく、自我を持った人間として描かれている。

 都会的な色男・田宮二郎が本来の魅力を発揮できていない時、この叶順子のアダルトな雰囲気がバランスをとって、映画を引き締まったものにしている。

 最後、叶順子はこれまでの出来事を受け入れて田宮と共に生きていく。「やっぱり愛が大事」という結末が甘く、だらしないものになっていないのは、この叶順子の存在があったからだろう。

『リズと青い鳥』山田尚子

 

 

響け!ユーフォニアム」のテレビ版も映画版も未見である。吹奏楽部や京都アニメーションにもそれほど興味はないが、友人にこの映画を勧められて鑑賞してきた。十分におもしろかった。そして予想以上に百合だった。

 

 本作は全体を通して、「静かな映画」いう印象が強い。演奏シーンを除いて派手な音楽は使用されず、心理描写にもあまり過剰な演出は見られない。

 その代わりに力を入れているのが音や人物の動きの演出で、特に印象的なのが序盤でみぞれと望美が待ち合わせし、音楽室へ歩いて行くシーン。セリフもほとんどないが、みぞれの足や視線の動き、望美の跳ねる髪やターン、そういった写実的な映像が魅力的で、見飽きるということがない。

 また、些細な生活音にもこだわっている。上履きと床の擦れる音、絵本のページがたわむ音などが臨場感を高めている。

 ストーリー自体も控えめで、劇中で大きなイベントはほとんど起こらない。舞台はずっと学校の中だし、主人公たちがプールや祭りに行くサービスシーンもばっさりカットされている。

 学校へ行き、授業を受け、吹奏楽部に通う。そういった当たり前の日常を通して描かれるのはみぞれと望美、ふたりの女の子の物語である。このふたりの関係が童話の『リズと青い鳥』になぞらえて変化して行く。その過程を映画は丁寧に掘り下げる。

 明るく友達も多い望美と、望美に依存気味で無口なみぞれ。ふたりの関係は予想以上に百合百合している。特に望美が向かいの校舎にいるみぞれを見つけ、フルートに反射し多光がみぞれまで届く場面。このシーンに漂う空気感というか、雰囲気は筆舌に尽くしがたい。

 

 本作は静かな映画だが、見終わった後にかなりの充実感がある。

 それは「大切なものが終わる」瞬間が、劇中で鮮烈に描かれているからだろう。

 そのひとつが終盤の演奏シーンだ。この演奏シーンもコンクールの大舞台などではなく、音楽室で大会に向けての練習という、視覚的に地味な場面だ。しかし、決して見劣りしない。

 覚醒し、完璧な演奏を見せるみぞれと、みぞれの才能に気づいてしまった望美。キャラの感情の変化と音楽の盛り上がりがシンクロし、すごく見応えのあるシーンになっている。

 

 そして終盤の理科室のシーンだ。ここはこの映画のハイライトだろう。みぞれは秘めていた感情を全てむき出しにして、ぶつかっていくが、望美は痛恨の決断を下す。 

 こういった場面でも、作り手はキャラを派手に泣かせたり、心情を叫ばせて表現したりはしない。ただ、キャラの細かい動きや呼吸音など、小さなディティールを積み重ねる。

 そういった細部のクオリティと、役者の演技を中心に構成することで、むしろシーンは力強いものになっている。

 ここでみぞれ役の種﨑 敦美、望美役の東山奈央 、二人の役者が最高の演技を見せる。

「みぞれのオーボエが好き」と言った時、望美は何を思っていたのか。「自分とは別の道を歩いてほしい」と伝えたかったのか。それとも「望美のフルートが好き」と言って欲しかったのか。

 今までとは違う世界を生きなければならない望美が、ひとりで廊下を歩いて行く。このシーンはかなり切ない。

 

 望美は「ハッピーエンドがいい」と何度か口にするが、この終わりはハッピーエンドなのか。本作では明確に描かれていない気がする。作り手はわかりやすい救いや愁嘆場を用意していない。

 ただ、主人公たちは前とは少し変わった日常を生きる。高校生の彼女たちにとって、今はまだ道半ばなのだろう。このあとも人生は続く。そうやって日常を続けるうちに、彼女たちの決断がハッピーエンドなのか、初めてわかるのかもしれない。

 ラストシーンで望美は「みぞれの演奏を支える」と言う。この言葉には決意が詰まっている。大事なものが終わってしまっても望美は立ち止まらない。また新しい関係を築いていこうとする。立ち止まらずに歩いて行くその先に、ふたりにとっての幸福があればいいと思うのだ。

 

 ちなみに、ネット上のいろんな人の感想文によると、見ている人によってみぞれと望美、どちらに感情移入するか分かれるようだ。自分は途中から完全に望美に感情移入していた。

 そのためか、終盤から頭のなかで「技術的な理由で聖飢魔Ⅱを脱退したゾッド星島親分」のことがぐるぐる回って仕方がなかった‥‥‥という信者にしかわからない話で感想文を終える。

 

悪魔が来たりてヘヴィメタる

悪魔が来たりてヘヴィメタる

 

 

一つの写真、一人の男 『キャパの十字架』沢木耕太郎

 

 

キャパの十字架 (文春文庫)

キャパの十字架 (文春文庫)

 

 

 ロバート・キャパ。スペイン内戦を始め五つの戦場を駆け回り、最後は地雷によってこの世を去った伝説の戦場カメラマン。特にスペイン内戦で撮ったある写真は、のちの報道写真のあり方を決定づけたと言われるほど重要なものとなった。

 その写真は『崩れ落ちる兵士』と呼ばれた。頭を撃たれた兵士が文字通り崩れ落ちる瞬間をとらえた傑作だが、この写真には多くの謎が残っている。   

 スペインのどこで、いつ撮られたのか。本当に撃たれた兵士を撮った物なのか。キャパがこの劇的な瞬間を撮影できたのはなぜか。

 やがて兵士は撃たれたのではなく、倒れた演技をしているだけだという「やらせ疑惑」も出て、未だ議論は絶えない。

 

 そんなキャパと『崩れ落ちる兵士』について、沢木耕太郎は前から並々ならぬ興味を持っていたようだ。それがわかるのが『キャパの十字架』に先立つ二十年以上前に書かれた「三枚の写真」という文章である。これは『象が空をⅡ 不思議の果実』に収録されたものだが、この文章を書いている時、沢木はキャパの評伝を翻訳している最中だった。

 この文章ではすでにキャパと「崩れ落ちる兵士」の真贋について言及しているし、さらには「大きな十字架を背負ったキャパ」という『キャパの十字架』とほぼ重なる表現も出てくる。他にもいろいろな文章で沢木のキャパについての言及は見られ、沢木にとってキャパという存在がどれだけ大きかったかがわかる。

 そして沢木は、ついに『崩れ落ちる兵士』の真贋についての調査に乗り出した。スペインを何度も訪れ、関係者へのインタビューを重ね、その結論が本書『キャパの十字架』である。

 

 

 最初に不満点を挙げておく。本書にはキャパやゲルダが撮ったいくつもの写真が縮小されて掲載されているが、目の悪い自分には写真の細部が見えにくくて困ってしまった。自分は文庫版を読んだので、単行本よりも余計に写真が小さくなっていたのかもしれない。

 沢木の検証では隅っこに写っている小さな草や雲が重要な意味を持ってくるのだが、小さい写真を見比べるのに疲れ、せっかくの検証を十分に楽しむことができなかった。

 

 それでも本書はおもしろい。特に印象に残るのは写真の持つ脆弱性と、キャパという人物の持つ魅力である。

 

 本書を読んで、写真というものの脆さに改めて気付かされた。

 トリミングやキャプチャーなどの編集によって写真の印象は大きく変わる。さらには写真を紹介する者の意思によって、写真は平気で嘘をついてしまう。

 例えばススペレギ教授と曾祖母の写真のエピソードがある。このスペイン人の教授はキャパの写真がフェイクであることを指摘し、沢木の検証に大きな影響を与えた人物である。

 そのススペレギ教授の曾祖母はスペイン内戦中、フランスへ逃げようとする民衆の一人だった。逃げる途中、海岸に座り込んだ曾祖母の姿を、ある報道カメラマンが写真に残していた。この写真はトリミングされ、様々な雑誌に掲載される。

 編集されていくうちに、写真はどこで撮られたものか、被写体の女性は誰かが曖昧になっていく。そのうちに、写真は全く関係のないゲルニカ空爆の被害者を写したものとして扱われてしまう。

 写真の「事実」を歪めるのは簡単なことなのだ。こういった写真の脆さは『崩れ落ちる兵士』も例外ではない。

 

 ただ、その一方で写真が予想以上に多くのものを語ることも事実なのだ。一瞬を切り取った写真をくまなく精査するとき、写真は思いもしなかった事実の一片を見せてくれる。

 沢木の検証は写真の隅に映る小さな断片を調べることで始まる。そういったごく微小な細部を積み重ねていくことが予想以上の仮説を生み出し、事実への接近を可能にする。

 

 

 そうした事実と仮説の積み重ねの末、いろいろなことが明らかになっていく。キャパはどのように撮影を行ったかということも、最初は重要視されていなかったキャパの恋人、ゲルダ・タローが『崩れ落ちる兵士』に深く関わっているかもしれないことも。そしてロバート・キャパという人間についても。

 沢木は細かい検証を重ねながら、キャパという人間をもう一度捉え直そうとする。何度もスペインに行き、撮影場所を探しに歩き回り、写真の隅の隅を見比べる。そうした作業を繰り返す内、キャパが背負った「罪」の存在と、「十字架」を背負いながら幾多の戦場を渡り歩いた男の姿が徐々に露わになっていく。

 そのとき、読者の前には非凡な力を持ち、戦場を嫌いながら戦場を必要とする男の、物悲しい姿が存在感を持って浮かび上がってくるのだ。

 本書は単にキャパの神話を剥ぐだけのものではない。沢木があれだけの時間と手間をかけて謎を追ったのはキャパを否定するためではなく、キャパの新たな実像を描くためだった。そういう印象を受ける。

 キャパの行為を糾弾することもできただろう。ただ、沢木はそうしなかった。

 そうして本書を振り返ったとき、読者に残るのは、あとがきで作者が振り返ったとおり「旅をした」という余韻である。

 写真の謎を追いかけることが、キャパの足跡を巡る一つの旅となる。その旅が終わったときに残る読後感が、本書の最大の魅力かもしれない。

 

 

不思議の果実―象が空を〈2〉 (文春文庫)

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『スーパーカブ』 トネ・コーケン

 

 

スーパーカブ (角川スニーカー文庫)

スーパーカブ (角川スニーカー文庫)

 

 

 

 

 自分はバイクに乗ったこともないし、カブに触ったことさえない。これから乗ることもないだろう。

 そんなバイクへの興味がペラペラにうすい人間でも、この『スーパーカブ』は楽しく読むことができた。

 

 

<ストーリー>

山梨の高校に通う女の子、子熊。両親も友達も趣味もない、何もない日々を送る彼女は、中古のスーパーカブを手にいれる。初めてのバイク通学、ガス欠、寄り道、それだけのことでちょっと冒険をした気分。仄かな変化に満足する子熊だが、同級生の礼子に話しかけられ——「私もバイクで通学してるんだ。見る?」一台のスーパーカブが彼女の世界を小さく輝かせる。ひとりぼっちの女の子と世界で最も優れたバイクが紡ぐ、日常と友情。

 

(裏表紙より引用)

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今日ですべてが報われる『15時17分、パリ行き』 クリント・イーストウッド

 

 

 

 鑑賞前に、自分がこの映画に期待していたのは「テロリストに対峙した三人は、いかにしてテロを阻止したか」という点である。武装したテロリストを相手に、丸腰の男たちはいかにして凶行を阻止したのか。そのときに何が起こったのか。その緊迫した瞬間を目当てに映画館に向かったのだ。

 しかし、この期待は十分には満たされず、大きく不満が残った。

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