陽のあたる裏路地

観た映画や、読んだ本について書くブログ。ぬるっと始めたので詳細はまだ不明。

『銀河を渡る』 沢木耕太郎

 

銀河を渡る 全エッセイ

銀河を渡る 全エッセイ

 

 

 沢木耕太郎の初のエッセイ集『路上の視野』シリーズは自分にとって特別な書だった。特にシリーズの三作目、古本屋のワゴンで見つけた『地図を燃やす』はこの作家に興味を持つきっかけとなった本で、その後古本屋をまわって『象が空を』シリーズも集めるほど、自分は沢木耕太郎のエッセイを好んでいた。なので二十五年ぶりの全エッセイ集『銀河を渡る』も、ワクワクしながら読んだ。
 それで、どうだったか。実を言うと、かつてのエッセイほどの感動はなかった。特に旅についての文章は、かすかに味気なさを感じたほどだった。
 しかし、いったい何故だろうか。あの『路上の視野』と本書との違いはどこにあるのか。色々と振り返ってひとつ思い浮かんだ仮説は、作者が年齢を重ね、色々な意味で豊かとなったことが原因ではないかということだ。
 
 『路上の視野』のころ、沢木は三十代に入った頃であり、その文章からあまり金のないことがうかがえた。確かに外国への旅は行われていたが、旅の中であまり金を使わないようにしようとする心がけが感じられたし、文章からうかがえる限り、日本での沢木の生活もかなり質素なものに見受けられた。
 自分にとって『路上の視野』を特別なものにしていたのは、当時の沢木の若さと貧しさだったのではないか。そういった作者に、同じように若く貧しかった自分は共感や憧憬を抱き、それが反射して『路上の視野』をひどく魅力的に見せていたのではないか。
 『銀河を渡る』に収録されたエッセイのほとんどは二千年代に入ってからのものであり、そのころ沢木は五十歳をすぎたころだった。その年齢で行われる旅に、さすがに二十代のころの貧しさは見られない。旅行や出会う人に関しても余裕が感じられた。そのことが自分には味気なさに感じられたのかもしれない。ロサンゼルスのVIP用のボクシングジムでミッキー・ロークと出会った話よりも、香港で1ドル程度のフェリーでの航海を「豪華だ」と楽しむ話の方が、自分にとって圧倒的に面白かったのだ。

 と、ここまで本書をクサすようなことを書いたが、決して本書がつまらないわけではない。楽しんで読むことができた。特に沢木と親交のあった高倉健、そして『旅する力』でも登場した編集者、太田欣三へ向けた追悼文は読んでいて胸を打たれた。
 しかし、自分が最も興味深かったのは「すべて眼に見えるように」という、本書では比較的地味で短いエッセイだった。
 このエッセイは作文の苦手だった作者が、どうやって文章を書けるようになったかを、子供の夏休みの作文を例にわかりやすく解説したものである。
 まず、頭の中に浮かんでいるもやもやしたものを単語の形で書き出す。思いつくだけの単語を記し、眼に見えるようにして、その単語でごく簡単な短い文章を作ってみる。「子供 作文 苦手」という単語の群れから「子供のころ、作文が苦手だった」というように。
 こういった簡単な文章をいくつか作り並べると、そのうち文と文の間に付け加えることや入るべき文章が浮かんでくる。そうやって文を膨らませていくうちに、一つの長い文章ができるという。
 この文章の作り方はごくごく簡単で素朴な方法だろう。これくらいのやり方なら、習うまでもなく既に実践しているひともいるかもしれない。
 では、なぜこのエッセイが面白かったのか。

 自分は昔、文章を書くことが苦手だった。苦痛だったと言っても良い。どうすれば頭の中で漠然とただよっているものをまとめることができるのか、言葉で表現できるのか。
 悩んだ自分は、いくつかの本を読んでヒントを得ようとした。そのとき参考になったもののひとつが沢木の「断片から」という短い文章だった(このエッセイは『地図を燃やす』に収録されている)。
 「断片から」には、まだライターとしてキャリアの浅かった沢木の、書くことについての苦悩と対処法がシンプルに語られている。文章を頭から結論まで綺麗に書けない。いざ原稿用紙を前にしても、目の前の空白に立ち尽くし、戸惑うしかない。
 書くときは常に”断片”から始まる。断片を集め、つなぎ、並べ替え、組み合わせてようやく一つの全体ができる。だが、それでいいのだ。ルポルタージュにとって大切なのは、断片の確かさと鮮やかさなのだから‥‥。
 ここでいう”断片”とはふたつのものを指している。ひとつは長文における単語、もうひとつはノンフィクションにおける、取材によって得たシーンのことだ。

 そして、このエッセイが突破口となった。自分も最初から完璧な文章を書こうとし、そのたびに筆が止まっていた。そうではなく、まず断片から始めるのだ。不完全なものでも良いから、書き出してみる。それが長文の中で効果的な結論に結びつかなくても、気にしなくて良い。大事なのは断片の鮮烈さだ。そう思ったとき、かなり気持ちが楽になった。この「断片から」は、書くことへのハードルを確実に下げてくれた。
 沢木と同じように、自分も断片から書き始めた。単語を並べ、短文をつくり、膨らませていく。そうやって練習を続けているうちに、どうにかこのブログの記事くらいは書けるようになった。
 そんなときに、この「すべて眼に見えるように」を読んでニヤリとしてしまった。今の沢木も若い時と同じように、断片から始めていること、そして自分は沢木耕太郎と同じ方法で文章を書いていること。このふたつを確認し、嬉しくなったのだ。
 もっとも、肝心の文章の質には大きな差があるが‥‥‥‥。
 

『やがて君になる 佐伯沙弥香について』 入間人間

 

 

 すでに百合漫画の金字塔となろうとしている『やがて君になる』のスピンオフ小説である。作者は『安達としまむら』の入間人間。原作漫画の主人公の一人・七海橙子の親友であり、橙子に恋心を抱く佐伯沙弥香の過去を描いた作品だ。

 入間人間が「やがて君になる」の番外編を書く。それを知ったとき、自分は『安達としまむら』も『やがて君になる』も両方好きなので、非常に楽しみだった。
 番外編は沙弥香の中学生時代、中学校の先輩との恋愛についての物語だ。
 この中学生時代のエピソードは原作の漫画ですでに描かれている。なので原作を読んでいる人は沙弥香の恋愛がどういう顛末を辿ったか、もう知っているのだ。
 結末がすでにわかっている話を入間人間はどのように膨らませ、小説にしたか。
 その方法は小学生時代の、沙弥香ともうひとりの女の子の出会いから物語を始めることだった。

 小学生の沙弥香は原作でよく知っている、あの沙弥香のままだ。高校生のころと性格は少し違うが、「小学生のころ、沙弥香はこんな子供だったのだろう」と思わせるだけの説得力がある。
 勉強も習い事も嫌がらず、誰よりも前を進もうとする沙弥香は、スイミングスクールで一人の少女と出会う。授業の間遊んでいるような不真面目な子だが、一生懸命に練習している沙弥香よりも泳ぐのが速い。そしてなぜか沙弥香の周りを無邪気にまとわりついてくる。自分と何もかもが違う少女に沙弥香はとまどうが、徐々にその子が気になっていく。
 少女は沙弥香を見ていると「手のひらが熱くなる」という。少女はまだ幼く、その熱さの正体に気づいていない。しかし、沙弥香だけはその「熱さ」について心当たりがあった。まだ幼い自分たちには縁がないはずの、女の子同士では起こらないはずの反応に、少女も沙弥香も気持ちをかき乱される。
 二人の関係はある出来事をきっかけに破局を迎えるが、少女との出会いは沙弥香の人生に深い傷を刻む。中学生になってからも、この時の経験が影を落とすようになる。

 中学生になった沙弥香は、同じ合唱部の先輩に告白され、先輩と付き合うかで強く葛藤する。人と交際することについて、しかも相手が女性であることに真剣に悩む。先輩の告白がもたらすものについて、真剣に考える。
 悩み続けた結果、他人を好きになることがどういうことかわからないまま、沙弥香は先輩の告白を受け、交際を始める。そうして先輩の好意に誠実に向かい合おうと、沙弥香は先輩が求める通りの人間になろうとする。
 原作では橙子が向ける好意によって、侑は「自分は誰も好きにならない」ことを強いられる。一方で本作の沙弥香は積極的に先輩の好みに合わせて自分を変化させようとするなど、ある種の束縛を受ける。
 「好き」という感情が人を束縛する、というのは原作でも本作でも共通のテーマだが、これは入間人間の過去作品にもよく見られるテーマではないか。
 たとえば『いもーとらいふ』の主人公は妹との愛情を優先するため、親や友人など他の大切なものを切り捨てなければならない。『安達としまむら』では、安達からの過剰な愛情によって、しまむらは自分が大切にしようとしているものを失う可能性があることを予感している。「少女妄想中。」で<走る女の子>に惹かれてしまうアオも、その好意で自縛状態に陥るのだ。

 先輩に合わせて自分を変えていった沙弥香は、しかし残酷な形でその努力は裏切られた。
 先輩の望む人間になろうとした沙弥香は、相手に望まれなくなったときに、何者でもなくなってしまう。
 中学を卒業した後、先輩と出会う前の自分にはもう戻れないのではないか、という不安に沙弥香は苦しめられる。
 その不安が橙子との出会いで払拭される。間違っていたと思った自分の選択が、新しい出会いで昇華される。
 抱え込んだ絶望が一つの出会いで一転する。ここの心理描写は非常に鮮やかだ。
 橙子と出会えたのは先輩との恋愛があったからだ。先輩との日々があったからこそ、新しい出会いがあった。
 つまり、全てが水泡に帰したはずの先輩との交際も、きちんと意味があったのだ。
 無意味に終わったかの様に見えたことでも、何かの結果につながっていく。

 入間人間は小学生時代のエピソードから描くことによって、佐伯沙弥香という人間がいかにして形成されたか、そして七海橙子と出会うまでに、沙弥香にどんな出会いが必要だったか、そういう物語を紡いだ。
 小学生のときに、少女を追いかけて水面に飛び込んだからこそ、後に沙弥香はかけがけのない相手と出会うことができた。
 そして先輩とのやりとりに心が揺らぐとき、沙弥香が思い出すのは少女と出会ったプールの穏やかな水面であり、少女の感じた「手の熱」である。先輩のことを本当に想うとき、あの手のひらの熱さが沙弥香にもふりかかる。
 実を結ぶことのなかった少女との出会いも、何らかの意味を持つ。すべてのものには意味がある。忘れたとしても、なかったことにはならない。
 沙弥香には報われてほしいと思う。と同時に、あの少女も報われてほしいと思う。
 沙弥香と同じように、不幸な顛末に終わった出会いにも意味があり、少女にとって価値のあるものだったなら良いと、そう思った。

 かつて仲谷鳰入間人間の小説『少女妄想中。』の表紙と挿絵を描いたことがあった。そしてこの『少女妄想中。』を、自分は『やがて君になる』や『安達としまむら』の、いわばB面に当たる重要な作品だと思っている。
 というわけで、次にこの作品の感想も書きたいと思う。

『たそがれ酒場』内田吐夢(1955/新東宝)

 

たそがれ酒場 [DVD]

たそがれ酒場 [DVD]

 

 

 戦後、内田吐夢が映画界に復帰してからの第二作目であり、安酒場での一夜の出来事を描いた群像劇である。

 日本酒におしんこ、冷奴を出すような庶民的な居酒屋に、様々な人たちがやってくる。共産主義の運動家。退職する教師を囲む学生たち。ギャング。労働者。警官。身分や立場を超えて色々な人たちが酒を飲んで騒いでいるうちに、いくつもの騒動が起こる。

 客の中には東野英治郎加東大介をはじめとしたベテランから、これから名を売ろうとする後の大御所俳優たちの若い姿が見られる。
 画面奥から突然、男が酒場に駆け込んでくる。男は周囲を見渡し、すぐに階段を飛び越えて画面から消える。この男を演じたのが天知茂だ。映画の中でこの人物について特に説明はないが、十秒にも満たないシーンながら、鋭い目つきと軽やかな身のこなしには目を引かれてしまう。
 そしてギャングを引き連れてやってくる丹波哲郎! 宇津井健の丸顔がハードな役に似合わないのに対し、丹波の若く、精悍でバタ臭い顔つきがとてもかっこいい。このころから被っているソフト帽もよく似合う。
 そんなモダンな丹波が、惚れた女のために宇津井健と一対一で決闘しようする。意外な純情さが微笑ましい。

 多々良純の演じる飲んだくれも面白い。あちこちの席をうろつきまわり、いい加減な口八丁で酒のおこぼれをもらっている。身を持ち崩して世の中からはみ出した男だが、そんな人間でもこの酒場は受け入れてくれる。特にカルメンの闘牛に合わせて小杉勇多々良純が踊る場面は名シーンだ。

 こういった客たちの巻き起こす騒動が楽しく、現代では失われてしまった安酒場の風体も見ていて面白い。
 猫を抱えた中年の夫婦が酒場にやってきて「今日は何にしようか」と話す。そういった酒場の姿には雑多でノスタルジックな魅力がある。

 しかし、映画は小市民を主人公とした、ミニマルな物語に収まらない。むしろ意外なほど豪華な印象さえ受ける。
 おそらく、その豪華さの理由の一つは大胆なカメラワークにあるのだろう。
 酒場のセットの中を西垣六郎のカメラが大きく動き回る。さらに画面の奥行きや高低を目一杯使うことで狭いセットが効果的に使われ、それに合わせて物語のガラも大きなものに感じられる。
 特に津島恵子のストリップのシーンはかなり見ごたえがある。

 もうひとつ重要なのは芥川也寸志が担当した音楽だ。有線の代わりに酒場に雇われたピアニストと歌手が本格的な歌を披露し、さらに客から預かったレコードをかけたり、素人のど自慢大会まで行われる。歌謡曲から本格的なカルメンまで、質素なこの居酒屋には音楽が満ちている。この音楽の存在感は大きく、映画のもうひとつの主役と言っていいほどだ。
 大胆なカメラと充実した音楽。このふたつによって映画自身にこじんまりとした印象を受けず、充実したものを感じるのだ。


 そうして酒場で様々な騒動が起きるうちに、次第に小杉勇と小野比呂志の過去が浮かび上がってくる。
 小杉勇演じる<先生>はかつて一斉を風靡した画家だったが、戦争中に戦意高揚の絵を描いたことを悔やみ、筆を折ってしまう。それ以来パチプロとして生計を立て、酒場で飲むことが今の楽しみだ。
 江藤(小野比呂志)はかつて最先端の音楽家として活躍していたが、弟子に妻を寝取られたことに怒り、妻を刺して人生を棒に振った。現在はさえない酒場の座付き演奏家として、青年の健一(宮原卓也)を育てることだけが生きがいとなってしまった。
 その酒場にたまたま、かつての弟子がやってくる。この弟子は名音楽家として活躍したが、すでに歳をとり「終わった人」扱いされている。
 かつての弟子を見つめる江藤。その表情は苦悶に満ちているが、弟子の方は江藤に気づかない。過去の事件で未だに江藤は苦しんでいるが、すでに弟子の中で江藤は過去のものになっているのだ。このシーンは切ない。
 弟子は健一に目をつけ、自分の楽団に参加しないかと声をかける。しがない酒場から出世できるチャンスに健一は喜ぶが、江藤は行ってはならないと固く命じる。師匠の頑なな態度に健一は面食らうが、それを見かねた先生は、閉店した酒場で江藤を呼び止める。

 さっきまでの喧騒が嘘のような静寂の中、先生が訥々と語り出す。芸術家としては死んでしまった、自分たちの人生について。
 絵で戦争を煽ってしまった男。妻を殺し、音楽家としての道を閉ざした男。先生は自分たちに残された役目について、江藤に懇々と説く。
 自分たちが今できるのは、若い人たちに夢を託すことだけだと。先生は酒場の店員・ユキ(野添ひとみ)に、江藤は弟子の健一に託すべきなのだと、涙ながらに訴える。

 先生の言葉を聞き入れ、江藤は健一が自分の元を離れることを認めた。そうしてはなむけのために最後の歌を歌ってもらう。
 酒場から羽ばたく健一が、イワン・スサーニンのアリアを歌うとき、先ほどまで酔客が騒いでいた酒場に、厳かな歌声が響き渡る。そのとき、新しい明日に向かって踏み出せた者、できなかった者たちの人生が交差する。
 明日もこの酒場には沢山の人がやってくるだろう。しかし、同じ日々が繰り返されるわけでは決してない。
 時代が変わり、人も変わる。あの夜、酒場に集まり、新天地に向かって踏み出せなかった人間たち。先生やユキや江藤のような人間たちは、どこへ行ったのだろうか。
 映画の終わった後も、彼らたちの行く末が、どこか心に引っかかった。

『日本侠客伝 昇り龍』山下耕作(1970/東映)  

 

 

日本侠客伝 昇り龍

日本侠客伝 昇り龍

 

 

 火野葦平の『花と竜』を原作にした、「日本侠客伝」シリーズの第七作目。ちなみにこのシリーズ、前作でも同じ『花と竜』を原作に『日本侠客伝 花と龍』が制作されていて、しかも主演も同じく高倉健藤純子だ。あからさまな二匹目のドジョウ狙いだが、それでも監督をマキノ雅弘からバトンタッチした山下耕作はかなりの力作をものにしている。

 

 この映画の最大の魅力、それは藤純子だろう。この当時二十五歳というのが信じられない。賭場での格調高い立ち振る舞い、ふっと伏せた横顔の色気。全てのシーンで美しい。

 この女彫り師・お京が、賭場に遊びに来た沖仲仕(港湾労働者)の高倉健演じる金五郎と出会うことで物語が始まる。賭場で二人の視線が交差するのをトラックインで撮った印象的なカットで、この二人の因縁が予感される。

 ヤクザに襲撃された金五郎をお京は偶然助けてしまう。山下耕作の演出は情緒感がありながら、暴力シーンの導入が鮮やかだ。高倉健が雨の降る夜を歩く。その傘にいきなり日本刀が叩きつけられる。傘の切り裂かれる鈍い音をきっかけに、橋の上で乱闘が起こる。

 

 自身の血を分けてまで男を治療し、そのうちにお京は相手に惚れ込み、彫り師として一生に一度の仕事をあなたの体に残したいと金五郎に願う。このシーンはまるで恋愛映画のようだ。小川のほとりで話しこむ二人の姿に、菊の花が彩りを添えている。

 堅気の金五郎だが、お京の「これを彫れれば、足を洗ってもいい」という言葉に心を動かされ、自身の体に昇り竜の彫り物を入れてもらう。

 この映画の登場人物たちが人を助けたり、戦ったりするのは誰かの心意気のためだ。ヤクザであり、地元の顔役であるどてら婆(荒木道子)や島村(鶴田浩二)が金五郎の味方についたのは、仕事仲間たちのために組合を作り、事業主たちと争おうとする金五郎の心意気を汲み取ったからだ。また、どてら婆が中立の立場を破って金五郎のためにヤクザとの手打ちの仲立ちをしてくれるのも、自らの命を捨ててまで惚れた男を守ろうとするお京の言葉に胸打たれたからであった。損得勘定で動かない。自分が惚れた相手のために身体を張る人間たち。

 健さんの周りには、そういった心意気を持った人たちが集まる。金五郎の妻・マン(中村玉緒)もその一人だ。藤純子に比べて化粧気のない顔をしているが、労働者たちを引っ張る気の強い女であり、時折見せる笑顔がキュートだ。

 もう一人、印象的なのが伊吹吾郎だ。天津敏の命によって高倉健を襲撃するヤクザだが、それは藤純子への密かな愛情を利用されたためだった。高倉健との静かな決闘、そしてラストの自分の気持ちを殺して頭をさげるシーンなど、短い出番でも強く印象に残る。

 

 全編通してシリアスな映画だが、笑えるシーンもある。そのひとつが遠藤太津朗の登場シーン。天津敏と同じく悪役かと思いきや、「労働者運動の運動家」という意外な役柄だ。しかし長髪にヒゲ、牛乳瓶のメガネと見た目のインパクトがかなり強い。初登場シーンでは高倉に「労働者たちが団結することが大事だ」と説きながら、おもむろに取り出したアンパンを貪り食う。やりたい放題だ。

 もう一つは資本家たちから退職金をもらうため、素人演芸大会という名目で決起集会を開くシーン。集会の音頭をとったどてら婆から、金五郎は急にスピーチを求められる。

 口下手な健さん、大ピンチ! マイクの前に立つが「えー、あー」と言葉が出ない。そのピンチを遠藤太津朗が颯爽と助ける。言葉に詰まる健さんに変わって、言いたいことを鮮やかに喋ってくれ、それを聞いて健さん「そうですタイ!」と調子よく叫ぶ。ちょっとかっこ悪いぞ!

 

 決起集会を襲撃され、どてら婆と仲間の労働者が殺されたことでついに健さんの怒りが爆発する。ラストの立ち回りは狭い室内を役者に寄ったカメラが動き回り、なかなか緊迫感がある。

 だが、最も印象的なのはその後の健さん藤純子の再会シーンだ。病気で倒れたお京の元に殴りこみを終えた金五郎がやってくる。部屋で臥せっているお京に、旅館の女将が「金五郎さんが来てくれましたよ」と声をかけるが、藤は部屋の障子を開けようとしない。そうして健さんを待たせて、必死で身づくろいをする。その間、カメラは藤純子の姿を見せず、障子が開くのを待ち続ける健さんを写し続ける。

「紅を‥‥‥紅を取ってください」

 病気で苦しみながら、愛する男のために綺麗な自分を見せようと必死になる女。ずっと自分を助け、追い続けて着た女を前に、男は何もしてやることができない。高倉健は噛み締めるかの様に、あるいは何かに耐えるかのように障子が開くのを待ち続ける。

 この待つ芝居で藤の病がいかに深いものか、そして高倉健をいかに愛しているのかがわかるのだ。実際に二人が顔をあわせる場面よりも、この会合の寸前の芝居に心打たれる。

 脚本を手がけたのは山下耕作の盟友・笠原和夫。山下とのタッグで前年は『博打打ち 総長賭博』を、この二年後には『博打打ち いのち札』と『女渡世人 おたのもうします』をモノにする。本作は任侠映画にいくつもの名作を残した黄金タッグの、まさしく脂の乗った時期の作品だ。 

『スマイリーと仲間たち』 ジョン・ル・カレ

 

 スパイ小説の歴史に名を残すスマイリー三部作。その完結編である本作で、ついにジョージ・スマイリーとソ連の伝説的スパイ、カーラとの因縁に決着がつく。

 物語はソ連からパリへ逃亡した老婦人が奇妙なロシア人と出会うという、いつもどおり物語と関係のなさそうな場面から始まる。ここから文庫本で四十ページほど、ソ連からの逃亡で痛めつけられ、家族を失った夫人の姿と、夫人が不信感を募らせていく様がじっくりと描かれる。この場面が物語とどう関わって来るかわからず、読者がいい加減しびれを切らしそうになるころ、ようやく主人公のジョージ・スマイリーが登場する。

 前作の『スクールボーイ閣下』でスマイリーは情報部を去り、市井の人として慣れない日常を送っている。そんなスマイリーが、ふたたびかつての上司によって呼び戻される。今回のスマイリーの任務はウラジーミル老人の死について調査することだ。老人はかつてバルト諸国から亡命し、その後イギリス情報部の協力者であった人物だ。情報部は老人の死が情報部とは何の関係もないことを証明するため、スマイリーに調査を命じた。ウラジーミルと既知の仲だったスマイリーは人間をたやすく切り捨てる情報部の官僚的な態度に怒りを覚えるが、依頼を承諾して調査を始める。

 殺害現場とウラジーミルの自宅へ向かい、生前の行動を探るうちに、老人が何かをスマイリーに渡そうとしていたことがわかってくる。しかもその品物がスマイリーの宿敵であるカーラと関係があるようだ。

 

 前作『スクールボーイ閣下』でのスマイリーはあくまで情報部トップの司令官として活動していたが、今作のスマイリーは市井の人であり、情報部の庇護を受けていない存在だ。そんな孤立無援の存在でも、スマイリーは現地工作員として単独行動を行う。自らの足で歩き回り、各国を飛び回り活躍する様は処女作の『死者にかかってきた電話』のころを思い起こさせ、感慨深い。

 カーラが隠そうとした秘密を追求するため、例によってスマイリーは各地を飛び回って調査を進めるが、それはあたかも大英帝国の腐敗をたどるダークツーリズムのようだ。冷戦とスパイ活動を通じて英国が残した負の遺産。カーラを倒すための鍵は、そんな冷戦に身を投じ、肉体も精神も滅ぼしていた者たちの屍の上にあるのだ。正しいものが裏切られ、間違った者がはびこる歪んだ世界の中で、朽ちていった者たちの下をスマイリーは巡っていく。

 

 そのうちの一人、コニー・サックスとの再会は今作のハイライトのひとつだ。冷戦の果て、国への忠誠の果てに何が待っているか。ル・カレは三部作のもう一人の主人公とも言えるコニーの姿をもって神々しく、ときに冷酷に描く。

 スマイリー三部作全ての作品に登場したコニーだが、今作ではかすかに残っていた若々しさも失い、その姿はとても痛々しい。肉体の衰えに精神も蝕まれそうになっている彼女が、最後の力でカーラ追跡のための情報をスマイリーに語る場面は壮絶である。

 しかし、スマイリーは復帰した現役のスパイとして、嘘とまやかしの態度でコニーに接する。そしてコニーの長年国に尽くしてきた忠誠に、スマイリーがとどめを刺す。ギクシャクしたままの別れはもう二人が会うことはないのを予感させ、とても切ない。

 さらにスマイリーはアンとも再会する。『死者にかかってきた電話』からここまで名前だけで一度も登場しなかったあのアンが、ついに読者の前に姿を表すのだ。

 スマイリーにとってアンは常に光と陰の存在であった。そんなアンとスマイリーは、まるで自分たちの傷跡を確認するかのように空疎な会話を繰り返す。スマイリーは彼女との再会で自分たちの愛情がすでに潰え、何も残っていないことを確認する。宿敵のもたらした愛情の破滅をもう一度認めた上で、決着をつけるためにスマイリーは仲間を集める。

 

 カーラを倒すために、スマイリーの下にかつての仲間達が集う。過去の作品にも登場した懐かしい人々の中で、最も印象に残るのはトビー・エスタヘイスだろう。情報部を追われ、胡散臭い美術商として生計を立てていたハンガリー人の小男はスマイリーの指示の下、現場工作員として縦横無尽に動き回る。その生き生きとした活躍を見ていると、スマイリーの相棒はピーター・ギラムよりもトビーの方がふさわしいのではと思うほどだ。

 

 そうしてトビーたちが動き回る間、スマイリーの心理は読者に伏せられる。スマイリーの思考や態度は周りの人たちの視点で描写されるだけで、極端に内省的に振る舞う。

 このときのスマイリーはスパイ戦のプロフェッショナルとして、いつも以上に厳しい姿を見せる。スマイリーは全ての因縁を清算するため、それまでの人間的な姿は影を潜めてしまう。

 

 そしていよいよ、スマイリーとカーラは再び出会う。

 再会の場はあのベルリンの壁だ。

 自分は今まで読んだ小説の中でも『スクールボーイ閣下』のラストシーンが最も好きだが、『スマイリーと仲間たち』のラストもかなり印象的だ。

 最大の勝利の中で、スマイリーは最後の一線を越える。『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』から続いたカーラとの因縁に決着がつくとき、スマイリーの中では相反する感情が絶えず渦巻いている。

 最大の勝利の瞬間、スマイリーは最も憎んだ相手と同じ地点に立つしかない。

 全てが終わり、ベルリンの壁から皆が去った後、ただ一人スマイリーだけが壁の前に佇む。

 いや、彼一人ではない。ピーター・ギラムがスマイリーの肩に手を置き、声をかける。

『死者にかかってきた電話』からこの三部作まで、スマイリーの助手として活躍してきたギラムは、最後までスマイリーのそばにいた。

 

 そしてスマイリーは一言で、これまでの闘いを締めくくる。それは流された血を思えば、あまりにも控えめな言葉だった。

『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』ジョン・ル・カレ

 

 

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)

ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)

 

 

 スパイ小説のマスターピースであり、輝かしい「スマイリー三部作」の最初を飾る記念すべき傑作である。しかし、このころからジョン・ル・カレの小説はプロットが複雑化し、読みにくくなっていく。この複雑さは本作と同じく「愛と裏切り」をテーマとした『寒い国から帰ってきたスパイ』には見られなかったものだ。

 ちなみにこの小説は映画化されたが、映画を見たカズオ・イシグロはストーリーの筋がわからないと村上春樹にこぼしたそうだ。いくらかプロットを剪定し、すっきりさせた映画でさえこうなのだから、いかに原作が複雑かわかるだろう。

 

 イギリス情報部の元スパイ、ジョージ・スマイリーがかつての上司に呼び戻される。情報部を裏切り、イギリスの情報をソ連に流している二重スパイがいるというのだ。スマイリーはその二重スパイを割り出すため、秘密の調査を開始する。調査を進めると、情報部のかつてのトップだった“コントロール”が謎の極秘作戦を行なっていたこと、そして裏切り者の「モグラ」は現在の情報部のトップにいる四人のうち誰かだということが判明する。しかもその背後にはスマイリーと因縁のあるソ連情報部の伝説のスパイ、カーラの影が感じられた。

 はたして「モグラ」は何者なのか。コントロールの作戦とはなんだったのか。懸命の調査の末に、スマイリーは自身をも巻き込んだ巨大な陰謀に直面する。

 

 それにしても、本作のストーリーはなぜこんなにもわかりにくいのか。

 その原因の一つとして、読者に注意力と記憶力を強いるル・カレの文章スタイルが考えられるだろう。

 物語は小学校にジム・プリドーという教師が赴任し、ビル・ローチ少年と出会う場面から始まる。続いてシーンは切り替わり、主人公のジョージ・スマイリーがかつての上司に呼び出され、調査を依頼される場面に移る。元同僚のピーター・ギラムが運転する車で上司の家に向かう途中、スマイリーは尋ねる。「エリスに関するニュースは?」

 実はこの「エリス」とはジム・プリドーのコードネームであり、プリドーはある作戦の失敗によりスマイリーと同時期に解雇された元スパイなのだ。しかし、エリスの名前が出てからその正体がわかるまでに七十ページほどかかる。それまで読者はエリスとは何者なのか、序盤の小学校教師がストーリーにどう関わってくるのかわからないまま読み続けなければならないのだ。このように「意味ありげな言葉の意味が後半になってわかる」という場面がル・カレの小説には多い。

 加えて探偵役を務めるスマイリーと、読者の思考がシンクロすることが極めて少ない。スマイリーがそのとき何を考えているか、いちいち説明されない。

 なので、スマイリーがかつての関係者たちに聞き取りを繰り返すときも、その相手がどう事件に関わっていたのか、読者はなかなかわからない。スマイリーの真意が何であるか考え続けなければならず、それが読み手の体力を消耗させてくるのだ。

 さらに作中ではフラッシュバックが多用される。スマイリーは情報部に残された資料を読み返し、さらに自分の記憶とのすりあわせを繰り返す。現在の場面とスマイリーの記憶の場面が入り混じり、時系列も複雑になっていく。現在と過去を行ったり来たりするうちに今読んでいるのはいつの話なのか、曖昧になっていく。

 おまけに現在と過去の間に無数の人名がちりばめられているため、余計に混乱してしまう。

 久しぶりに本書を読み返していたとき、スマイリーとジム・プリドーが再開した場面ではたと読む手を止めた。文章中に『スティード・アスプレイ』という見覚えのある名前がでてきたが、この男が何者だったかどうしても思い出せないのだ。どこかのシーンでこの名前が出て来たはずだが、どこだったかわからない。スマイリー以前の世代のスパイだったはずだが、どこでこの名前を見たのか。

 実はこのスティード・アスプレイ、次作『スクールボーイ閣下』にも名前だけ登場していたのを発見した。また、ネットの情報によると過去作『ドイツの小さな町』にも登場しているそうだ。こうなると無性に気になって来て、シリーズをもう一度読み返そうかといいう気になってくる。

 

 以上のように、この小説は読者の注意力と記憶力をフル回転させて読まなければ、話の筋を追うのが難しい。実を言うと、何度も読み返した今でもスマイリーがどうやって二重スパイを特定したか、いまいち理解できていない。自分の貧弱な頭脳が悲しい。

 

 自分が初めて本書を読んだときも、ストーリーをあまり理解できなかった。複雑なプロットを追いかけるのがやっとで、物語の細部まで味わうことはできなかった気がする。

 ではつまらなかったのかというと、むしろ面白かった。細かい部分を把握できなくとも、一つ一つのシーンに興奮し、夢中になって読んだ。

 この作品の文章の密度、人間達のドラマは傑作『寒い国から帰ってきたスパイ』を凌駕する。多少ストーリーがわかりにくくても、ぐいぐい読ませるだけの力がある。

 

 「二重スパイは誰か?」というのが物語の主題だが、実はその正体に意外性はない。というのも「一番怪しい人間が犯人」なのだ。そこにミステリーの犯人当ての面白さはない。

 しかし、これがリアルなのかもしれない。ル・カレ自身が半生を綴った『地下道の鳩』にニコラス・エリオットの興味深いエピソードが登場する。エリオットは実在した二重スパイであるキム・フィルビーの上司であり友人だった男だ。エリオットはフィルビーこそが裏切り者であり、長年に渡って自分たちを欺いていたことを知りながら、それを指摘しようとせず、むしろフィルビーが疑いから逃れられるように手助けしたという。これは「モグラ」の正体に薄々気づきながら、気づいていないふりをしていた本作の登場人物たちと重なって見える。あまりにも大きな裏切りに直面したとき、人間はそういう行動を取るものなのかもしれない。

 この作品では、裏切られた人間たちの姿があますところなく描かれる。スマイリーが調査によって直面するのは、スパイたちの忠誠心の亡骸だ。スマイリーの愛情は妻のアンに裏切られるし、ジム・プリドーをはじめ、国のために働いたスパイたちはその国によって忠誠を裏切られる。ル・カレは確かな観察眼で、裏切りが何をもたらすか、裏切られた者たちに何が残るかを全編を通してじっくりと描き出す。

 ジム・プリドーはスマイリーの前で忘れようとしてきた情報部への不満、憤怒をぶちまける。国から切られたスパイは裏切りによってえぐられた傷跡を抱えたまま、誰にも知られないまま苦しみを隠すしかない。

 スマイリーが二重スパイの正体を探ろうとするとき、それは見えないところに埋まっていた愛と裏切りの歴史を掘り起こすことでもある。スマイリーとアン、プリドーとビル・ヘイドン、そしてスマイリーとカーラ。彼らの何年も前から続く因縁が紡ぐ糸を、手繰るとき、その糸は人々の間に沈んでいた、見たくもなかった黒い錘につながっている。

 

 そうして張り巡らされた糸をたどりながら、いよいよスマイリーとギラムのコンビは「もぐら」の正体に近づいていく。真相への最後のピースを得るためにトビー・エスタヘイスを尋問するシーンはこの小説のハイライトの一つである。大物としてふるまっていたトビーを、スマイリーは慇懃無礼なまでに穏やかな口調でなぶるように追い詰めていく。ここではスマイリーのスパイとしての腕前、冷酷さがいかんなく発揮されている(ちなみに、このシーンは村上博基訳よりも菊池光訳の方がスマイリーのいやらしさがよく出ていると思う)。

 だが、二重スパイとの対決に完全な勝利を収めかけたスマイリーは、最後に大きな衝撃を味わう。

 全ての元凶となったもぐらの正体に気づいた瞬間、全編通じて冷静だったスマイリーは初めて感情を爆発させる。自身の内側で嫌悪、怒り、共感など、国やスパイたちに向けての抑えきれない感情がほとばしった後、スマイリーはただ立ち尽くすしかない。裏切り者の真の罪深さが露呈される瞬間、ここは何度読んでも興奮させられる。

 

 ちなみに、本作の次にグレアム・グリーンの『ヒューマン・ファクター』をつづけて読むと面白いかもしれない。こちらも二重スパイをテーマにした小説だが、『ティンカー、テイラー』とは読後の印象が大きく異なる。

 『ヒューマン・ファクター』の主人公は他国との友情に従って裏切りを行う思慮深い男だ。対してル・カレが描く「もぐら」は習慣的な裏切りの行為に暗い喜びを覚えるような人間だ。

 キム・フィルビーと実際に友人だったグリーン。対してフィルビーを人格ごと嫌悪したル・カレ。二人が国を裏切ったスパイへ向ける視線はかなり異なり、それが小説にも反映されているのだろう。『ヒューマン・ファクター』も傑作なので、ぜひ読み比べてほしい。

『春琴物語』(1954 大映東京/伊藤大輔)

 

 

春琴物語 [DVD]

春琴物語 [DVD]

 

 

 映画が始まると、画面には「第二回東南アジア映画祭 ゴールデンハーヴェスト賞 受賞」という言葉とトロフィーが映し出される。これは大映永田雅一が香港ショウ・ブラザーズと発足したコンペで、現在でもアジア太平洋映画祭として存続しているようだ。こんな映画祭があったとは初めて知った。

 

 谷崎潤一郎の『春琴抄』を原作に、巨匠・伊藤大輔が撮った文芸映画である。スタッフも豪華で美術の木村威夫、音楽に伊福部昭など後に名の知られる人たちも多く参加している。

 明治時代を再現した美術も力が入っていて、見応えがある。着物から洋服、行灯からランプ、自転車はドレスを着た夫人など、明治の文明開化の有様が感じられてるのが面白い。

 ちなみに、本作は大映京都ではなく大映東京で撮影されている。理由は「純粋な明治ものをつくるため」らしいが、当時の京都撮影所に不足があったのだろうか。ここらへんの事情はよくわからない。

 

 冒頭、奉公のために商家に連れてこられた幼い佐助は、商家の娘であるお春(春琴)を見かける。手を引かれたお春が画面奥の戸を通って消えていくのを呆然と見送る佐助の後ろ姿には、運命の恋が始まった瞬間を感じさせてワクワクさせられる。しかしそれをナレーションで説明してしまうのはちょっとくどい。

 

 成長したお春は盲目だが美貌と琴の才に恵まれた。お春は佐助のことを大層気に入り、琴の習い事に行くときにはいつも佐助を付き添わせた。そのうち佐助に三味線の才能があることに気づき、お春は親に頼んで佐助を自分の弟子にしてもらう。こうしてお春と佐助は主従関係にありながら、師匠と弟子の間柄になった。佐助にとって、密かに慕うお春にこうして仕えるのは何よりもの喜びだった。

 やがてお春は琴の師匠から免許皆伝をいただき、師匠の名をもらって「春琴」と名乗るようになる。

 

 春琴と佐助は周囲から結婚を望まれるが、本人たちはそれを拒否して主従関係を維持しようとする。

 春琴が佐助に三味線を教えて師弟関係を望むのも、家庭を持つよりも自分が主人で佐助が下僕という関係の方が尊いと考えているからだろうか。ここらへんは映画を見ていて少しわかりにくかった。こういったところに谷崎潤一郎の「自虐による愉悦」が表れているのかもしれない。

 高熱で倒れた春琴が佐助に介抱されている。佐助が寝汗を拭こうと春琴の着物の裾に手を入れると、春琴が「灯りがまぶしい。消して」と頼んでくる。要するに誘いの言葉だか、そのことに気づいた佐助は息を飲み、意を決してランプの明かりを消して襖を閉める。直接的な描写はないが、このシーンはなかなかにエロい。

 こうして佐助の子供を身ごもった春琴だが、父親が誰であるかは決して明かそうとはしない。沈黙を守り続けるうちに子供は生まれ、親の知り合いに預けられるが、幼いうちに死んでしまう。

 子供が死んだことへの悲愁が軽く流されてしまうのに違和感があるが、この子供がラストでもう一度意味を持って来る。

 

 琴の教室を開くようになった春琴の元に、商売で成り上がった利太郎が頻繁に訪ねて来る。利太郎は春琴に下心を持ち、そのため自分の新築祝いにと春琴を誘い、琴を演奏させる。

 ここで主演の京マチ子も花柳喜章も見事な演奏を披露する。この映画には俳優達が舞や琴や三味線を当たり前のようにこなすシーンが数多くあるが、こういうシーンを見ると当時の俳優たちのスペックの高さに驚かされる。これは今の俳優のレベルが下がったというよりも、当時と今では映画の観客の求めるものが変わったということかもしれない。

 道を行く人たちが思わず足を止め、振り返るような抜群の演奏をする春琴を、下心を持つ利助が食い入るように見つめる。それを遠くから眺めていた女が「ボンもイカもの喰いねえ」と笑いながらいう。あまりに無邪気に投げつけられる侮辱の言葉に、当時の盲目の人に対しての差別意識がよくわかる。

 

 利太郎の誘いを厳しくはねつけた春琴は、ある事件のせいで顔面に大火傷を負ってしまった。火傷でただれてしまった顔を佐助に見られたくないと泣く春琴のため、佐助は自分の目を針で刺す。

 自分は原作小説でもこの場面が苦手で仕方なかったのだが、映画でもこのシーンは怖い。とにかく怖い。目の位置を鏡で確認し、落とさないように針に通した糸を指に巻きつけ、黒目に突き刺す。そういったディティールにも寒気がするし、徐々に暗くなって見えなくなっていく過程もゾッとする。

 

 目を潰してからの展開は蛇足の感もあるし、禍々しい愛の告白の凄みも少し薄められてしまった気もするが、ここには不幸な二人に最大限の救いを差し伸べたいというスタッフの気持ちが表れているのかもしれない。

 が、そのあとのシーンに少し心を打たれた。

 それは春琴の幼くして死んだ子の墓参りをするため、二人が佐助の故郷にやって来る場面だ。二人を出迎えようと店から佐助の父と母が店から出て来る。このなんてことのない、ごくごく短いシーンに不覚にも感動してしまった。

 年老いているが、見るからに人の良さそうな父母が「はやく、はやく」と言いながら店から出て来る。父は久しぶりの息子の顔をじっくり見るために、あわててメガネを探している。そういった二人の様子からは、善良さを感じるが、その善良さはどこまでも普通のものだ。自分は、その普通さにホッとしたのだ。

 周囲の差別的な目にひるまず、盲目の人間が二人、寄り添って生きていこうとする。そういった春琴と佐助のことを、老いた父母のような普通の人たちが暖かく出迎えてくれる。そのことに良かったなあ、本当に良かったなあと、こちらも二人の行く末を祝福したい気持ちになってきた。